伊庭から文が来た。
だが、その誘いを受けるべきかどうか、悩んだ。
先日、あんな事があったのだ。恋人だと信じていた相手から「弟」扱いされた様を、見られてしまった。
恥ずかしかった。思い上がっていたことを、侮蔑されても仕方がないと思った。
何しろ、伊庭をふった理由自体からして、自惚れそのものだったのだ。土方と念兄弟だと告げて断ったのに、肝心の相手にその気がなかったなんて、何もかも独りよがりだったなんて、恥ずかしい限りだった。
(どうしよう……)
伊庭からの文は、料亭を指定していた。
かなり迷いはしたが、これが最後だと思った。これ以上、伊庭をふり回したくないからこその決意だった。
待ち合わせ場所に行くと、伊庭は先についているようだった。料亭など来たこともない総司は緊張しきっていたが、優しげな仲居に案内され、部屋に通される。
「総司」
縁側に坐っていた伊庭が立ち上がり、歩み寄ってきた。料理を運び入れる仲居に、「後は勝手にやるから、しばらく人払いをしてくれ」と告げ、二人きりにする。
怯えたように見上げる総司に、伊庭が笑いかけた。
「そんな緊張するなって。何もとって喰やぁしねぇよ」
「伊庭さん、あの……」
「今日はうまい料理を食わせてやろうと思ってさ」
いつもの明るい調子で、伊庭は総司を促した。背に手をかけられ、そっと卓の前に坐らされる。
目の前に並べられた料理は、確かにおいしそうだった。彩も綺麗で、京らしい品の良さをうかがわせる。どれも、総司が好みそうな料理ばかりで、伊庭の心使いに、胸が熱くなった。
「ほら、箸をとりな」
「は、はい」
こくりと頷き、総司は箸をとった。
病のため食が細い総司だが、それでも、口当たりのよい料理の数々に、いつもより余程食が進む。
それを眺め、伊庭は安堵したようだった。
寛いだ様子で街の様々な事などを話し、食事の合間に、笑わせてくれる。
食事を終えると、二人並んで縁側に腰かけた。運ばれてきた水菓子をふくめば、柔らかな甘みが口の中にひろがる。
「何だか、違う街みたいですね」
ため息をつきながら云った総司に、伊庭が首をかしげた。
「違う街?」
「私が今まで見てきた京と……同じ街のはずなのに、色んな顔があって驚きです」
「そりゃそうさ。どんな街にだって、いろんな顔があるぜ。江戸だってそうだろ?」
「えぇ。街も……人も……いろんな顔があるんですね」
「総司」
伊庭は手をのばすと、総司の白くて小さな手を握りしめた。
それに、驚いたように目を瞠る総司が可愛い。
「いっそ、おれと契りを結んじまわねぇかい?」
「契りって事は……念兄弟になるということ、ですか」
はっきりと問いかける総司に、伊庭は頷いた。
「おれの念弟になってくんな。ずっと一生、大事にするからさ」
「それは……」
総司は一度口ごもった。だが、静かな声で問いかける。
「私が土方さんに弟としてしか、思われていなかったから? 可哀想だと思って、同情で云っているの?」
「同情のはずがねぇだろ!」
思わず、伊庭は声を荒げた。
「そりゃ、可哀想だと思ったさ。総司は土方さんに操をたてていた訳だろ? それが弟としか思っていなかったと云われりゃ、どいつだって落ち込むさ。けど、それとこれとは別の話だぜ。おれは、総司が可愛いし、好きだぜ。ずっと昔から、念弟になってほしいって思っていた」
「伊庭さん……」
「おれはおまえに惚れているんだ」
「……っ」
総司はきゅっと唇を噛みしめた。
酷い話だが、こうして惚れていると云ってくれる相手が、土方だったならと思ってしまったのだ。
念兄弟として愛されていると思っていた。
可愛いがってくれるのも、恋人だからこそだと、自惚れていたのだ。
だが、土方は衆道になど何の興味もない男だった。女が好きなのだ。
それはごく当然のことだろう。
こんな痩せぽっちで病がちの自分より、美しい女の方が何倍いいかわからない。
だが、ならば……。
総司は顔をあげ、大きな瞳でまっすぐ伊庭を見つめた。
「伊庭さん」
「何だい」
「伊庭さんは、私のどこがいいの? 綺麗な女の人にも、伊庭さんは沢山もてるでしょう? この先、奥様だって娶られるでしょう? なのに、どうして、私なんか……」
「なんか、じゃねぇっての」
伊庭はため息をつき、総司の細い肩を抱きよせた。
「これだけ心底惚れている男相手に、自分を卑下するのかい? 総司はすげぇ可愛いし綺麗だし、気立てもいいぜ。それに、好きって気持ちに、女だとか男だとか関係ねぇだろう? 好きになっちまったものは、仕方ねぇんだから」
「好きになってしまったものは、仕方がない……」
伊庭の言葉をくり返した。
本当に、そうなのだ。
好きになってしまったら、理由や状況など考えても仕方がないのだ。
自分だって、そうだった。
彼のどこが好きかと聞かれても、的確には答えられない。
しいて云うなら、全部と答える他ないのだが……。
総司は目を伏せ、ぎゅっと両手を握りしめた。
「伊庭さん……私は土方さんのことが好きです」
「……」
総司の肩を抱く伊庭の手に力がこもった。それを感じつつ、言葉をつづける。
「土方さんが私を弟としてしか思っていないってわかっても、それでも、好き。恋しています。ただ……決して届かない想いだということは、この間のことで思い知らされました。土方さんは、私の気持ちにさえ気づいていない。そんな事、きっと考えたこともないはずです。だから、もう……願うのはやめにします。土方さんが私を弟として扱うなら、私もあの人を兄として慕い、支えつづけていくつもりです」
「総司……」
「伊庭さん」
総司は身をおこすと、伊庭を静かに見つめた。
「こんな私でも……いいですか? 私の気持ちを聞いても、それでも、恋人にしたいと願ってくれますか?」
「願うさ」
即答だった。
伊庭は総司の細い躰を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「おまえの気持ちがおれになくても、好意は持ってくれているって事だろ? だったら、それで十分さ」
「伊庭さん……」
「ずっと一生、大事にしていくよ」
そう囁いた伊庭の腕の中、総司は小さく頷いた。
「……随分と遅い帰りだな」
低い声が響いた。
考え事をしながら帰ってきた総司は、己の部屋の障子を開いた瞬間、息を呑んだ。
淡く灯された明かりがみちる中、土方が坐っていたのだ。今まで組んでいた腕を解きながら、鋭い視線をこちらへ向ける。
濡れたような黒い瞳に、心の臓がどきりとはねあがった。
「ひ、土方さん……どうして」
「話がある」
土方は平然と答え、自分の前に坐れとばかりに顎をしゃくった。
それに、総司は黙ったまま障子を閉めると、彼の前に坐った。
「伊庭と逢っていたのか」
「門限は破っていないはずです。それに……」
「自分の勝手か」
「そうです」
総司は勝気そうな瞳で、土方をまっすぐ見つめた。
「あなたは私の兄代わりですけど、でも、私の行動すべてに口出す必要はないでしょう? 勝手にしろと云ったのは、あなたの方です」
「そうだな、俺は確かに云った」
土方は胡坐をかいた膝に頬杖をついた。
「だが、あれはおまえが友人として伊庭と逢うと思ったからだ。まさか、念兄弟になるとは思わねぇだろう」
「どうして? それが何かいけない事ですか」
問い返した総司に、切れの長い目がむけられた。刺すような冷たい視線だった。
「……おまえは伊庭の念弟になったのか」
やがて、低い声が問いかけた。
それに思わず息を呑んだ。
男の声音の奥底に、紛れもない怒りを感じたのだ。
はっと顔をあげてみれば、黒い瞳はぎらぎらとした昏い光を湛えている。
牙を剥いた獰猛な獣のようだ──。
土方に対して、そんな事を思ったのは初めてだった。
だが、今、総司は、生々しい雄の気配を、土方から感じとっていた。
「……」
無意識のうちに身をすくめた。ぎゅっと袴を握りしめる。
「伊庭さんから求められて……それで……」
「それで?」
「念兄弟になる事にしました」
云ったとたん、総司は後悔した。
部屋の中の気配が張りつめたのだ。息苦しくなるほどだった。
鋭い刃を喉元に突き付けられたような、殺気だった気配。
「!」
不意に、土方の手がのびた。あっと思った時には手首を掴まれ、畳の上へ引き倒されている。
驚いて見上げると、切れの長い目の眦をつりあげた土方が、怒りもあらわに総司を見下ろしていた。射抜くようなまなざしが怖い。
「契りを結んだのか。この躰に男を教えられたのか」
「そん…なこと……!」
総司は思わず叫んだ。
「土方さんには関係ない! あなたに口出しされる謂れもないでしょう?」
「何だと」
「全部、私の勝手じゃない。私が伊庭さんに抱かれても、そんなの……っ」
言葉を続けられなかった。
突然、項を掴まれたと思うと、そのまま引き寄せられたのだ。端正な顔が間近に迫り、総司は目を見開いた。
「!?」
次の瞬間、口づけられていた。
初な総司相手にするような接吻ではなかった。
激しく濃厚な、貪りつくすような口づけ。
反射的に抗おうとしたが、身動き一つできなかった。横倒しで男の腕に抱かれたまま、深く唇を重ねられる。
強引に舌を絡められ、唇が腫れぼったくなるまで吸われた。まるで情事の始まりのような、濃い蜜のような口づけだ。
「っ…ぅ、ぁ……っ、ん…っ」
初めての口づけに、頭の中がぼうっと霞んだ。躰の力が次第に抜けてゆく。
抗おうと男の肩に突っぱねていた手も、いつのまにか、縋るように男の着物を握りしめていた。躰の芯が甘く痺れ、もどかしいような奇妙な感覚が総司を支配する。
震える華奢な躰を、男の大きな手が撫でまわした。背中や腰を撫でながら、何度も角度をかえて口づけてくる。
それはまるで、長い間、引き離されていた恋人同士のような口づけだった。
総司も抗うことなく、従順に男の求めに応じている。
何しろ、ずっと恋してきた相手なのだ。
つい先日、弟だと云われたことで諦めようと思ったが、それでも、愛している。恋している。
そんな相手に、突然、口づけられ、拒めるはずがなかった。
むろん、土方の意図はわからない。
だが、いつまでも、彼の腕に抱かれていたいと願った。
「……っ、は…ぁ……っ」
喘ぎ、潤んだ瞳で土方を見上げた。土方は濡れたような黒い瞳で見つめ返した。
「……総司……」
ぞくりとするような低い声で囁かれた。そのまま抱きすくめ、額や頬、首筋に唇を押しあてる。
それに、総司は甘い声をあげた。
まるで獣にでもなったような気分だった。本能だけで互いを求めてしまうのだ。
体面だとか、常識だとか、そんなこと関係なかった。
ただ、相手が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。
(土方さん、あなたの全部が欲しい……!)
両手をのばした。男の首をかき抱こうとする。
その瞬間だった。
「!」
遠く、土方を探す声がした。何か急な用らしく、隊士たちがあちこちを探し回っている。
それがどんどんこちらへ近づいてくる気配に、躰から熱が一気にひいた。
「……」
怯えた表情で彼を見上げると、土方も当然、気づいているようだった。総司を腕に抱いたまま、様子を伺っている。
やがて、仕方ねぇなと呟き、身を起こした。すっと総司を離し、だが、その着物を手早く整えてくれる。
土方は立ち上がると、総司を一瞥した。
男の唇が何か云いかけるが、結局は言葉を紡ぐことはなかった。彼を探す隊士たちの気配がすぐそこまで来ているのだ。
「……」
黙ったまま、土方はすっと部屋を出ていった。障子を閉め、歩み去ってゆく。
遠ざかる男の気配に、総司は畳の上にうずくまったまま、身を丸めた。躰を己の手で抱きしめる。
(……土方さん……)
信じられない想いに、目を閉じた。
気まぐれかもしれなかった。
他の男のものになると聞いたとたん、気持ちが動いたのかもしれない。
総司は自分にそう云い聞かせようとした。
一度あんな事があったのだ。とてもではないが、自分に都合のいい方向には考えられなかった。
むしろ、そう考えるのが怖かった。
また勘違いであったなら、どうすればいいのか。今度こそ、もう二度と立ち直ることができないに違いない。
だが、一方で、総司は土方と逢って話したいと思った。
何も言葉はかわしていないのだ。何の気持ちも、云い訳も、聞いてはいない。
信じるか信じないかは別として、これからのためにも、総司は土方に逢いたかった。
「……」
翌日の夜、総司は土方の部屋にむかった。
丸一日、彼と話す機会をうかがっていたのだが、全く逢うことが出来なかったのだ。
幸いなことに、避けられている訳ではないようだった。昨夜、やはり事が起こり、その後始末に土方は一日中忙殺されていたのだ。
彼が忙しいのは、よくわかっている。疲れているだろう事も。
だが、どうしても話したかった。
「……土方さん」
障子の外から声をかけると、土方は驚いたようだった。一瞬、間があり、「総司か」と返事が返される。
「はい。あの……入っていいですか?」
「あぁ」
彼の答えにほっとしつつ、総司は障子を開いた。部屋に入ると、土方はやはり仕事の最中のようだった。
文机には書類が広げられ、硯にも墨がためられてある。
筆を置きながらふり返った土方に、総司は「ごめんなさい」と謝った。それに、土方が訝しげに眉を顰める。
「何を謝る」
「お仕事の邪魔をして……ごめんなさい」
「いや、終えようとしていたところだ。構わん」
そう云うと、土方は手早く文机の上を片付けた。そっと腰をおろした総司に、土方が手元を片付けながら問いかける。
「おまえは……俺が怖くないのか」
「え?」
「昨夜、あんな事をした男の部屋を夜に訪なうなど、怖くねぇのかよ」
「あ……」
総司のなめらかな頬が紅潮した。長い睫毛をふせ、きゅっと両手を握りあわせた。
しばらく沈黙していたが、やがて、総司は小さな声で問いかけた。
「土方さんは、どうして……」
「何だ」
「どうして、私にあんな事をしたのですか?」
「……」
土方の黒い瞳が、総司をまっすぐ見つめた。