「淋しかったからと……答えた?」
低い声で訊ねた斉藤に、総司はこくりと頷いた。
桜色の唇を震わせつつ、言葉をつづける。
「淋しかったのです。土方さんと恋人になれたけど、でも、どこか余所余所しくて……本当の恋人じゃないから、当然なんだけど。土方さんは祇園や島原に通うし、私は伊庭さんと逢っているし、本当に恋人なのかなと思うことが多くて……それで、契りを結んだら、少しでもあの人に近づける気がしたのです。これ以上、あの人を縛りたくなかったけど、でも……」
「総司、おまえ」
斉藤は思わず片手で顔をおおった。
「それ、土方さんに云ったのか。いや、どうせ云ってないよな。ただ、淋しかったから抱かれたと答えただけなのだろう?」
「そうです」
素直に頷いてみせる総司に、斉藤はため息をついた。
総司も同性のはずだった。
だが、受け身の立場にいるためか、男の気持ちや衝動がまるで理解できないのだ。
淋しいから抱かれたと云われ、矜持を傷つけられない男がいるだろうか。
明らかに、土方は総司を愛していた。
それこそ、狂ったように愛しているのは、斉藤の目から見ても明らかだったのだ。
その彼が総司を抱いたのは、当然、愛しているからだろう。
なのに、その答えが「淋しかったから」では……
「おまえ、一度、土方さんと話した方がいい」
そう云った斉藤に、総司は怯えたように首をふった。
「そんなの無理です! 土方さん、怒って先に帰ってしまったし……」
「最後に何か云っていたのか」
「何も。駕籠は用意してくれていましたけど」
「なら、まだ余地はある訳だ。ちゃんと逢って話してこいよ」
「……っ」
総司は唇を噛みしめ、俯いてしまった。きっと不安なのだろう、怖いのだろう。
当然のことだが、総司も傷つきたくないのだ。一番隊組長として勇敢に戦う姿からは、想像もできなかった。
だが、当然のことなのだ。誰でも、己が一番愛しい相手からの刃には傷つく。
土方も傷ついただろうが、総司もまた深く傷ついているのだ。
「……総司」
それ以上、何も云う気になれず、斉藤は手をのばした。そっと総司の細い肩を抱いてやる。
しばらく黙っていた総司が、やがて、小さな声で云った。
「ありがとう……斉藤さん」
「オレは何もしてないよ」
「でも、話を聞いてくれました。それだけで……」
柔らかな花のように微笑う総司に、斉藤は目を細めた。そして、今更ながら、他の男との恋愛の相談相手にしかなれぬ自分を、切なく思ったのだった。
数日後、伊庭から文が来た。
総司は土方との事もあり、少し躊躇ったが、それを受けることにした。
落ち合った場所は、清水寺近くの坂下だった。二人で清水寺へ詣でることになる。
ゆっくりと門をくぐりながら、総司は云った。
「この間はすみませんでした。せっかくの誘い、断ってしまって」
「あぁ」
伊庭はかるく肩をすくめた。
「そうなるだろうなと思っていたよ」
「え?」
「あの前に、土方さんと黒谷で逢って、けん制をかけられたからさ」
「……」
総司は目を見開いた。
まさか、土方と伊庭があの日に逢っているとは、思ってもみなかったのだ。
だが、だからだったのかとも思う。土方と伊庭の誘いが重なり、あんなにも彼も強引だったのだ。
それが伊庭への競争心ゆえか、総司への気持ちゆえか、まるでわからなかったけれど。
伊庭はちらりと総司を見やった。僅かに目を細める。
だが、自分が気づいたことには言及せぬまま、明るい口調で云った。
「まぁ、土方さんは総司の念兄だ。他の男と逢うのが許せなかったんだろうよ」
「以前……好きにすればいいと云わました」
小さな声で、総司は答えた。
「私が伊庭さんと逢うのも、私の勝手だと。自分が口出しすることではないだろうと」
「それが本心かねぇ。あの時も、すげぇ目で凄まれたぜ? いや、男前が凄むと、怖いね」
冗談めいた口調で話す伊庭だが、その状況が目にうかぶようだった。
総司に対しては優しくて甘い土方だが、新選組副長として振る舞う時、恐ろしいほど冷徹になるのだ。
男としての凄みに圧倒されたこともあった。
その上、先日の出来事だ。あれ程、冷ややかなまなざしを向けられたのは、初めての事だった。
思いだすだけで、胸の奥がしんと冷たくなる。
清水の舞台にあがり、欄干に凭れかかった。眼下に色づき始めた紅葉が広がる。
それを眺めながら、総司は口火をきった。
「伊庭さん」
呼びかけると、伊庭は総司をふり返った。それを、まっすぐ見つめた。
「教えて下さい」
「何を」
「以前、伊庭さんが私に教えると云ったことです」
「……」
伊庭の目が見開かれた。しばらく黙った後、眉を顰める。
彼にしては低い声が、問いかけた。
「……本気かい?」
「はい」
「土方さんの念弟になったんだろ? なのに、どうして今更、そんな事を」
「私は……」
ぎゅっと両手を握りしめた。
「あの人と別れようと思っています」
「別れる?」
「これ以上、土方さんを束縛したくないのです。無理強いしたくないのです。私のために……土方さんに迷惑をかけるのが辛くてたまらない」
「よく意味がわからねぇよ」
伊庭は片手で髪をかきあげ、顔をしかめた。
「土方さんと念兄弟になることが、何で、束縛や迷惑になるんだい?」
「伊庭さんも聞いたでしょう?」
総司は微かに笑った。
「あの人の言葉を。土方さんは、私を弟としか思っていないのです。なのに、私が懇願したから、恋人になってくれた。優しく接してくれた。でも……もうこれ以上、無理強いする訳にはいかないのです。好きでもない相手を恋人として、抱いて、そんなの酷すぎる」
「つまり、何かい」
欄干に腕をかけて寄りかかりながら、伊庭は嘆息した。
「おまえは土方さんに惚れている。けど、土方さんはおまえを弟としか思っていない。なのに、おまえに頼まれたから念兄弟になってくれて、契りも結んだ。これ以上、無理強いするのは申し訳ないから、別れようと……」
しばらくの間、伊庭は黙っていた。だが、やがて、小さく苦笑する。
「それ……本当、かねぇ」
「え?」
「いや、こっちの話。とにかく、おまえは土方さんと別れるつもりなんだろ? で、その口実として、おれの念弟になっちまいたいと」
明るい口調で何でもない事のように云う伊庭に、総司は唇を噛んだ。
「伊庭さんにも、酷い話ですよね。私……」
「いや、おれはおまえの傍にいられればいいのさ。それぐらい、惚れているからね。おまえの気持ちがここになくても、構やしねぇ。ただ、総司に惚れている、それだけなんだ」
臆面もなく云ってのけた伊庭は、くすっと笑った。手をのばし、総司の頬にふれる。
「まぁ、総司の初めての男になれなかったのは、残念だけどね」
「初めてって……」
顔を真っ赤にしてしまった総司に、伊庭は笑い声をあげた。それから、細い肩を抱き寄せて歩き出しながら、問いかけた。
「じゃあ、今から茶屋にでもしけこむかい?」
「え」
総司の頬が強張った。いきなりとは思わなかったのだろう。思わずたたらを踏んでしまう。
それを、伊庭は一瞥した。
「嫌かい?」
「い、嫌って訳じゃ……」
「じゃあ、決まりだ。少し離れれば、いい茶屋がある。そこで契りを結ぼうぜ」
「……」
総司は返事もできなかった。
確かに、伊庭の念弟になろうと思った。
他の男のものになることで、土方と別れようとしたのだ。
だが、いざとなると、躰が強張った。心の奥で何かが激しく抵抗していた。
すうっと指さきが冷たくなる。
それを知ってか知らずか、伊庭は総司を連れて清水寺を出た。駕籠をひろって街中に戻る。
伊庭が連れて行ったのは、江戸で云うところの出会い茶屋だった。
男女が逢引のために使う場所だ。
「……」
総司は駕籠を降りると、きゅっと唇を噛みしめた。
もうここまで来た以上、後戻りは出来ないのだ。自ら望んだことでもあり、言葉を違えるのは嫌だった。そして、これは己の中でけじめをつけるためでもあるのだ。
「総司?」
暖簾をくぐりかけた処で、伊庭がふり返った。訝しげに、こちらを見ている。
それに、総司は「はい」と返事をし、足を早めた。だが、とたん、後ろから腕を掴まれた。
ぐいっと乱暴に引っ張られ、無理やりふり向かされる。
「……え?」
驚いて均衡を崩した総司は、路上に転びそうになった。それを男の逞しい腕が抱きとめる。
慣れた匂い、感触に驚き、息を呑んだ。
慌てて顔をあげたとたん、さぁっと血の気がひいた。
「ひ、土方さ……っ」
そこにいたのは、今まさに裏切ろうとしていた恋人だった。
思わず後ずさった総司を、だが、土方は許さなかった。両手首を掴んで引き寄せ、鋭い視線をあててくる。
「……こんな処で何をしている」
感情を殺した低い声に、身の内が震えた。切れの長い目の眦がつりあがり、その黒い瞳は激しい怒りが湛えられている。
むろん、あらためて聞くまでもなく、土方もわかっているのだ。
伊庭と一緒にいること、茶屋に入ろうとしていたこと。それが意味することなど、わかりきっていた。
「……っ」
何も云えず瞼を閉じた総司に、土方はより苛立ったようだった。短く舌打ちし、声を荒げる。
「答えろ! 総司」
「土方さん」
横合いから遮ったのは、伊庭だった。戻ってくると、土方に向かう。
「総司が望んだことだ、あんたが口だしすることじゃねぇだろ?」
「俺はこいつの念者だ」
きっぱりと云いきった。
「その念弟が他の男と茶屋へしけこもうとしているんだ、追及して当然だろう」
「念者ねぇ」
伊庭は肩をすくめた。
「生憎、総司の方はそう思ってないみたいだぜ? 何しろ、今もあんたと別れる算段をしていたところだ」
「――」
土方の目が見開かれた。信じられぬ事を聞いたとばかりに、愕然とした表情で、総司を見下ろす。
しばらく黙った後、喉にからんだような声が訊ねた。
「本当か……?」
「……土方さん……」
「本当に、おまえは……俺と別れるつもりなのか。それで、伊庭に抱かれようとしたのか」
「……はい」
小さな声だった。だが、それでも、総司は答えた。
ここで揺らぐ訳にはいかなかった。せっかく決意したのだ。この人を自由にしてあげるのだと。
「……っ」
総司の答えに、土方は苦痛を感じたように顔を歪めた。呆然とした表情で、総司を見下ろしている。
一瞬、手首を掴む力も緩んだ。
それに、総司は逃れようとした。身を捩り、彼から離れかける。
だが、それは一瞬のことだった。
「……っ、土方…さ……っ」
あっと思った時には、男の胸もとに抱きすくめられていた。まるで守るように総司の頭を手のひらでおおい、己の肩口に力づくで押しつける。
そうして、鋭い瞳で伊庭を睨みすえた。
「……こいつは渡さん」
彼の腕の中で、掠れた低い声を聞いた。まるで、手負いの獣のような声を。
「総司は俺のものだ。誰にも渡さねぇよ」
「……」
しばらくの間、伊庭は無言だった。黙り込んだまま、土方を見ている。
やがて、僅かに嘆息すると、云った。
「今日の処は退散するよ。興が冷めちまった」
「伊庭さん」
「総司、またな」
ひらりと手をあげてから、伊庭は歩み去っていった。それをぼんやり見送っていると、きつく肩を掴まれた。無理やり振り向かされる。
見上げると、土方は情事の時のような獣じみた瞳で、総司を見下ろしていた。このまま喰らいつくされそうな錯覚さえ覚える。
「……総司、おまえは……」
だが、そのまま言葉が途切れた。きつく唇を噛みしめると、総司の細い躰を両腕にかき抱き、その髪に頬を擦りつけながら「畜生……っ」と低く罵る。
それに、総司は目を見開いた。ここまで感情を剥きだしにした彼を、見たことがなかったのだ。
「土方さん……」
思わずその手を彼の背にまわそうとしたとたん、引き離される。だが、突き放された訳ではなかった。
土方は総司の手首を掴むと、そのまま歩き出した。周囲の人々が見ているにも構わず、歩いてゆく。
それに、慌てて懇願した。
「土方さん、こんなの駄目……離して下さい」
「離せば逃げるだろう」
「逃げないから、私、どこにも行きません……だから」
お願いと続けようとしたとたん、土方が立ち止った。一軒の店を見上げている。
ここにしようと決めたのか、総司を連れたまま暖簾をくぐった。強引に連れ込まれそうになる。
それに、思わず抗った。
「いや……!」
「総司」
土方は素早く総司の腰を引き寄せると、耳もとに唇をよせた。
「大人しくしろ、俺に恥をかかせるつもりか」
「あ……」
我に返った。確かに、そうだった。
ただでさえ、男前の武士と、玲瓏とした若者の組み合わせは、目をひいていた。こんな処で諍いを起こせば、彼に恥をかかせてしまう事は必定だ。
総司は唇を噛みしめ、俯いた。抗うのをやめ、おとなしく男に従う。
それを確かめ、土方は総司の躰を離した。驚いて見上げる総司を一瞥してから、すっと背をむけ、店の中へ入ってゆく。
総司は思わず躊躇った。だが、やはり彼の後を追いかける。
どのみち屯所で逢わなければならないのだ。逃げ場はなかった。
店は、料理屋だった。ほどほどに賑わっていたが、その喧噪が遠い世界のように感じられる。
土方が何か命じたらしく、奥まった部屋に通された。馴れた様子に、彼の行きつけの店だとわかった。
部屋に入ると、土方は障子を開け放った。すぐ前を小さな川が流れ、枝垂れる柳の緑が美しい。
「……」
しばらくの間、土方は無言だった。
だが、やがて、部屋の片隅に立ち尽くす総司をふり返った。冷たく澄んだ黒い瞳が、こちらを見据える。
「総司」
鞭打つような声だった。それに、びくりと身が竦む。
そんな総司に構わず、土方は言葉をつづけた。
「おまえは、俺と別れたいのか」
「……」
「答えろ、総司」
「……っ」
総司は声を呑んだ。喉がからからに乾き、声が出てこない。
だが、答えなければならなかった。今度こそ、彼の手を離すべきなのだ。
「そう…です」
震える声で、答えた。
「あなたと別れたい……私と別れて下さい、土方さん」
「……」
土方の目が細められた。