「久しぶりだね、土方さん」
伊庭が佇んでいた。
彼もまた会津に用事があって訪れていたのか、紋付き羽織に袴という正装姿だ。
無言のまま鋭い視線をむけた土方に、伊庭は肩をすくめた。
「挨拶もなしかい? 相変わらず愛想がないね」
「……元気そうだな」
仕方なく、土方は答えた。だが、自然と声が低く剣呑なものになる。
訝しげに近藤が傍らから見ていたが、それさえ意識になかった。
憎い恋敵しか、目に入らない。
自分より遥かに総司の心を掴んでいるに違いない男。
一度は、総司も念兄弟になろうとした男なのだ。
否、今もそうだ。
少しでも目を離せば、いつ何時、総司は伊庭のもとへ行くかわからなかった。
まるで小鳥のように、この手をすり抜け、飛び去っていくに違いない。
その幻想さえ見た気がして、手のひらに爪を食いこませた。
「あんたの活躍は聞いているよ。近藤さんや、総司から」
わざわざ総司の名を出したのは、伊庭なりの嫌味だろう。だが、土方はそ知らぬ顔で肩をすくめた。
「そうか」
「総司は大事にしてやっているのかい?」
「おまえに聞かれる筋合いではないだろう」
素っ気なく云い捨てた土方に、伊庭は小さく笑った。
「そうかねぇ。この間、逢った時、元気がなかったからさ」
「……」
「まぁ、どのみち今夜逢うんだ。本人に聞けばわかるだろ」
「……」
思わず眉を顰めた。
今夜、総司はこの伊庭と逢うのだ。
友人だというなら昼間に逢えばいいのに、わざわざ夜に逢うという事が土方の癇に障った。
無言のまま踵を返した土方に、伊庭はそれ以上何も云わなかった。ただ、遠ざかる男の背を、微妙な表情で見送っている。
近藤は足を速め、土方に追いついた。声を低め、訊ねる。
「おまえ、伊庭と何があったのだ」
「……俺というより、総司だよ」
嘆息まじりに答えた土方に、近藤は「え?」と伊庭をふり返った。それから、まさかという表情で土方を見る。
「総司を伊庭と取り合っているのか」
「あぁ」
「だが、おまえは総司の念兄弟なのだろう? なのに、何故」
「総司の気持ちは、伊庭にあるのさ。念兄弟の契りを結ぼうとしていたのを、俺が無理やり引き離した」
「まさか」
近藤は目を見開いた。
「そんな事あるはずないだろう」
「実際あったんだから、仕方ねぇだろう」
彼にしては珍しい、感情の激した声音だった。それに、近藤は嘆息した。
「あるはずがないと云ったのは、おまえの行為ではない。総司の気持ちが伊庭にあるということだ。それは何かの間違いではないか」
「間違いかどうかまでは、わからねぇよ。けど、俺は抱きあっている二人を見たし、実際、総司の口から、念兄弟になるかもしれないと告げられた事がある。それを聞いて、俺は強引に己のものにしたんだ。いや、俺のものになってくれと頼みこんだようなものだ」
「だが、結局は、総司はおまえの手をとったのだろう。なら、今更……」
「総司は今も、伊庭と逢っている」
ほろ苦い笑みが口許にうかんだ。
「あんたもさっき聞いただろう? 今夜、逢うのだと。今までも、二人は頻繁に逢っているんだ。それを俺はとめる術はないし、友人だと云われれば何も云えない」
「歳……」
「何度も逢ううちに情が移ることなんざ、よくある事だ」
土方は目を伏せた。
「俺は……あいつがこの手から奪われる日を、指折り数えて待っているようなものさ」
「歳、おまえは」
不意に、近藤が土方の腕を掴んだ。痛いほどの力で掴み、彼の顔を覗き込む。
「このまま何もせんつもりか」
「……」
「おまえらしくもない。総司が欲しいなら、己のすべてで求めろ。伊庭に渡したくなければ、徹底的に邪魔してやれ。恋なんてものは、己の気持ちに正直な者だけが勝つんだぞ」
「近藤さん……」
土方の目が見開かれた。呆気にとられた表情で近藤を見てから、やがて、悪戯っぽい表情で云った。
「まさか、あんたに色恋沙汰について指南されるとはな」
「からかうな」
肩をすくめた近藤に、土方は笑い声をあげた。二人並んで、屯所への道を辿っていく。
近藤に話したことで、少し気持ちが晴れたようだった。
(己の気持ちに正直な者だけが勝つ、か)
先ほどの近藤の言葉を反芻し、喉奥で低く笑った。
「今夜、外で食事をしようぜ」
そう土方に誘われた瞬間、案の定、総司は困った表情になった。
渡り廊下でのことだった。黒谷から帰った土方はすぐさま総司を探しまわり、ここでようやく掴まえたのだ。
見れば、総司は文を手にしている。おそらく、伊庭からの文だろうと思った。
「今夜、ですか……?」
戸惑いがちな表情で、総司は土方を見上げた。
今まで何度も、土方、伊庭と外で逢ってきたが、不思議と重なったことはなかったのだ。
それなのに、今夜はどうして? とつい思ってしまう。
伊庭との逢瀬は決して不快なものではなかった。むしろ楽しく、心くつろぐものだ。
だが、それは総司にとってあくまで親しい友人の域にとどまっていた。
むろん、伊庭から寄せられる想いは知っている。それでも、それを受け入れる訳にはいかなかった。
何があっても、総司にとって、想う男はただ一人、土方だけなのだ。
だが、一方でそんな伊庭に逢うことは、土方に対するのと違う罪悪感もあった。ふり回している気がするのだ。
そのため、総司は伊庭から誘われた時は、仕事の都合がつけば出来るだけ応じるようにしていた。
総司はどうしようかと迷い、唇を噛みしめた。
だが、その瞬間、不意に腕を掴まれた。はっと息を呑めば、濡れたような黒い瞳がこちらを見つめている。
「土方、さん……?」
「暮れ六つに門前だ。待っている」
時刻と待ち合わせ場所だけを告げると、後は返事も聞かず背を向けた。相変わらず俺様な彼の言動に、呆気にとられる。
だが、土方の強引さは、総司の背を押してくれた。ある意味、判断を促したのだ。
総司は彼の背にむかって、云った。
「わかりました。暮れ六つに待っています」
土方がちらりとふり返った。一瞬だけ笑みをみせてから、歩み去ってゆく。
その背を見送り、総司は胸もとを強く掴んだ。
暮れ六つの鐘が鳴った。
総司が西本願寺の門に急ぐと、既に土方は着いていた。近くの樹木に背を凭せかけ、瞑目している。
その端正な立ち姿に、見惚れた。
すらりとした長身に黒い着物を着流した姿は、惚れ惚れするほどの男ぶりだった。
いつだったか、斉藤が云っていた事があった。
副長には艶があると。ただ顔が綺麗なだけの男ではない、えも云われぬ艶のある雰囲気が人を惹きつけるのだろうと。
あまり土方を好いてはいない斉藤でさえ、認めるほどの男ぶりなのだ。心底、土方を愛している総司が見惚れるのは当然のことだった。
総司が歩み寄っていくと、土方が目をあげた。冷たく澄んだ黒い瞳で見つめられ、どきりとする。
「……すみません、お待たせしました」
「いや」
土方は微かに唇の端をあげた。すっと背をおこし、歩き出してゆく。
それを総司は慌てて追った。
土方が連れていってくれたのは、一軒の宿屋だった。料理旅館だ。
食事だけかと思ったが、奥の部屋に通された。離れになった部屋で、こんなところに来たこともない総司は身を固くしてしまう。
二間続きで、隣室への襖が気になった。どきどきする。
それに、土方がくすっと笑った。
「何だ、借りてきた猫みてぇだな」
「ね、猫って……」
総司は桜色の唇を尖らせた。
「こんな処、初めてなのです。土方さんはよく利用するのですか?」
「いや、ここは俺も初めてさ」
「じゃあ、どうして……」
土方はちょっと悪戯っぽい顔になった。
「驚くなよ。ここは、近藤さんの紹介なんだぜ」
「え?」
総司は驚き、目を瞬いた。それに、土方はくっくっと喉を鳴らした。
「あの人のことだ。むろん、接待での利用だがな」
「ですよね」
「なんだ、近藤さんなら接待での利用が当然で、俺なら女相手だと思っているのか」
「だって、あなたはこの間も……」
云いかけ、慌てて口をつぐんだ。
島原や祇園に行っている土方を、責めるような気がしたのだ。
だが、それに、土方は優しい表情で手をのばした。そっと総司の細い肩を引き寄せ、抱きすくめてくれる。
「俺も接待だよ」
「でも、朝に帰って……」
「あれは門が閉まっちまったからな。確かに、酒席には女もいたが、何もしちゃいねぇよ」
「……」
土方の言葉が嘘か本当か、それは全くわからなかった。
恋の駆け引きなど知らない初心な総司に、男の情欲などわかるはずもないのだ。だが、一方で、彼の言葉は真実な気がした。
策士である土方は、仕事上で偽りを吐くこともあったが、総司の前では一切己を偽ったことがなかったのだ。正直な自分を見せてきてくれた。
黙ったままこくりと頷いた総司に、土方も、ほっと安堵したようだった。微笑み、髪や頬に口づけてくれる。
それを心地よさげに受けていると、廊下の方から声がかけられた。仲居が料理をはこんできたようだった。
慌てて離れて座る総司を可愛く思いながら、土方は自分も卓の前に腰をおろした。一通り料理が並べられると、後は自分たちでやるからと人払いをする。
食事の間、二人は他愛のない会話に終始した。
ある意味、自分たちの話を避けていたのだ。伊庭のことや、自分たちの関係に話が及べば、また拗れかねない。それは、二人ともに思っていることだった。
それは食事が終わった後も続いた。
食後、土方は総司の手をひくようにして縁側に連れ出した。
もう日も暮れて、あたりには闇が落ちていた。庭のあちこちに灯された灯篭が夢のように美しかった。
二人はしばらくの間、寄りそい話をしていたが、やがて、遠く暮れ八つの鐘が聞こえると、夢から覚めたように土方は立ち上がった。
帰るのかと思い、見上げると、部屋の片隅にある乱れ箱の中から浴衣を取り出してくる。
「え?」
浴衣と帯を手渡され、目を瞬いた。
それに、土方は淡々とした口調で云った。
「風呂に入ってこい。後から俺も行くから」
「ど、どうしてです。もう帰るんじゃ……」
「今夜は帰らねぇよ。隊の方にも届けは出してある」
驚いて目を見開いた総司に、土方は苦笑した。手をのばし、そっと髪を撫でる。
「心配しなくても、無理強いはしねぇよ。ただ……おまえと一晩過ごしたいと思っただけだ」
「土方さん、私は……」
「とにかく風呂に入ってこい」
優しく背を押され、総司は部屋を出た。
風呂場では一人きりだった。後から行くと云ったくせに、土方は来ない。
おそらく総司を怖がらせないためだろうと思った。だが、総司がずっと望んできたことなのだ。
(あの人に抱かれる……)
それを彼が本当に望んでくれているなら、夢のようだった。
総司はいつもより丁寧に躰を洗いながら、頬を染めた。風呂場から出て浴衣を纏い、帯を締めていると、土方が入ってきた。
彼が一瞬、息を呑む。
「? 土方さん……?」
「いや」
微かに笑った。それから、甘い声で云われる。
「すげぇ別嬪がいて、驚いた」
「土方さん……」
総司は耳朶まで真っ赤になると、慌てて土方の傍をすり抜けた。
部屋に戻ってみると、隣室への襖が開かれてあった。そこに敷かれた褥に、どきりとする。
坐っていればいいのか、何をすればいいのか、全くわからず、総司は縁側に出たり部屋に戻ったりした。落ち着きなく坐ったり立ち上がったりをくり返す。
だからなのか、いつの間にか、土方が戻ってきたことにも気づかなかった。
「何をやっているんだ」
後ろから声をかけられ、びっくりして飛び上がった。慌ててふり向けば、戸口の処に佇んだ土方が訝しげなまなざしをむけている。
「あ、あの……」
総司は口ごもった。
「どこに、いればいいのか……その、わからなくて」
「好きな処にいればいいだろう?」
くすっと笑った土方に、総司は自分の子供さを指摘された気がした。
彼は、自分と一夜を過ごすことなど、まるで気にしていないのだ。
もしかして、その気など全くないの?
押し黙ってしまった総司に、土方は歩み寄ってきた。
不意に手をのばすと、その小柄な躰を腕の中に引き寄せ、抱きしめる。
彼の唇が首筋にあてられ、驚いた。
「……俺だって、不安だよ」
「え?」
驚いて見上げると、濡れたような黒い瞳がこちらを見下ろしていた。
「おまえが逃げやしねぇか、嫌われねぇか、不安でたまらない」
「そんな……逃げるなんて」
ゆるく首をふった総司に、土方は微かに笑った。
「そうかな。おまえは小鳥みたいだからな……目を離したら逃げちまいそうで、怖いよ」
「私がどこへ行くというの?」
それは、何気ない言葉だった。
だが、口にした瞬間、土方の端正な顔から表情が消えた。深く澄んだ黒い瞳が、底知れぬ闇を湛える。
ぎらりと抜身の刃を突きつけられたような冷たさに、息を呑んだ。