慌てて顔をあげれば、土方は酷く怜悧な表情で、こちらを見下ろしていた。
 それに、胸の奥が鋭く痛む。震える唇で、彼の名を呼んだ。
「……土方…さん……?」
 だが、縋るように呼んだ総司に、土方は唇の端をあげた。
 この男の中にある残酷さを思い知らせるような冷笑。
 冷たく澄んだ黒い瞳が、まっすぐ総司を見据えた。
「成程、その通りだな。おまえは俺とつきあう事にしたのも、淋しさゆえだ。なら、俺に抱かれることも、その延長線上にあって当然か」
「そうじゃないの。土方さん、私は」
「今更、弁明は無用だ。お互いさまでいいじゃねぇか」
「お互いさまって……」
「俺も同じということさ」
 土方は喉奥で低く嗤った。
「もともと、おまえが淋しいと云ったからこそ、恋人となったんだ。当然、昨夜の事もその一環だ」
「土方さん……」
「非難される謂れはないぜ? おまえだって気持ち良かったんだろ? 楽しめただろう? それで良かったじゃねぇか」
「……」
 総司は唇をわななかせた。


 これでは、まるで施しだった。
 まさに、土方は云っているのだ、同情や憐憫で抱いてやったのだと。
 その上で、楽しめただろう? と聞いてくる男の残酷さに、躰中が震えた。


 呆然と坐りこんでいると、土方は目の前で立ちあがった。
 大股に部屋を横切り、さっさと着替えを始める。一人で帰るつもりなのは、明らかだった。
「土方さん、待って」
 思わず呼びかけた総司に、土方は冷たい一瞥をむけた。ふっと、形の良い唇が笑みをうかべる。
「まだ、俺に何か用なのかよ」
「土方…さん」
「淋しがるから抱いてやった。それで? これ以上、俺に何を求めるんだ」
「……」
 総司は目を見開いた。


 胸を突かれた想いだった。
 自分の自惚れ、罪深さを指摘された気がしたのだ。否、実際にそうなのだろう。
 淋しいからと彼に縋り、懇願して恋人にしてもらった挙句、契りまで結んでもらったのだ。それで、これ以上、彼に何を求めるつもりなのか。
 わかっていた。
 本当は、彼に求めたいものがあるのだ。心の奥底から、泣き叫びたいほど求めているものがある。
 だが、それが総司に与えられることは永遠になかった。


「……何もありません」
 小さな声で答えた。
「あなたに、これ以上求めるものはありません。昨夜は……ありがとうございました」
 そう云って頭を下げた総司を、しばらくの間、土方は無言で見つめているようだった。だが、やがて、すっと踵を返し、部屋を出て行ってしまう。
 次に、総司が顔をあげた時、部屋の中に土方の姿はなかった。
 本当に、彼は立ち去ってしまったのだ。
「……っ……」
 嗚咽がこみあげた。
 淋しくて辛くて切なくて、涙があふれる。
 それを拭おうともせず、総司は泣いた。幼い子供のように。


 自分の愚かさが、罪が、憎かった。
 彼を傷つけ、自分も傷つけてしまう弱さが、心底憎い。
 どうして、こうなってしまうのか。
 昨夜は、あんなにも幸せだったのに。
 愛する男の腕の中で、永遠さえも願ったのに。


「……土方…さん……っ」
 総司は唇を噛みしめ、己の躰を両手で抱きしめた。












 信じられなかった。
 夢のような一夜の翌朝、問いかけに返された答えに、土方は愕然となった。
 淋しかったから抱かれた――などと。
 男としての矜持も何もかも、叩き壊された気持ちだった。
 何度も愛していると囁いた。想いの丈をこめて、愛しんだ。
 なのに、返された答えはこれなのだ。
 自分は、総司にとって、その程度の存在なのか。淋しさを紛らわすための、道具にすぎないのか。
 屈辱と怒りがこみあげ、気づけば、酷い言葉を総司に投げつけていた。
 それしかもう、己を保つ術がなかった。でなければ、今にも総司の肩を掴んで揺さぶり、激しく怒鳴りつけてしまいそうだった。
 挙句、総司は土方に、もう何も求めることはないと云ったのだ。遊女のように床の礼を云って頭を下げた総司に、憎しみさえ覚えた。
 どうして、この愛らしい若者は、こんなにも残酷なのか。


 屯所に戻った土方は、すぐさま自室に閉じこもった。
 己を落ち着けようとするが、そのすぐ傍から、怒りが屈辱がこみあげてくる。
 昨夜の夢のような喜びなど、欠片もなかった。
 ずっと愛してきた者を抱いたというのに、このざまとは、情けない限りだった。
 遠く鐘の音が鳴る。
 隊服に着替えを始めた土方は、だが、次第に苛立ちがつのるのを感じた。今朝、宿屋で荒々しく着つけたことを思いだしてしまったのだ。
 その後の、総司との会話も。
「……畜生……っ」
 とうとう堪え切れず、手にしていた帯を畳にたたきつけた。
 だが、そんな己自身にも嫌気がさし、荒々しく腰を下ろすと、くしゃりと黒髪をかきあげた。


 考えれば考えるほど、総司にも己にも腹がたってくるのだ。
 どうして、こんなふうになってしまうのか。
 本当なら今頃、総司を労わりながら、睦言をかわしているはずだったのに。


「俺は……本当に狂っているな」
 苦々しく呟いた。
 総司という花に、狂わされているのだ。
 愛しくて憎らしい若者に、ふりまわされ、こんな屈辱をあたえられ、それでも愛さずにはいられない。この手をさしのべずにはいられないのだ。
「今頃、宿を出た頃か」


 支払いはもちろん、宿から屯所への駕籠も手配済だった。
 宿を発つ時、土方が命じておいたのだ。
 あの躰で帰れるはずもないと思ったからこその配慮だったが、総司はいったいどう思ったか。また、あの大きな瞳で彼を見上げ、他人行儀に礼を云ってくるのか。
 それを思うと、苛立ちがよりつのった。
 だが、一方で不安もあった。宿に残してきたが、本当に、総司は隊へ戻ってくるのだろうか。あのまま伊庭のもとへ行くなどという事は、ないのだろうか。
 そんな嫉妬に苦しむぐらいなら、総司を残してこなければよかった。
 だが、あれ以上、あの場にいたら、自分が何をするかわからなかったのだ。


 土方はため息を吐き、もう一度、隊服を着付け直した。
 気持ちを切り替えるように帯を締め、襟元を癇性なほど合わせる。
 しばらくすると、監察の山崎が部屋を訪れてきた。いつもの日々が始まる。
 昼前、幹部のみの打ち合わせがあった。広間に向かいながら、土方は、総司の姿がそこにあるのだろうかと危惧した。
 仕事熱心な総司のことだ。そんなはずはないと思いつつ、そのまま伊庭の元へ逃げたのではないかと、つい考えてしまう。
「……」
 広間に入ってすぐ、土方は視線を走らせた。
 もう幹部のほとんどは集まっている。その中に総司の姿をみとめ、ひそかに息を吐いた。
 とりあえず戻ってきたことに、安堵を覚えたのだ。
 むろん、そんな感情の一端たりとも、土方は他者に伺わせない。冷たいほどの無表情のまま広間を横切ると、己の席につき、書類をめくった。
「……」
 土方の隣が、総司の席だった。何を思うのか、総司は黙ったまま目を伏せている。 
 打ち合わせが始まっても、総司は一言も口をきかなかった。もっとも、私事では明るくお喋りな総司だが、仕事の事になると、極端に口数が少なかった。必要最小限の事しかいつも話さぬため、誰も疑問に感じない。
 ただ、常より更に感情のない声で話す土方と、その隣で青ざめた顔で押し黙る総司の様子に、近藤は心配げな視線を走らせた。
 そのためか、打ち合わせが終わるとすぐ、出ていこうとした総司を引き留めた。
「総司……体調はどうだ」
 立ち上がりかけていた総司は、近藤に声をかけられ、慌てて坐りなおした。きちんと向き合い、頭を下げる。
「ご心配をおかけしています。でも、大丈夫です」
「医者には行っているのか」
「はい」
「そうか、無理だけはするなよ。顔色があまりよくないぞ」
「お気遣い、ありがとうございます」
 総司が礼を云った瞬間、すぐ近くで黙ったまま書類を整理していた土方が、微かに眉を顰めた。だが、すぐ何事もなかったように書類を纏め、立ち上がる。
 さっさと出ていく土方を見送り、近藤は総司の傍に膝をすすめた。その顔を覗き込む。
「……歳と何かあったのか」
「――」
 総司の目が見開かれた。さっと、その頬が強張る。
 それを認めながら、近藤は眉を顰めた。
「昨夜、二人ともに外泊届を出しただろう。もしや、歳に無理強いでもされたか」
「こ、近藤先生」
 総司は顔を赤くし、狼狽えた。まさか、恩師である近藤にまで知られているとは思ってもみなかったのだ。
 それに、近藤は苦笑した。総司の気持ちを落ち着かせるように、ぽんぽんと肩を叩く。
「おまえたちのことだ、おれが知らん訳がないだろう。歳からも打ち明けられていたしな」
「土方さんに……」
 驚き、近藤を見た。
 土方が己の私事を誰かに打ち明けるなど、珍しいことなのだ。
 だが、近藤相手なら、当然かと思った。二人は幼い頃からの友であり、何もかもわかりあった仲なのだ。
 そんな彼らの絆の強さにさえ嫉妬してしまう自分を恥じつつ、総司は目を伏せた。
「無理強いなどされていません……私も望んだことですから」
「なら、何故、そんな沈んだ様子でいる」
「私が土方さんを怒らせてしまったからです。私が皆、悪いのです」
 膝上に置いた手をぎゅっと握りしめた総司を、近藤はしばらくの間、黙って見守っていた。だが、やがて、嘆息すると、言った。
「総司、おまえは歳と同じだな。本当によく似ている」
「私が土方さんと……?」
「二人とも不器用で、思い込みが激しすぎる。何もかも決めつけて、己の物差しだけで測っているようだ」
「己の物差しだけで……?」
「おまえたちの間に、何があったかはわからない。だが、歳には歳の、おまえにはおまえの物差しがある。それぞれ、己の物差しだけで相手を推し量ろうとすれば、無理が出てくるのは当然のことだぞ」
「近藤先生」
「これはな、京に来てから得た交渉術の一つだ」
 くすっと笑ってから、近藤は立ち上がった。もう一度だけ総司の肩を軽くたたいてから、歩み去ってゆく。
 総司は近藤の後ろ姿を見送り、そっと目を伏せた。












 彼は本当に優しかった。
 あんな愚かな事を口にして彼を怒らせてしまった自分なのに、それでも、まだ気遣ってくれるのだ。
 土方が手配してくれた駕籠で屯所に帰りつくと、門前で斉藤と行きあった。総司の青ざめた顔を見たとたん、心配そうに駆け寄ってくる。
「どうした、何かあったのか」
「何も……」
 門をくぐりながら、総司は小さく首をふった。
「別に、何もありません」
「嘘をつけ。それが何もないって顔か」
 斉藤は嘆息し、手をのばした。総司の腕を掴み、引き留める。
 屯所の中に入れば、人目がありすぎた。西本願寺の境内で話した方がまだ話しやすい。
 本堂の裏の陰になった部分に坐らせ、斉藤は問いかけた。
「昨夜、外泊してきただろう? いったい何があったんだ」
「斉藤さん……」
 総司は長い睫毛を伏せた。
「この間、私、話しましたよね。土方さんと私、念兄弟じゃなかったと」
「あぁ」
「でも、あの後、恋人になったのです。ううん、土方さんが私の恋人になることを、承知してくれたのです」
「? その回りくどい云い方の意味は何なんだ」
 訝しげな斉藤に、総司が小さく笑った。
「つまり、土方さんは私が淋しいと云ったから、恋人になってくれたのです。好きでもないのに、弟としてしか思っていないのに、それでもいいからと恋人になり、そして、昨夜……私と契りをかわしてくれました」
「……」
 思わず斉藤は黙り込んでしまった。


 さすがに、衝撃だったのだ。
 確かに、ずっと総司は土方のものだと思っていた。とうの昔に、土方の手によって男を教えられていると思い込んでいたのだ。
 だが、こうしてあらためて今、男と契りを交わした事を聞かされれば、総司に片思いしている斉藤が心穏やかでいられるはずがなかった。
 だが、その感情を、総司にむける訳にはいかない。否、むける気もなかった。
 嫉妬よりも、愛する男と契りを結んだはずの総司が憂い顔でいる様子が、気になって仕方なかったのだ。


「……それで?」
 斉藤は静かに問いかけた。
「おまえは、それらすべてを、土方さんに申し訳ないとでも思っているのか」
「思っています」
「総司」
 思わず声を荒げた。
「おまえ、男の気持ちってのが全然わかっていない。申し訳ないなんて思われて、喜ぶ男がいると思うのか。土方さんはおまえを恋人にしたのだろう。なら、あの人は何らかの決着をつけたはずだ。それを、まだ申し訳ないなんて、どうして考えるんだ」
「だって……!」
 総司は顔をあげた。
「私はこんな病もちだし、娘じゃないんですよ。子どもだって産めないし、あの人の妻にもなれない。そんな私を恋人にしていいはずがないじゃない。今の土方さんなら、どんな良家の綺麗な女性だって娶ることが出来るはずです。なのに、私に縛りつけられて、それも弟がわりの私が縋ったから、可哀想で突き放せなかったから、だから……」
「だから、恋人にしたと土方さんが云ったのか。それを、おまえは聞いたのか」
「聞いた訳じゃありません。でも、今朝、土方さんが云ったのです。淋しがるから抱いてやったって、これ以上、俺に何を求めるんだって」
 その時のことを思いだしたのか、総司の瞳が潤んだ。
「何も云えなかった……私、これ以上、土方さんに求めるなんて、そんな酷いこと。恋人になってくれたのに、契りも結んでくれたのに、なのに……っ」
「総司」
 斉藤の手が総司の肩を掴んだ。顔をあげさせ、覗き込む。
「本当に、土方さんはそんな事を云ったのか。淋しがるから抱いてやった、これ以上何を求めるんだって」
「はい……」
 答えた瞬間、斉藤の顔色が変わった。勢いよく立ち上がると、石段を下りて歩き出そうとする。
 それに、総司は慌てて縋りついた。
「ま、待って……斉藤さん、どこへ行くのです」
「決まっているだろ、土方さんの処だ」
「だめ! そんな……あの人が悪いんじゃない。全部、私が悪いのです」
「どうして、おまえが悪いんだ。何も悪くないだろう」
「だって、最初に云ったのは、私なのです。淋しいから恋人になってほしいと云ったのも、どうして抱かれたと聞かれて、淋しかったからと答えたのも……」
「……何だって?」
 斉藤はふり返り、総司を思わず凝視した。