「……どうして、だろうな」
短い沈黙の後、返された答えがそれだった。
はぐらかすような答えに、総司は唇を噛みしめる。
頭の奥が怒りにカッと熱くなった。
あんな事をしておいて、どうしてだろうな、なの?
自分でもわからないと、云うつもりなの?
だが、顔をあげたとたん、そんな気持ちは消し飛んでしまった。
土方は驚くほど真剣な表情で、総司を見つめていたのだ。口許も厳しく引き締まっている。
視線があうと、その黒い瞳が昏い翳りを帯びた。
「酷い云い草だが……俺はおまえを伊庭に奪られたくなかった」
「土方さん……」
「わかっている、男の身勝手だと。だが、それでも、おまえが伊庭と契りを結ばれるなど、到底堪えられねぇんだ」
「だから、あんな事をしたと? 全然意味がわかりません」
総司は激しく首をふった。
「弟として可愛がってきた私が男と結ばれることが、許せないのですか?」
「あぁ、許せねぇ」
土方は押し殺すような声音で答えた。
腕を組み、切れの長い目でまっすぐ総司を見据える。
「伊庭と結ばれるなんざ、冗談じゃねぇよ。絶対に許せねぇ」
「どうして? 土方さんには関係ないことでしょう?」
「……本気で云っているのか」
土方は眉を顰めた。
それに、総司は目を伏せた。
ずっと兄代わりとして大事に育て、慈しんできてくれた彼なのだ。
その彼に、関係がないなどと云ってはならない事だった。
昨日も、それを口にしたばかりに、彼の激昂をかったのだ。
「ごめんなさい……云いすぎました」
素直に謝った総司に、土方は表情を和らげた。手をのばし、総司の髪を撫でてくれる。
「いや、俺もきつい云い方をした。すまん」
「私は……伊庭さんとまだ契りは結んでいません」
「……そうか」
「土方さん、ほっとした?」
小さな声で問いかけると、一瞬、土方は目を見開いた。それから、苦笑する。
「あぁ、安堵したよ」
「ごめんなさい、心配かけて。私……伊庭さんに求められたことは、本当です。でも、契りを結ぶ気にはなれなくて、それが伊庭さんへの想いゆえなのか、契りへの不安なのか、わからないけれど」
「……」
「自分が狡いってわかっているのです。伊庭さんをふりまわしていると、でも……淋しくて」
「淋しい?」
土方が驚いたように、総司の顔を覗き込んだ。それに、長い睫毛をふせる。
「えぇ。隊の中でたくさんの人に囲まれているけれど、斉藤さんという友人もいるけど、でも、やっぱり一人だなぁと思うことが多くて。心の奥底まで打ち明けられる人が、いないのです。それは、伴侶とか……恋人とかだと思うのだけれど、私にはそういう人がいないから」
「だから、それを伊庭に求めているのか」
固い声音で、土方が訊ねた。
「心の奥底まで、伊庭になら打ち明けられるというのか。あいつを恋人として選ぼうとしているのか」
「わかりません。でも……」
「俺では駄目か」
不意に鋭く問いかけられ、総司は目を見開いた。
驚いて見上げると、土方がひどく真摯な瞳で、じっとこちらを見つめていた。
「土方、さん……?」
「俺では駄目か、総司。この俺では、おまえの淋しさを埋めることは出来ねぇのか」
「だ、だって……」
総司はふるふると首をふった。
「そんな、土方さんは忙しいし、大変だし……私なんかに構っている暇……」
「暇があるとかそういう問題じゃねぇよ。俺自身が望んでいるんだ。おまえの淋しさを埋めたいんだ」
「土方さん……」
なんて優しい人だろうと思った。
今までも、彼は総司を心から可愛がり、大切に育ててきてくれた。慈しんでくれた。
その総司が淋しいと云ったとたん、今度は手をさしのべようとしているのだ。
それはきっと、彼の優しさ、紛れもない総司への愛情故なのだろう。
男に走るなど間違った道へ進ませてはいけないという、兄代わりの責任感から出たものかもしれない。
だが、今の総司にはそれを拒むことが出来なかった。
誰よりも愛しい男に、ずっと傍にいてやると云われて、拒めるはずがないのだ。
総司はこくりと喉を鳴らした。震える手で彼の着物の袂を掴み、見つめる。
そして、問いかけた。
「じゃあ……土方さん」
「何だ」
「私の淋しさを埋めてくれるというなら……私の恋人になってくれますか?」
「――」
土方の目が見開かれた。
呆気にとられた顔で、総司を見下ろしている。
だが、すぐに柔らかく微笑むと、その細い躰を優しく引き寄せた。逞しい腕で抱きしめながら、囁いてくれる。
「あぁ、喜んで」
「……」
総司は彼の腕の中で、そっと静かに目を伏せた。
恋人、という言葉は曖昧だ。
そのくせ、互いを果てしないほど縛りつける。
総司にはよくわかっていた。
二人の関係が、恋人という言葉どおりではない事を。
恋など、欠片もないのだ。少なくとも、土方の中にはない。
土方は、弟として大切にしてきた総司が淋しいと泣いたから、恋人になってほしいと望んだ総司の願いに応じた。
優しく弟想いの彼には、到底断れる話ではなかったのだ。ここで断れば、総司は伊庭と契りを結ぶに決まっている。そんな事を、大切な弟にさせる気はなかった。
だからこそ、自ら恋人となることを彼は承諾したのだ。
そのすべてが、総司にはよくわかっていた。
だが、それでも求めずにはいられなかった。
彼の恋人となれるなら、たとえ、そこに恋心も愛もなくても、幸せなのだ。
念兄弟だとずっと思いこんでいたが、今は違う。心はなくとも、恋人としての立場を総司は得たのだ。
それは、心の中に冷たい水底を感じながらの行為だったが……。
「土方さんと?」
話を聞いた時、伊庭は驚いたようだった。
それから、困ったように笑う。
「何だい、結局、元の鞘におさまっちまった訳か」
「そういう訳ではありませんけど」
「実際、そうだろう? 念兄弟になれたんだ、まぁ……よかったじゃねぇか」
つとめて明るく云ってから、伊庭は微かに目を伏せた。
「むろん、おれにとっては残念だけどね」
「伊庭さん……ごめんなさい」
「謝ることじゃねぇよ。おまえの気持ちがないまま、強引に事を進めようとしたおれも悪い。初めから見えていた勝負だったのさ」
「……」
伊庭の言葉が、胸に突き刺さった。
気持ちがないまま、強引に。
それは、まさに土方と総司の関係そのものだった。
土方が総司を大切に思ってくれている、その優しさにつけこむようにして、事を進めたのだ。
恋人になってくれと懇願し、それを受け入れさせた。
その自分の罪深さ、身勝手さが、たまらなかった。
なのに、そのくせ、土方から離れることが出来ないのだ。
心の一番奥の場所で、彼の恋人になれたことを歓喜している自分がいる……。
黙り込んでしまった総司を、訝しげに伊庭は眺めた。
どうも様子がおかしいのだ。恋しい男と念兄弟になれたにしては、表情が浮かない。
だが、あれこれ聞いても、総司が素直に話してくれるとは思えなかった。優しげで愛らしい姿形でありながら、この若者は意外と頑ななのだ。
「けど、念兄弟はともかくとして」
伊庭は気をとりなおしたように、云った。
「おれとのつきあいは、続けてくれるだろ? 友としてさ」
「え」
総司は驚いたように、顔をあげた。
「いいの、ですか? そんなこと……伊庭さんに迷惑じゃ」
「迷惑なものかい。惚れた相手の傍にいられるんだ、これ以上の幸せはねぇぜ」
「伊庭さん、ありがとう」
心からお礼を云った。
総司にとって、伊庭は今やとても大切な友人となっていたのだ。
念兄弟にはなれないが、愛することはできないが、気安く色んなことを話すことができる兄貴分のような存在だった。
その伊庭と気まずくなり、また逢えなくなることはとても辛いだけに、伊庭の言葉は心の底から嬉しかった。
ほっとしたように微笑む総司を眺めながら、伊庭はそっと目を細めた。
恋人として振る舞うのが、どういう事かはわからない。
だが、土方は総司を大切にし、甘やかしてくれた。恋人として愛してくれたのだ。
明らかに今までとは違っていた。
外へ出かけることも頻繁になり、誘われ、二人で散策したり食事をとったりもした。
手を繋いだり、抱擁、口づけも何度かした。そのたびに、総司は陶然となったが、どこか一線を引いたような土方の態度に、たちまち我に返った。
これは、偽りなのだ。
本当に愛されている訳ではないのだ。
ぎこちない土方の態度に、そう告げられている気がしたのだ。
むろん、それは当然の事だったけれど……
「どうした?」
訝しげに問いかけられ、総司は、はっと我に返った。
慌てて見上げると、土方は杯を手にしたまま、総司の顔を覗き込んでいる。
それに、目を瞬いた。
「え、私……?」
「ぼうっと何か考え事をしていただろう。体調でも悪いのか」
「い、いいえ」
総司は首をふり、箸を手にとり直した。
今日、土方が誘ってくれたのは、舟遊びだった。
初めて、屋形舟というものに乗った総司は戸惑ったが、一方で、いかにも恋人らしい一時に胸が弾んだ。用意されてあった弁当箱は、開けてみればとても綺麗で花畑のようだった。
こうして、何もかも手はずを整え、総司を甘やかせてくれる。
それはとりもなおさず、土方が遊び慣れていることを示唆しており、時たま、総司は胸奥が痛くなったが、つとめて考えないようにした。
今は、自分の傍にいてくれるのだ。
偽りであれ、この人は傍にいてくれる……。
そんな事を考えていた総司は、土方が昏く翳った瞳で見つめていることに、気づかなかった。
しばらく、黙ったまま総司を見ていたが、やがて、ゆっくりと低い声で問いかけた。
「……俺といるのは、退屈か」
思いがけない言葉に、驚いた。
顔をあげた総司に、土方はほろ苦く笑った。
「それも当然か。俺はおまえより九つも年上だ。伊庭とも斉藤とも、違う。話があうはずもねぇよな」
「土方さん」
「正直な話、何をすれば、おまえが喜んでくれるのか、わからねぇのさ。伊庭だったら、もっと楽しめる場所に連れていっただろうな」
「そんな……違うのです」
慌てて総司は膝をすすめた。膳をおしのけるようにして、土方の傍による。
「私はあなたと一緒にいたいのです。こうして舟遊びに誘ってもらえて、本当に嬉しいのです」
「なら、何故、浮かない顔をしている」
土方は手をのばし、総司の細い顎を掴んだ。仰向かせ、冷たく澄んだ黒い瞳で覗き込む。
「俺といても、おまえはあまり笑顔を見せないだろう。いつも何か別の事を考えている」
「……それは……」
口ごもってしまった総司に、しばらくの間、土方も何も云わなかった。重い沈黙が落ちる。
やがて、ふっと嘆息すると、土方は煩わしげに片手で前髪をかきあげた。
「すまん……つまらぬ事を云ったな」
彼の唇からもれた謝意に、総司は目を見開いた。
彼が謝るような事ではなかった。
せっかく誘ってくれたのに、台無しにしてしまったのは自分の方なのだ。
「土方さん、私……」
「この話はやめにしよう、俺が悪かった。本当にすまん」
そう云って、土方はかるく頭を下げてみせた。それから、総司の手をとると、指さきにかるく口付けてくる。
ぱっと頬を赤くした総司を、悪戯っぽい瞳で覗き込んだ。
「許してくれるか?」
「ゆ、許すも何も……土方さんは悪くありません」
「なら、おあいこだな。よし、飯を食おうぜ?」
少年のような笑顔が眩しかった。朗らかに笑いかけられ、胸がどきどきする。
こくりと素直に頷いた総司に、土方は満足げに微笑んだ。席へ戻らせ、箸も手にとらせてくれる。閉めていた障子も開け放ち、川べりを指さして、美しい光景の数々を教えてくれた。
ゆっくりと時が流れてゆく。
それは、総司にとって夢のような一時だった。胸奥にある冷たい水のような罪悪感は消えないが、それでも、愛しい男の傍にいられるだけで、夢心地になってしまう。
「……」
そうして無邪気な笑顔で食事のつづきを始めた総司に、土方は目を細めた。
(……恋人、か)
偽りだとよくわかっていた。
総司は、ただ、淋しいから彼に縋ったにすぎないのだ。
その事を、土方はよくわかっているつもりだった。
愛していると、何度も囁いた。
だが、彼の想いは全く届かなかったのだ。
挙句、目の前で、総司は他の男の手をとろうとしていた。そんな事、我慢できるはずがなかった。
総司の唇から、「関係ない」と云われた瞬間、頭の中がかっと熱く燃えた。怒りと嫉妬で気が狂うかと思った。そして、気が付けば、強引に総司の躰を組み伏せ、口づけていたのだ。
ずっと焦がれてきた、存在だった。
欲しくて欲しくてたまらず、何度夢の中で犯したかわからぬ細い躰。それが腕の中にあるのを感じたとたん、己の奥に秘められていた獣が牙を剥いた。
もし、あれが屯所でなければ、最後まで突き進んでいただろう。総司がどんなに泣いても叫んでも、その躰のすべてを犯していたに違いない。
だが、幸いと云うべきか、場所は屯所だった。それも総司の部屋だった。
寸前で理性が土方を押しとどめた。
そして、何も告げる事が出来ず、まるで逃げるように総司の部屋を去ったのだ。
(俺は、何てことをしてしまったんだ……)
総司の部屋を出たとたん、我に返った。
すっと頭が冷えた瞬間、凄まじいまでの絶望が彼を襲ったのだ。
後戻りできない事は確かだった。取り返しのつかぬ事を、彼はしてしまったのだ。
総司に嫌悪されたに違いなかった。
あんな事をされて嫌わぬはずがない。いくら伊庭と関係を結ぼうとしていても、まさか、兄代わりの土方となど、考えた事もないだろう。
だからこそ、総司も云ったのだ。
関係ないと。
なのに、その総司に無理やり口づけた。
いくら理性を失っていたとしても、恋に盲目になっていたにしても、もう少しやりようがあっただろうと、土方は臍をかんだが、もはや何もかも手遅れだった……。