翌日、土方は多忙をいい事に、総司を避けた。顔をあわせても、何を云ってよいのかわからなかったのだ。
 だが、そんな土方を、総司は逃がしてくれなかった。驚くことに、部屋へ訪ねてきたのだ。
 そして、訊ねた。
 どうして、あんな事をしたのか? と。
「……どうして、だろうな」
 口から出たのは、そんな言葉だった。
 偽りでも逃げでもなかった。それは彼の本心だったのだ。
 ずっと今まで堪えてきたのに、手を出さないよう己を制してきたのに。なのに、どうしてあんな事をしてしまったのか。
 それも、最悪の形で強引に奪ってしまった。己の情欲を抑えることができなかった。
 土方は総司に、少なくとも、伊庭に奪われるのは許せないという事だけは告げた。それに対し、総司は淋しいと答えた。
 心の奥底を打ち明けられる相手がいないから、だから、淋しいのだと。
 その答えは、土方を激しく打ちのめした。
 総司がそこまで伊庭に心を許しているという事実を、突き付けられた気がしたのだ。今までずっと傍にいた自分よりも、何よりも、伊庭を選んだという事が信じられなかった。そして、ずっと傍にいながら、総司の淋しさに、孤独に、気づいてやれなかったことも。
 だが、考えてみれば、当然のことだった。
 総司にとって、斉藤は確かに友人だ。だが、ある意味、隊内での競争相手でもあり、また、斉藤が総司に恋慕している事もあり、すべてを打ち明けられる相手でもなかった。
 土方には、無二の盟友である近藤がいる。幼い頃から共に育ち、何もかも理解しあった友だった。仕事のことはもとより、私事も何もかも相談しあっている。だからこそ、厳しい戦いに挫けそうになっても、心強く戦ってくることが出来たのだ。
 だが、総司は?
 誰もいなかった。総司が心を許し、淋しさを打ち明けられる相手は誰もいなかったのだ。
 可愛らしい容姿をもちながら、一番隊組長として戦いつづける総司は辛いこともあっただろう。弱音を吐きたい時もあっただろう。だが、それは誰にも受け止めてもらえぬ想いだったのだ。
 その事に気づかなかった自分を、土方は激しく責めた。悔やんだ。
 そして、その相手が伊庭だということを、決して許せなかった。どんな事をしても、総司を取り戻したいと思った。
 だからこそ、云ったのだ。
「俺では、駄目か?」
 と。
 その問いかけに対し、総司は「恋人になってくれますか?」と聞き返した。
 土方は咄嗟に言葉を返せぬまま、総司を見下ろした。


 むろん、淋しさゆえの言葉だということも、よくわかっている。だが、それでも良かった。
 総司の恋人になれるのなら、どんな事だって出来た。
 もう十年来の恋だった。総司しか欲しくないと、焦がれるように想いつづけてきたのだ。
 しかし、その想いは隠さなければならないものだった。だからこそ、女遊びをして紛らわし、想いがこぼれてしまった時も、好きだよと軽く告げてごまかしてきたのだ。
 だが、今は真剣に答えるべき時だった。ここで手を放せば、総司は他の男のものになってしまうのだろう
 偽りであっても淋しさを埋めるためであっても、何でも構わなかった。


「あぁ、喜んで」
 そう囁き、愛しい小柄な躰を抱きしめた。腕の中の総司を感じながら、固く瞼を閉じる。
 


(こいつは俺のものだ……俺だけのものだ……)


 黒い髪も、澄んだ瞳も、蕾のような唇も、なめらかな頬も。
 この白くて華奢な躰も、手足も何もかも、すべて彼のものだった。他の誰にも、指一本ふれさせはしない。
 総司を彼から奪いとろうとするものは敵だった。憎むべき、排除すべき敵なのだ。
 その日から、土方は総司を囲いこむように守り、心から愛した。二度と、総司が淋しいと云わぬように、他の男のことなど一瞬たりとも考えぬよう、彼のすべてで愛した。
 だが、それでもなのだ。


(おまえは俺に心を開かない……)


 長い睫毛を伏せた横顔は美しく、まるで雨に打たれる白い花のようだった。今にも消えてしまいそうな儚さに、思わず息を呑む。
 弟として扱っていた頃の方が、余程明るく朗らかだった。元気よく笑い、土方に対しても何の遠慮もなくものを云って、ふざけたりしていたのだ。土方自身の対応も違っていただろうが、総司もあの頃とはまるで変わってしまっていた。
 恋人として傍にいてくれるはずなのに、口数も少なく、心の底からの明るい笑顔も、数えるほどしか見たことがなかった。
 考えたくないが、総司の心にある存在を疑った。
 本当は、伊庭のことを想っていたのではないか。否、今でも想っているのではと、つい疑ってしまった。
 総司の淋しいという言葉につけこむようにして、恋人という場所を勝ち取った土方にすれば、疑わずにいられなかった。罪の意識があるから尚のこと、嫉妬が胸を焦がすのだ。


「土方さん……?」
 じっと見つめる土方に、総司が気づいた。
 不思議そうに彼を見上げてくる。そのあどけない仕草に、胸を突かれた。
 土方は視線をそらすと、さり気ない口調で訊ねた。
「最近、伊庭と逢っているのか」
「え……」
 総司は虚を突かれたようだった。一瞬、申し訳なさそうな表情をうかべてから、答える。
「時々、逢っています。その……誘ってくれるので」
「……」
「でも、念兄弟のことは断りました。友人として逢っているだけです」
 慌てたようにつけ加える総司に、土方は唇の端をあげた。我ながら、皮肉げな笑みではないかと思う。
「別に、そんな断る事もねぇさ」
「でも……」
「友として逢っているのだろう? 俺もそこまで束縛しねぇよ」
 束縛どころか、そんな事をする資格さえ、彼には与えられていない。
 たとえ、総司が伊庭と逢ううち、次第に恋していったとしても、それをとめる術はなかった。
 彼は本当の恋人ではないのだから。
 そんな事を考える土方を、総司は大きな瞳で見つめていた。何か、彼の気持ちを探るようなまなざしに、顔をあげる。
「どうした」
 問いかけると、総司は俯いてしまった。小さな声で答える。
「……何でもありません」
「……」
 総司の様子を訝しく思ったが、話題が話題だけに、それ以上追及するのも憚られた。土方も、恋に溺れる一人の男なのだ。気も狂わんばかりに愛している者の唇から、これ以上、他の男のことなど聞きたくもない。
 押し黙った土方は、彼にしては荒々しく酒の杯をあおった。
 












 総司にとって、土方は恋しい男だった。
 幼い頃からずっと憧れ、恋い焦がれてきたのだ。土方も総司を可愛がり、誰よりも特別扱いしてくれた。
 好きだとか、愛しているとか、何度も云われたことがある。だからこそ、念兄弟として愛されているのだと、すっかり思い込んでしまったのだ。
 それが思い違いだとわかった時、一度は諦めようとした。伊庭から与えられる優しさに揺れ、その腕に飛び込みかけたのだ。だが、それを引き戻したのは、他ならぬ土方だった。
 強引に連れ戻し、そして、云ったのだ。
「俺ではだめか?」と。
 恋人になってくれた事は嬉しい。愛されていなくても、それでも、総司にとって、土方が恋人として自分を扱ってくれることは、夢のようだった。あんなにも望んでいた抱擁、口づけがあたえられるのだ。
 彼に関係を無理強いしているという、罪の意識があったとしても。
 だからこそ、ふとした瞬間、彼が見せるそっけなさに、胸を突かれた。そんなふうに思う資格など自分にないとわかっていながら、土方が興味なさげに振る舞う時、我に返るのだ。
 これは、偽りの関係なのだと、思い知らされる気がするのだ。
 先日もそうだった。
 伊庭との逢瀬をとめはしないと云われた時、総司は、そこに寛容さより無関心さを感じたのだ。だが、それは当然のことだった。土方の想いは、総司にないのだから。
 そして、その無関心さは、別の事柄も示唆していた。総司自身も、土方の言動に口出しが許されないのだ。嫉妬など、当然、許されていない。
 相変わらず、土方は祇園や島原に通っているようだった。それが接待なのかどうか、総司にはわからない。だが、女の白粉の匂いをさせて帰営した土方とすれ違う朝、胸が張り裂けそうな気がした。


 その腕で女の人を抱いたの?


 口にだせるものなら、そう叫んでしまいたかった。
 だが、そんなこと許されていない。
 総司はいつものように笑みをうかべ、「おはようございます」と朗らかな声で挨拶した。頭をさげ、すれ違ってゆく。
 後ろで土方がふり返り、総司の後ろ姿を見ているようだった。やがて、微かに嘆息し、去ってゆく足音が聞こえる。
「……」
 吐息をもらしそうなのは、総司の方だった。
 きゅっと唇を噛みしめてふり向けば、男の広い背が視界を遠ざかる処だった。とたん、たまらぬ焦燥感がこみあげる。
 今すぐ走りより、その背に縋りつきたかった。大声で、「お願い、自分だけを見て」と叫んでしまいたい。


(できるはずもないけれど……)


 総司は自嘲するような笑みをうかべ、踵を返した。さっさと歩いてゆく。
 部屋に戻ると、手早く巡察の仕度をした。隊服に着替え、鉢巻をしっかりと締める。刀を確かめてから、それを腰にさし、部屋を出た。
 花のように愛らしい容姿をもつ総司が、黒い隊服に身をかためると、男装した少女のような妖しさがあった。いつも清らかで無垢な印象の総司が、不思議なほど艶っぽさを匂いたたせるのだ。
 だが、総司自身はまるで自覚がない。すれ違う隊士たちが息を呑んでいる事さえ気づかぬまま、足早に集合場所へむかった。きびきびとした動きで現れると、既に並んでいる隊士たちにむかった。
「一番隊、これより巡察に向かいます。では、出立!」
 そっけない程だが、総司は普段と違い、仕事の時は極端に言葉数が少なかった。必要不可欠の言葉しか発さないのだ。
 だが、その澄んだ声はよく透り、また、一番隊隊士たちも、彼らが敬愛する組長の命に絶対的に従った。
 歩き出した総司は、後ろから視線を感じた。ちらりとふり返ってみたとたん、どきりとする。


(……土方さん)


 西本願寺の黒々とした建物の前に、土方が佇んでいたのだ。黒谷へ向かうため着替えたのか、先ほどとは違う正装姿になっている。
 凛とした佇まいは水際立ち、肩幅のある長身に黒い羽織と着物、袴をまとった姿は、思わず見惚れるほどだった。切れの長い目がこちらをまっすぐ見つめている。
 視線があった事に気づくと、土方は微かに唇の端をあげた。先ほど冷たくすれ違ったばかりなのに、まるで意に介していないようだった。
 男らしい笑みに、どきりとする。
「……」
 熱くなる頬を感じ、慌てて視線をそらせた。傍らから、伍長である島田が訝しげに問いかけてくる。
「沖田先生、どうかされましたか?」
「いえ、何でもありません」
 総司は前方に視線を戻すと、足早に歩き出した。仕事だけに集中しようと思う。否、そうでなければならなかった。
 青空が、頭上に広がっていた。












「歳」
 低い声で呼ばれ、土方は我に返った。
 随分と何度も呼ばれたのだろう。近藤が訝しげに、こちらを覗き込んでいた。
 黒谷屋敷内の部屋だった。
 今日は、近藤と土方、別々の相手との折衝があったのだ。そのため、別行動だったのだが、先に土方の方が終わり、近藤を待っているうちに考え事に耽っていたらしい。
 池田屋事件の後、新選組は名実ともに最強の武装集団となったが、その分、幹部たちの身の危険も増している。そのため、一人歩きは厳禁となっていた。土方だけが一人さっさと帰ってしまう訳にはいかなかったのだ。
「珍しいな」
 ようやく顔をあげた土方に、近藤が笑った。
「歳がぼんやりしているとは、雨でも降るか」
「俺だって、考え事ぐらいはする」
 不機嫌そうに答え、土方は立ち上がった。それに喉奥で笑いながら、近藤は並んで歩き出す。
「それはするだろう。色々考えることが多いはずだ」
「そうではなく……己自身のことさ」
「ほう」
 珍しいことを口にした盟友に、近藤は目を見開いた。
 この友が己自身のことを自ら話すなど、滅多にないことなのだ。だが、ある意味、それ程追い詰められているということだった。
 玄関を出て門までの広い庭を歩きながら、土方は云った。
「俺自身、どうすればいいのか……わからねぇのさ」
「何をだ」
「総司のことだ」
「総司?」
 不思議そうに首をかしげ、近藤は土方を見た。
「ここに何故、いきなり総司が出てくるのだ。まさか、あいつの体調が悪化しているのか」
「いや、そうじゃねぇよ。ただ……俺があいつの弱みにつけこんだ」
「弱みにつけこんだ?」
 まったく意味がわからないと云いたげな近藤を、土方は切れの長い目で見た。朴訥な友に理解してもらえるか不安だが、話をつづける。
「あぁ。俺は、あいつの弱みにつけこんで、あいつを……その、束縛している」
「意味がわからん」
「念兄弟になった」
 思い切って率直に云った土方に、近藤は驚く様子もなかった。「あぁ」と当然のように頷く。
「そうらしいな。というか、前からそうだろう」
「いや、その噂は知っているが、本当は違ったんだ。俺は総司と何の関係もなかった。だが、最近、総司の弱みにつけこむようにして、無理やり……」
「手込めにでもしたか!」
 思わず声を荒げた近藤に、土方はため息をついた。
「してねぇよ」
「なら、無理やり何をしたのだ」
「念兄弟になったことだ。契りは結んでいねぇが」
「そんなもの、無理やりなれるものではないだろう」
「そうか?」
 土方は口角をあげ、皮肉な笑みをうかべた。
「なれるものだぜ。実際、俺はなった。総司が淋しいと云ったことにつけ込み、念者という場所を手にいれたのさ」
「それで、悔いているのか」
「……」
 近藤の言葉に、土方は虚を突かれたようだった。驚きに、目を見開く。
「悔いている……?」
「そうだ。おまえは悔いているから、悩むのだろう。考えるのだろう」
「……」
「己の行為に罪の意識を感じているだろうが、それは違うぞ。総司もおまえと念兄弟になることを受け入れたはずだ。なら、お互いさまではないか。おまえだけが罪の意識に苛まれることではない」
「だが、俺は……」
「おまえがそうして悩んでいることを知れば、総司は傷つくのではないか」
 静かな言葉に、唇を噛んだ。
 確かにそうだった。こんな物思いをしていることを知れば、あの優しくて素直な総司のことだ、余計なことを考え傷ついてしまうだろう。
 土方は、煩わしげに黒髪を片手でかきあげた。ふっと、ため息をもらす。
 その時だった。後ろからかけられた声に、何の構えもなくふり返った。
「――」
 だが、相手を見たとたん、息を呑んだ。