「総司!」
 伊庭がよく透る声で呼びかけると、周囲を見回していた若者がふり返った。
 慌てて駆け寄ってくる姿は、愛らしく可憐だ。
 この若者を新選組の一番隊組長などと、誰もが思いもしないだろう。
 だが、愛らしい容姿とは裏腹に、総司は剣術の腕は一流であり、また指揮官としての能力も高かった。でなければ、到底、荒れくれ者どもが多い一番隊を率いて戦えるはずもないのだ。
 総司は自分が土方の念兄弟として噂されている事を知っているだけに、彼に恥をかかさないためにも、失敗は許されないと思っていた。
 だからこそ、いつもにこにこと愛らしく笑っている総司だが、仕事になると別人のように厳しく凛となるのだ。
「待たせちまったかい?」
 そう訊ねる伊庭に、総司は小さく首をふった。
「いいえ、私も今来たばかりでしたから」
「少し散策でもしねぇか? そこの神社は花が見事らしいぜ」
「はい」
 こくりと頷いた。


 最近、伊庭との逢瀬は頻繁になっていた。
 伊庭からの誘いのほとんどを総司が断らなくなったため、より逢う回数が増えたのだ。
 その都度、伊庭は総司を色んな場所に連れていき、楽しませてくれた。
 何しろ、京にのぼったと云っても、ほとんど新選組の中だけで過ごしてきた総司だ。巡察のため京の地図は頭に入っていても、評判のいい店や、美しい庭園の場所など、知るはずもない。
 だが、伊庭はもともと好奇心の強い男で、京に来てすぐ散策してまわったらしく、色々と詳しかった。こうして総司を連れ出し、綺麗なものを見せたり、楽しませてくれたりする。


「綺麗ですね」
 色とりどりの美しい花や緑に、総司はうっとりと見惚れた。その傍に佇みながら、伊庭が何気ない口調で云った。
「……何か、あったのかい」
「え」
 ぎくりとしたように、ふり返った総司に、苦笑した。
「ほんと、おまえは嘘がつけないねぇ」
「う、嘘なんて」
「うん、ついてないね。だから、顔に正直に出ちまうんだ。土方さんと揉めたのかい?」
「……」
 総司のなめらかな頬に、ぱっと朱が散った。花に視線をあてつつ、きつく唇を噛みしめる。
「……揉めていません。ただ」
「ただ?」
「好きにすればいいと云われただけです。伊庭さんと逢うの、私の勝手だと」
「ふうん」
 伊庭は肩をすくめ、腕組みをした。
「勝手、ねぇ」
「……」
「あの男は相変わらずすかしているなぁ。目の前で、総司を掻っ攫われても、そんな鷹揚に構えていられるかね」
「掻っ攫うって……」
「むろん、そのつもり。だから、こうして誘いをかけているんだよ」
 くっくっと笑う伊庭は明るく朗らかだ。そのため、戯れか本気かわからず、戸惑ってしまう。
 困った顔で見上げる総司に、伊庭は視線を返した。唇の端をあげ、笑う。
「疑っている? おれの気持ち」
「いいえ。でも……強さや深さは、疑います。土方さんにも同じような事をされてきたから」
「同じような事?」
「軽い調子で、誰にでも云うような感じで、好きだよとか、愛しているよとか。さんざん遊び慣れているあの人に、そんなふうに云われても、本気に出来るはずがないでしょう」
「成程ねぇ」
 伊庭は苦笑した。扇子で肩をとんとんと叩く。
「遊んでいる男は信用できないかい?」
「信用できないっていうか、あまり……好きじゃありません。いい気がする訳ないし」
「自分しか見るなって事かい? 一途だねぇ、総司は」
「……」
 耳朶まで真っ赤になってしまった総司に、伊庭はため息をついた。


 総司の気持ちが誰にあるのか、昔も今もよくよくわかっている事だが、こうして見せつけられるとやはり面白くはない。
 あの男との関係が拗れている間に、うまく気持ちを引き寄せてしまいたいのだが、それも上手くいくかどうかわからなかった。
 だが、とりあえず、総司は傍にいてくれるのだ。江戸の頃と違い、伊庭の気持ちを知っていても尚、こうして逢ってくれる。
 そういう意味では、総司も大人になったという事だった。それが伊庭には有り難い。


「おれなら、総司だけを見ているよ」
 伊庭はその細い肩を抱きよせると、そっと耳もとに唇を寄せた。
 びくんと身を竦める総司に、優しく囁きかける。
「ずっと傍にいるし、おまえだけを見ている。淋しい想いはさせない」
「伊庭、さん……」
「おれのこと好きになっちまえよ。その方が楽だと思うぜ?」
 総司は長い睫毛を瞬いた。少し潤んだ瞳で、伊庭を見上げる。
 細い指さきが彼の着物をそっと掴み、その甘えるような仕草にどきりとした。
「……好きですよ」
「総司」
「伊庭さんのこと、好き。でも、あの人への気持ちとは違うのです……どうしても、違ってしまう」
「……」
 しばらくの間、伊庭は何も云わなかった。だが、やがて、総司の華奢な躰を抱きしめると、大きくため息をついた。
「たまらないねぇ。その一途さが可愛い半面、憎らしいよ」
「ごめんなさい」
「謝る事じゃねぇって。けど、まぁ……おれも諦めないから」
 悪戯っぽく笑ってみせる伊庭に、総司は何も答えることができなかった。


 伊庭をふり回しているのだという自覚はある。
 傍からみれば、思わせぶりな態度で、弄んでいるようにさえ見えるだろう。
 だが、総司にとって、伊庭は兄のような友人だった。一緒にいて楽しい存在であり、色んなことを相談できる相手でもあるのだ。
 京に来てから、土方への想いに悩み、辛く厳しい仕事で戦いつづけてきた総司は、一人ぼっちだった。
 斉藤という友人はいたが、それでも、隊内である以上、土方との事まで話せるはずがなかったのだ。誰もが、総司は土方と公認の念兄弟であり、幸せなのだと思っている。そんな彼らに、本当のことを話せるはずもなかった。
 そこに現れたのが、伊庭だったのだ。
 一人思い悩んでいた総司がつい縋ってしまっても、無理のない事だった。


「ごめんなさい」
 小さな声でくり返した総司に、伊庭は微笑んだ。何もかもわかっているような表情で、その白い額に口づける。
 それに、総司も抗わなかった。頬や額への口づけは、以前もされた事があるのだ。
 黙ったまま伊庭の胸もとに顔をうずめ、男の腕に身をまかせる。
 その時だった。
「――」
 不意に、鋭い視線を背中に感じた。気がつけば、伊庭が顔をあげ、総司の後ろを真っ直ぐ見やっている。
「? 伊庭さん……?」
 訝しく思った総司は、伊庭の腕に抱かれたままふり返った。
 とたん、息を呑んだ。
「!」
 そこに佇んでいたのは、土方だったのだ。切れの長い目でこちらを見据え、固く唇を引き結んでいる。
 端正な顔には、明らかな怒りの色があった。
「どうして、ここに……っ」
 無意識のうちに、総司は伊庭の胸もとへ縋ってしまった。とたん、土方が痛みを覚えたように眉を顰める。
 低い声がその唇からもれた。
「……ここに俺がいる理由を問う前に、まず離れろ」
「土方さん」
「伊庭、総司を返してもらおうか」
 きつい口調で云い放つ土方に、伊庭は総司をより強く抱きよせつつ、口角をあげた。
「嫌だと云ったら?」
「伊庭」
「だいたい、あんたも云ったんだろ? 好きにしろと。おれと何をしようが、総司の勝手じゃねぇのか」
「逢うのは勝手だ。だが、こんな事までしろとは云ってない」
「何で、あんたの指図を受けなきゃならねぇのさ。土方さんにとって、総司は何なんだ? 契りをかわした念弟かい?」
「……」
 土方の口許が引き結ばれた。ぐっと拳を固めている。
 しばらく黙っていたが、やがて、掠れた声で答えた。
「弟だ。大事な弟同然の存在だ」


(え……?)


 総司の目が見開かれた。
 確かに、契りは交わしていない。だが、土方と総司は恋人同士であるはずだった。それも隊内でも公認なのだ。
 今更何を云っているのか。
 たとえ伊庭相手でも、偽る必要などなかった。はっきり念弟だと云えばいいのだ。それなのに、弟だと云いきるということは、たった一つの事しか意味していなかった。
 真実なのだ。
 土方にとって、総司はただの「弟」なのだ……。


 青ざめてしまった総司を、伊庭は気づかわしげに見下ろした。思わず嘆息する。
「土方さん、あんたねぇ」
「その大事な弟が」
 総司の様子に気づかぬまま、土方は言葉をつづけた。
「男に手を出されかけているんだ、怒って当然だろう。伊庭、云っておくが、二度と総司に手を出すな」
「そんな事、あんたに云われる筋合いじゃねぇよ」
 伊庭は鋭い口調で云い返した。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られろって云うだろう。おれと総司は、懇ろな仲になろうとしているんだ。兄代わりだろうが何だろうが、余計な口出しはよしてくれ」
「伊庭、総司を離せ」
「嫌だね」
 二人の間に険悪な気が満ちた。土方の切れの長い目の眦がつりあがり、口元が引き締められる。
 斬りあい寸前の殺気が、辺りに張りつめる。
 それを察した総司は、慌てて身を起こした。
「やめて下さい」
 伊庭の腕から逃れ、大きな瞳で彼らを見た。
「今日は私も帰りますから……土方さん、それでいいでしょう?」
「総司」
「伊庭さん、ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げ、総司は土方に駆け寄った。だが、その隣に並ぶことなく、そのまま歩いてゆく。
 土方は伊庭に鋭い一瞥をあたえてから、背を向けた。総司を追うように、神社の庭を出ていく。
「……」
 それを見送り、伊庭は目を細めた。












 すべてがわかる気がした。
 否、今まで不思議に思っていたことが、理解できたのだ。
 土方が総司に手を出さないはずだった。契りどころか接吻もないのは、当然だった。女遊びを平気でしているのも、当たり前のことだ。
 二人は念兄弟ではなかったのだから。
 土方は、総司を「弟」としてしか思っていなかった。可愛い弟として好きであり、愛してくれていたのだ。
 何もかも自分の思い込みであり、誤解だった。


(なのに、私は何を思い上がって……)


 羞恥に顔が火照るようだった。
 彼に愛されていると、自惚れていたのだ。恋人として見つめられていると、思い込んでいたのだ。
 そう思い込んで振る舞ってきた自分が、たまらなく恥ずかしかった。惨めだった。


(私が、こんな人の恋人になんかして貰えるはずがなかったのに)


 総司は、隣を黙然と歩いている土方に、視線をやった。
 すらりと引き締まった長身に黒い着物と袴を纏っている。隊服だが、それがまたよく似合っていた。
 艶やかに結い上げられた黒髪に、黒い瞳。切れの長い目。すっと通った鼻筋に、頬から顎にかけての鋭い線。形のよい唇。
 女たちが騒ぐのも当然の、水も滴るような男ぶりだった。今も、すれ違う女たちのほとんどが見惚れるような視線を向けていく。
 だが、その男の隣にいるのは、娘でも女でもないのだ。


(娘でもない私が、土方さんに愛されるなんて……ありえるはずがないのに。いったい何を思いあがっていたのだろう。念兄弟だと噂され、いつの間にかそう自分でも思い込んでいた。土方さんからの好意を、自分の都合がよいように考えていたんだ)


 土方が「弟だ」と云った時、がんと頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 目が覚める想いだったのだ。
 考えてみれば、あまりの自分の幼さに、身勝手さに、笑い出したくなるほどだった。情けなくて、みっともなくて、恥ずかしくて。
 せめてもの救いは、土方に気づかれていないことだ。恋人だと思い込んでいたなど、もし知られたらと思うと、この場から逃げ出したくなる。
「……伊庭が好きか」
 不意に、ぽつりと土方が云った。
 思わず彼を見上げると、深く澄んだ黒い瞳がこちらを見下ろしていた。
「おまえは伊庭を好いているのか」
「……はい」
 少し躊躇った後、総司は頷いた。それに、土方が一瞬、顔を歪める。
「一度ふった男だろう」
「でも、伊庭さんといると……楽しいのです。ほっとできるのです」
「伊庭の……念弟になるのか」
 そう問いかける声は低く、どこか苦痛にみちたものだった。
 兄代わりとして心配してくれているのか。
 むろん、今の総司には、その声音の奥にある男の焦燥、怒り、嫉妬などわかるはずもなかった。弟だと断言されたことで、今までのすべてを否定してしまったのだ。
 総司は長い睫毛を伏せた。
「……わかりません」
 肯とも否とも答えぬ総司に、土方はきつく唇を噛みしめた。
 昏い焔を宿した瞳が、傍らの愛しい若者を見つめる。
「そうか……」
 ただそれだけを云った土方に、総司は俯いた。あとはもう会話もなく、屯所への道を辿る。
 二人の背を、沈んでいく夕陽の茜色が染めた。














 二人の関係はどこか余所余所しいものになった。
 総司は土方に対して無邪気に振る舞うこともなくなり、遠慮がちになった。そんな総司を、土方は遠く見やるばかりだった。
 公の場では副長と一番隊組長として冷静に言葉をかわし、協力もしているが、私的な事になると二人のつきあいは絶たれていた。
 当然、彼らの変化は隊の中でも目についた。
「何があったんだ」
 稽古の後、井戸端で総司を捕まえた斉藤は、そう訊ねた。


 確かに、総司に片思いをしている。土方と恋人同士であることに嫉妬もしている。
 だが、それでも、総司の幸せが一番大切なのだ。
 総司が幸せであるなら仕方がないと、諦めて来たのだ。
 なのに。


「喧嘩でもしたのか」
「違いますよ」
 総司は小さく笑ってみせた。手早く着物の袷をひきあげながら、淡々とした口調で答える。
「ただ、土方さんと私の認識に違いがあっただけです」
「認識の違い?」
「私は、土方さんの念兄だと思っていましたけど、土方さんは私をただの弟としてしか思っていなかった。そういう認識の違いです」
「え……えぇっ!?」
 思わず仰け反ってしまった。


 まさか、そんな事あるはずないだろう! である。
 江戸の頃から、恋人同士として公認されていた二人なのだ。
 だからこそ、斉藤も諦めたというのに、土方が総司を「弟」としてのみ思っていたなど、ありえるはずがなかった。


「それは絶対ありえないだろう」
「土方さん自身から、告げられたのです。信じる他ないでしょう?」
「信じられない」
「そうですか?」
 総司は大きな瞳で、斉藤を見上げた。
「私なんかが土方さんの恋人だなんて、その噂自体がおかしかったのです。そんなふうになれるなんて、思い上がっていた罰があたったのです」
「何を云っているんだ。おまえは土方さんの念弟にふさわしいよ、いや、あの人にはもったいないぐらいだ」
「斉藤さん……」
 困ったように微笑み、総司は踵を返した。とたん、ぎくりとした。
 渡り廊下に土方が佇んでいたのだ。黒谷から帰ってきたばかりなのか、正装姿で、こちらを見つめている。
 だが、その鋭い視線を、今の総司は受けることが出来なかった。顔を伏せると、逃げるように駆け出していく。
 それをいつまでも追い続ける土方と、逃げる総司の姿に、斉藤は両手を握りしめた。