その日を境にして、土方との関係は再び始まった。
 むろん、公では何も変わらない。
 相変わらず、土方は怜悧な副長の態度を崩さず、厳しく接してくるし、総司も一番隊組長としての責務を果たそうと努めた。それは二人の関係を隠すためであったが、やはり、互いの気持ちがすれ違い続けている証でもあった。
 だが、仕事を離れれば、別だった。
 忙しい隊務の合間を縫うようにして、二人は逢瀬を重ねたのだ。まるで、秘密の恋人同士のように。
 それは、広い西本願寺の一室であったり、料亭や茶屋であったり、様々だった。土方が呼び出すのが常であり、それに総司は素直に応じた。むろん、こんな躯だけの関係は虚しい。だが、恋人でない以上、総司が望めることでもなかった。
 それに、土方の機嫌が悪い時は乱暴に抱かれもしたが、だいたいにおいて彼は優しかった。
 もっとも、そのどちらの彼も総司は好きであり、抱かれるたび、彼への恋慕を自覚した。だが、片恋である事もまた、よくよくわかっていた。
 土方が何のために再び総司を抱くのかは、わからない。気まぐれなのか、彼の欲望を処理するためか、復讐のためなのか。
 束縛する事をやめてしまった彼が、かつての恋人を抱く理由など、わかるはずもなかった。
 だが、それでも、呼び出されるたびに応じてしまう。
 抱かれ、彼のぬくもりを感じて、愛しさに息がとまりそうになる。
 その翌日、行為を悔い、虚しさと寂寥感に泣く事になっても、やはり逢わずにはいられないのだ。
 殺されかけても尚、愛しい男。


 逃げたい。
 逢いたい。
 愛してる。


 相反する気持ちが総司の中で渦巻き、反発しあっていた。
 そんな切ない日々を過していた総司に、斉藤が声をかけてきたのは、その年も暮れの事だった。













「……逃げないか」
 連れ出された小料理屋の一室で、突然そう切り出され、総司は目を瞬いた。
 え?という顔で、小首をかしげる。
 それに、斉藤はくり返した。
「土方さんから……逃げないかと、聞いているんだ」
「……」
 総司は大きな瞳で斉藤を見つめた。しばらくそうして黙っていたが、やがて、ゆっくりと呟いた。
「あの人から、逃げる……?」
「そうだ」
「でも、そんな」
 ゆるく首をふった。俯き、ひざ元に視線をおとす様が透きとおるように儚い。
 土方が狂ったように執着するも、当然の美しさだった。
 総司は長い睫毛を伏せ、小さな声で答えた。
「そんなの……叶うはずがありません」
「叶わないとは、脱走すれば処刑となるからか?」
「当然でしょう。今更、云う必要もない事です」
「ならば、脱走しなければいい」
「え……?」
 不思議そうに小首をかしげる総司に、斉藤は低い声で云った。
「少し前から、オレは伊東さんに近づいている。それは、おまえも知っている事だろう?」
「えぇ」
「いずれ、伊東さんは隊を割る。何人かを連れて分離するはずだ。その時、おまえも共にくればいい。ならば、脱走とはならない」
「……」
 淡々と、些細な事であるかのように話す斉藤を前に、総司は息を呑んだ。


 伊東甲子太郎は、総司が隊を離れている間に、入隊してきた男だった。
 今、参謀という役についており、徐々に人望を集め始めている。
 土方と同じ年である彼は理知的な弁論家であり、土方と相容れぬものがあった。否、それどころか、明らかに敵対している。
 その伊東についてゆくという事は、完全な裏切りだった。
 試衛館派の筆頭である総司に対して、土方を裏切れと云っているのだ。


「なに…を」
 総司は呆然と、斉藤を見つめた。
「いったい、何を……云っているのです。伊東先生についてゆくなんて、そんな」
「藤堂も仲間の一人だ。他にも大勢いる……皆、今の新撰組のあり方に疑問を感じているんだ」
「それ…は、わかります」
 声が掠れた。
「様々な考えがあるのは当然です。でも、斉藤さんが私に云っているのは、そういう事じゃないでしょう? 土方さんを裏切り、逃げ出さないかと……云っているのでしょう?」
 総司の言葉に、斉藤は目を眇めた。しばらく黙っていたが、やがて、低く答えた。
「……そうだ」
「斉藤さん……」
「今のおまえを見ていると、オレは辛い。あの時、やはり江戸へ帰すべきだったと悔いてばかりだ」
 斉藤は一瞬きつく唇を噛んでから、総司をまっすぐ見つめた。
「総司」
「はい……」
「おまえは、辛くないのか。あの人から……逃げ出したいと思わないのか」
「──」
 斉藤を見つめる総司の目が、微かに潤んだ。だが、すぐに長い睫毛を瞬かせると、それを隠すように俯いてしまう。

 膝上に置いた手をじっと見つめ、やがて、小さな声で答えた。
「……わかりません」
「……」
「逃げたいのか、傍にいたいのか。私自身……もうわからないのです。あの人を愛している事は確かだけれど、でも」
 それきり黙り込んでしまった総司に、斉藤は静かに寄りそった。手をとり、優しく握りしめる。
「辛い事を云わせてしまった。もう、やめにしておくよ」
「斉藤さん……」
「だが、これだけは覚えていてくれ。オレは総司の傍にいる。おまえのためなら、何だってしてやる。総司……おまえを守るためなら」
「……」
 斉藤の言葉をじっと聞く総司の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。小さく頷き、その肩口に顔をうずめる。
 震える細い肩を抱きながら、斉藤はきつく唇を噛みしめていた。












 西本願寺の屯所は広い。
 人目を避けて逢うのに事欠かなかったが、総司は不安でたまらなかった。
 逢えるのは嬉しいのだが、誰かに見られたらと思うと、躯が竦んでしまうのだ。
 そのため、土方が総司を抱こうとしても、なかなか躯がほぐれず、痛みに泣かせてしまう事が多かった。それ故か、最近は、あまり屯所では抱かれていない。
 屯所で呼び出されたりしても、抱きしめられたり接吻されたりするだけだった。
 だが、総司はそれでも嬉しかった。
 まるで、秘密の逢瀬を重ねる恋人たちのようで、一時でも昔に戻ったような幸せを感じることが出来たのだ。
 斉藤から話をされた翌日の事だった。
 廊下を歩いていた総司は、黒谷から帰ってきた土方と行き会った。慌てて一礼すると、冷ややかなまなざしを向けられる。
 怜悧な表情ですれ違ってゆく土方に、切なくなりながら俯いた瞬間だった。
 不意に手首を掴まれ、引き寄せられたのだ。
「……え?」
 驚いて顔をあげれば、土方は切れの長い目で総司を見下ろしていた。その黒い瞳が熱っぽさを湛えている事に気づき、息を呑んだ。
「土方…さん……?」
 そう呼びかけたとたん、土方が微かに顔をゆがめた。だが、すぐさま引きずるようにして、廊下を歩かされる。
 総司は訳がわからぬまま、土方に連れてゆかれた。何度も見上げてみるが、彼の広い背は冷たく総司を拒絶しているようだ。


(何? 何か……私のこと、怒っているの?)


 一番初めに思ったのは、斉藤との事だった。
 斉藤からの誘いが、土方にばれてしまったのではないだろうか。
 だが、それでも、総司自身はまだ返事もしていないのだ。
 不安に震えながら行き着いたのは、奥の空き部屋だった。辺りに人気のないその部屋に総司を連れこむなり、土方はぴしゃりと後ろ手に障子を閉めた。
 しんと静まり返った部屋に、互いの息づかいだけが響く。
 土方はゆっくりとふり返った。鋭い視線をむける。
「……っ」
 狙った獲物を見据えるような男の瞳に、総司は声を呑んだ。
 それに、土方はゆっくりと手をのばした。
 薄暗い部屋の中で、総司の細い手首がつかまれ、強引に引き寄せられる。
「……ぁ、やっ」
 思わず抗った総司に、土方は短く舌打ちしたようだった。だが、きつく抱きしめられれば、もう抗えない。
 男の力強い腕と、包みこむようなぬくもりに、躯の力が抜け落ちてゆくのを感じた。広い胸に抱きこまれ、心地良さに安堵の吐息をもらす。
「……総司……」
 髪や背を撫でる大きな掌に、ほっとして目を閉じた。


 彼の手は優しい。
 ならば、斉藤からの誘いがばれた訳ではないのだろう。
 ただ、自分が欲しくなっただけ。求めてくれただけ。
 それこそ、自分も望んでいる事だから……。


 安堵した総司は、土方の肩口に頭を凭せかけ、甘えたな仔猫がじゃれるように擦りつけた。両手を彼の背にまわし、ぎゅっとしがみつく。
 愛らしく甘えてくる総司に、土方も気持ちが和らいだようだった。優しい口づけをあたえ、そっと抱きしめてくれる。 
 何度も口づけられ、抱きしめられた。いつしか、二人して畳の上に坐り込み、口づけをかわしあう。
「ぁ…んっ……っ」
 深く唇を重ねられた。舌をからめ、甘く柔らかく舐めあげてくる。
 腰奥を甘い痺れが走り、思わず男の胸もとにぎゅっとしがみついた。着物に皺がよるほど縋りついてから、はっと我に返る。
「……ご、ごめんなさい……っ」
 不意に身を起した総司に、土方は驚いた。
「何だ、どうした」
「着物が……羽織を汚してしまいます」
「……あぁ」
 土方は苦笑し、己の恰好を見下ろした。
 確かに、黒谷から帰ってきたばかりのため、土方はいつもと違う身なりだった。黒羽二重の羽織に、黒の小袖、仙台袴を身につけている。
 粋に着流す姿もこの男特有の色香を纏いつかせているが、こういう禁欲的な姿も危うい艶を漂わせ、惚れ惚れするほどの男ぶりだった。 
 総司を抱きしめた事で少し着崩れている様がまた、何とも魅力的だ。
「着物など、幾らでも代えられるさ」
「だって……」
「おまえの方がずっと大事だ」
 そう囁いた土方は、再び、総司の細い躯を抱きすくめ、首筋に顔をうずめた。唇を押しつけ、甘く吸いあげてくる。 
 ぞくりとするような痺れに、総司は小さく喘いだ。男の広い背に手をまわし、ぎゅっとしがみつく。
 誘うように躯を擦りよせれば、土方が低く笑った。
「どうした、やけに甘えただ」
「ん……」
「可愛いな」
 珍しく素直に甘えてくる総司に、土方は目を細めた。大きな瞳で見上げれば、嬉しそうに笑い、なめらかな頬や耳裏に口づけを落としてくれる。
 それを心地よげに受けながら、思った。


 素直に甘えられるのは、皮肉な事だが、斉藤の言葉故かもしれなかった。
 さし出された一つの逃げ道。
 それを選ぶかどうかはともかく、土方との関係に思い悩む総司にとって、小さな救いになった事は明らかなのだ。
 脱走や死以外にも彼から逃げる道はあると、そう教えてくれた斉藤に感謝せずにはいられない。
 むろん、それが土方への裏切りである以上、できるはずもなかった。愛する彼をこれ以上傷つけるなんて、思っただけで胸が痛くなる。
 憎まれても何があっても、彼だけを愛しているのだから……。


 そんな事をぼんやり考えていると、土方は総司を抱いたまま、畳の上へ腰をおろした。胡座をかき、膝上に抱きあげてくる。
「……あ」
 幼い子どもの頃のように膝上に抱かれ、総司は羞恥に頬をそめた。慌てて降りようとするが、土方は許してくれない。細い腰に腕をまわし、背を優しく支えた。
「おとなしくしろ」
「や、降ろして」
「何故」
「恥ずかしいです……こんな」
 言葉どおり顔を真っ赤にして羞じらう総司に、土方はくっくっと喉を鳴らした。耳朶を噛むようにして、囁きかける。
「誰も見てねぇよ」
「だって……」
「昔も、よくこうしてやっただろう?」
「──」
 土方の言葉に、びくんっと躯を震わせた。
 昔というのがいつの事か、すぐわかったのだ。幼い子どもの頃の話ではなかった。
 この京に来てから、恋人になった頃のことだ。
 副長室で睦みあった時、よく膝上に抱きあげられた。彼の膝上で甘え、抱きしめられ、優しい口づけを何度もあたえられたのだ。
 だが、土方があの頃の事に言及するのは珍しく、思わず怯えたように彼を見上げてしまった。
 表情に出てしまったのだろう。土方がふっと唇の端をあげた。
「……昔の事なんざ、云われたくねぇか」
「土方、さ……」
 違うと云いかけた総司に、土方は目を細めた、冷えた声音でつづける。
「おまえにすれば、忌まわしい記憶だ。俺の恋人だった時の事など、思い出したくもねぇよな」
「……っ」
 目を見開いた総司に、土方はかるく肩をすくめた。そのまま総司の頭に手をあて、引き寄せてくる。
 それに従いながら、総司は躯が固くなるのを感じた。胸奥が痛くなり、泣き出したくなってしまう。


 思い出したくないのは、彼の方ではないのか。
 昔とは違うのだ。
 あの頃と同じように抱きしめられても、そこにあるのは虚しさばかりだった
 あんなにも愛してくれた優しい恋人は、今や、誰よりも自分を憎んでいる。
 裏切りや傷つけた事を思えば仕方ないが、それでも、時折むけられる刺すような視線や、冷たい言葉に、胸を抉られた。
 今の土方は、まるで、とらえた小動物を嬲って楽しむ獣のようだ。


 総司はきつく唇を噛みしめた。
 いつまで?と思った。
 こんな日々がつづいていく事に、いつまで堪えられるのか。
 彼を裏切った事への贖罪だとわかっていた。だが、それでも、心傷つけられるのは、土方を心から愛している以上、当然のことだった。
 優しく微笑みかけてくれたかと思えば、こうして冷ややかに突き放されて。
 夢のような甘い一時に舞い上がり、そして又、冷たい地獄へ突き落とされる日々に、これからも堪えてゆけるのだろうか。
 ずっといつまでも、この人に囚われたまま生きてゆくのだろうか。


『飼い殺しにしてやるよ』


 あの時、云われた言葉が不意に蘇った。
 その通りなのだ。
 本当に、あの言葉どおり、自分は飼い殺しにされている……。


 堪えようと思った涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。
 必死に嗚咽を堪えるが、土方の肩を濡らしたことで、泣いていることに気づかれてしまう。
「……」
 土方が微かにため息をついたようだった。それが呆れたように感じられ、ますます涙がこみあげる。
 総司は顔を伏せたまま、身を捩った。土方の膝上から畳へすべり降りようとする。
 だが、それを土方は許さなかった。細い腰に両腕をまわし、囲うようにして抱きすくめてしまう。
「……はなし、て」
 震える声で云った総司に、土方は眉を顰めた。そのまま、濡れた頬に口づけると、低い声で囁く。
「すまない」
「……」
 総司は泣き濡れた目を見開いた。


















次、お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいませね。