呆気にとられた顔で、総司は伊庭を見つめた。
 それに、伊庭は身をかがめた。顔を覗き込む。
「な、その方がよくねぇ? おれと付き合った方が楽しいと思うぜ?」
「伊庭さん」
「何もしねぇ土方さんと違って、おれは全部教えてやるからさ」
「お、教えてもらわなくて結構ですっ」
 思わす叫んだ総司に、伊庭はくくっと喉を鳴らした。面白くてたまらないという表情で、目を細めている。
 その様子に、ようやく気付いた総司は唇を尖らせた。
「……伊庭さん、私のことからかったでしょう」
「素直で面白いねぇ、総司は」
「私は真面目に話していたのにっ」
「いや、おれも真面目」
 伊庭は懐に手を入れながら、唇の端をあげた。土方とはまた違う感じのいい男である伊庭が、そんな表情をすると、危うげで魅力的だ。
「真面目も真面目、大真面目だよ」
「また、冗談ばかり」
「そうじゃねぇって。本気でおれは総司を口説いているんだぜ? 五年前以上に、真剣だし」
「真剣って……」
「惚れた可愛い子が幸せじゃねぇなんて、見過ごす事できると思うかい?」
「幸せ……ですよ」
 総司は長い睫毛をふせた。きゅっと唇を噛みしめる。
「私、土方さんの傍にいられて幸せです」
「けど、接吻も契りもしてねぇんだろ? 恋人扱いされた事ねぇんだろ?」
「それは……そうですけど」
「恋人扱いもしてくれねぇ男の傍にいて、幸せかねぇ。信じられる話じゃないね」
「……」
 総司は何も云えなくなってしまった。


 彼の傍にいられればと思っていた。
 ずっと傍にいれば、いつか、恋人として愛してくれると信じていたのだ。
 だが、土方はまるで総司に興味がないようだった。確かに優しく接してくれるし、笑いかけてもくれる。
 だが、接吻も抱擁も契りもないとなれば、土方の中で総司がどんな存在なのか、理解できるというものだった。
 結局の処、土方にとって、総司はいつまでたっても子どもなのだ。抱きあげたりおぶったりしてくれていた頃の宗次郎と、何ら変わりはないのだ。
 だから、土方も男としてその気になれないのだろう。
 総司に手を出さないのがいい証拠だった。女遊びばかりしている理由もよくわかる。
 彼は、己の欲望を外で発散させているのだ。
 総司は、彼にとって可愛くて素直で子供っぽい人形のような存在であり、欲望の対象として見られることは永遠にないに違いない。
 そんな彼の傍にいつづけることは、本当に幸せなのだろうか。


「……伊庭さん」
 総司は小さな声で呼びかけた。
 それに、伊庭が「ん?」と小首をかしげ、見下ろしてくる。
「私が、いつか土方さんとの関係に我慢できなくなって……」
「あぁ」
「突然、伊庭さんの処にいったら……受け入れてくれますか?」
「――」
 伊庭の目が驚いたように見開かれた。だが、すぐに笑うと、総司の頭をぽんっと軽く小突いた。
「あたり前じゃねぇか。大歓迎だよ」
「……ありがとう、伊庭さん」
 人は誰でも逃げ道が欲しいものだ。
 恋に迷っている時は、尚のこと。


(逃げても仕方がないって、わかっているけれど……)


 総司はそっと目を伏せた。












 土方と総司は、食事を共にする事が多い。
 というより、朝昼晩と、ほとんど二人きりだけで食事をとっているのだ。それは念兄弟であるなら当然のことと周囲からは思われていたが、そこに恋人同士の甘い雰囲気などまるでない。
 二人の会話は隊のことや世間話に限り、甘い睦言などかわされた事もなかった。
 だが、それでも、土方は総司が給仕することを望むし、総司が整えた膳にしか手をつけようとしないのだ。時々、総司が手作りのものを少し添えたりすると、笑顔になって喜んでくれる。
 それが嬉しい半面、総司はとんでもなく複雑な気分だった。


(私、恋人じゃない……)


 甘い睦言どころか契りさえ交わしてくれない。
 そのくせ浮気ばかりしている男の帰りを待って、食事を整えて、世話をして。
 どう考えても、恋人というより、妻だった。夫の帰りをひたすら待ち続ける妻だ。
「……」
 総司はきゅっと唇を噛んで、俯いてしまった。それに、土方が気づき、問いかけてくる。
「どうした」
「何でもありません」
「何でもないって顔か、それが」
 訝しげに眉を顰めた。手をのばし、総司のなめらかな頬を指さきで突っつく。
「ふくれっ面になっているぞ。また、怒っているのか」
「怒ってって……」
「昨日、俺が祇園に行ったことだよ。接待だと云っても、いやなのか」
「……」
 黙りこんでしまった総司に、土方は苦笑した。
「おまえ、本当に潔癖だな。男女の情欲って奴を、そこまで拒絶することねぇだろう」
「拒絶なんかしていません。ただ、いやだと思うのです」
「それが拒絶しているんだよ。あぁ、云っておくけどな、昨夜は何もしてねぇぜ、ただ酒を飲んできただけだ。それに、今夜はどこにも出かけねぇ」
「本当?」
 思わず声が弾んでしまった。
 今夜は総司も巡察の番ではなく、屯所にいるつもりだった。なら、久しぶりに一緒にいられるのだ。それが嬉しくて、思わずにこにこ笑ってしまう。
 だが、そんな総司を、土方は切れの長い目で眺めた。
「おまえは出かけねぇのか」
「え」
「てっきり出かけるつもりだと思っていたがな」
「どうして、そんなふうに思ったのです」
「最近、外出が多いだろう」
 何気ない口調で、土方が云った。視線を落とし、箸で魚をほぐす。
「よく出かけているようだからな、今夜もかと思った訳だ」
「あれは……」
 思わず口ごもってしまった総司に、土方は微かに眉を顰めた。しばらく黙ってから、ぽつりと云った。
「伊庭と逢っているのだろう」
「っ……」
「あいつがおまえに惚れていることは、江戸の頃から有名だ。そうか、京にのぼってからは全く音沙汰なしだったが、とうとうおまえに逢いに来やがったか」
「土方さんは、前から伊庭さんに逢っていたの?」
「逢いたくなくても、逢うさ」
「? どこで?」
「接待で行った宴や、黒谷でな」
 当然のことだった。副長として黒谷に行く事も多い土方なら、伊庭と逢っていてもおかしくなかった。
 だが、それを近藤も土方も、総司に伝えようとしなかったのだ。
 それは、総司の気持ちを思いやっての事だったのだろうが、何だか、疎外されたように感じてしまった。
 黙りこんでいる総司に、土方が問いかけた。
「一度はおまえがふった男だろう。どうして、頻繁に逢っている」
「逢いたいからです」
 はっきりと答えた総司に、土方は眉を顰めた。切れの長い目でじっと見つめている。
 その冷たく澄んだ黒い瞳に、息がつまるような気がした。手をとめ、そのまま見つめ返してしまう。
 しばらく後、土方はふっと息を吐くと、視線をそらした。低い声で呟くように云う。
「……逢いたいから、か。成程」
「土方さん」
「まぁ、おまえの好きにすればいいさ」
 突き放すような口調だった。否、まさにそうなのだろう。
「誰に逢おうがおまえの勝手だ。俺がとやかく云う事じゃねぇな」
「……」
 彼の言葉が胸に突き刺さるようだった。
 関係ない、興味がないと云われた気がしたのだ。
 そんなの、おかしいと思った。
 自分の恋人が他の男と頻繁に逢瀬をくり返しているのだ。しかも、その相手は、恋人にかつて告白までした男。なのに、それに彼は嫉妬もしないのだろうか。


(気にもとめず、好きにしろと簡単に云えてしまうなんて、本当に、この人は私を好いてくれているの?)


「土方さんは、私が好き?」
 思わず問いかけていた。
 口に出してしまってから、はっと我に返るが、もう遅い。
 土方は呆れたような顔で、こちらを見ていた。その黒い瞳に戸惑いと訝しげな表情を見つけたとたん、居たたまれなくなる。
「い、いいですっ。忘れて下さい」
 慌てて膳を片付け始めた総司に、土方は何も云わなかった。とめるでもなく、ただ部屋を出ていく総司を眺めている。
 そんな男の態度に泣きそうになりながら、総司は部屋を出た。
 突然、あんな事を聞いて、いったいどう思われただろう。今更、と思ったか、それとも何を莫迦なことをと思ったか。
 どちらにせよ、あんな事聞かなければよかったのに。
「惨めになるだけじゃない」
 小さな声で呟くと、総司はきゅっと唇を噛みしめた。












 私が好き?


 そう訊ねられた時、呆気にとられた。
 今更何を云っているのかと、心底呆れかえったのだ。
 いったい何度、告げたかわからない言葉。好きだも、惚れているも、愛しているも。
 何度も何度も囁きかけた。
 だが、総司はいつも恥ずかしそうに頷くばかりで、一度も言葉を返してくれた事はない。
「結局の処、子供なのか」
 土方は文机に頬杖をつきながら、ため息をついた。
 目の前には書類が山積みになっているが、先ほどの事を考えると、どうにも手をつける気になれない。


 とんでもない事を聞いて、飛び出していった総司。
 引き留めたいと思ったが、どうせ訊ねても、またはぐらかされ振り回され、男としての誇りをずたずたにされるのがおちなのだ。
 いったい何度、煮え湯を飲まされたことか。
 可愛い顔で笑いかけ、躰を密着させ、抱きよせようとした瞬間、するりと逃げだしてゆく。その桜んぼのような唇さえ、許されたことはない。
 いっそ無理やりでも男を教えてやろうかと思った事もあるが、気配を察したのか、潤んだ瞳で見上げられ「……歳三さん、怖い」と云われれば、手など出せるはずもなかった。とことん、彼は総司に弱いのだ。
 ならば、もはや女に逃げる他ない。総司を間違っても手込めになどしてしまわないよう、外で欲情を発散させるしか術はなかったのだ。
 あの細い眉を顰めているのはわかっていたが、決定的な事をしてしまい、総司に嫌われるよりは余程よかった。あの柔らかな心だけは傷つけたくないのだ。守ってゆきたいのだ。
 隊内で念兄弟だと噂されているのも、知っていた。
 だが、とんでもない話だ。
 総司は土方の恋人どころか、想いさえ通じていない存在だった。片思いの相手なのだ。
 それも、永遠に続くとしか思えない片思い……。
 おそらく、総司にとって、土方は兄のような存在なのだろう。
 何でも云うことを聞いてくれる、優しく自分を守ってくれる都合のいい男。嫌われてはいないと思うが、明らかに、土方が抱いている情愛など、かけらも総司は感じていない。
 でなければ、あんなこと無邪気に問えるはずもなかった。
 私が好き? などと。
 男の中に秘められた情愛も、その華奢な躰を喰らいつくしたいと狂う獰猛な獣も、知らぬからこその台詞なのだ。あどけなさなのだ。
 いつ、どんな言動が、男の箍を外すかわからぬのに。


「俺がどれだけ堪えていると思っているんだ」
 あの噂のおかげか、総司に恋慕する者は多くいても、手を出すものも云い寄るものもいないのは幸いだった。土方の冷ややかな一瞥で、たちまち逃げ去ってしまうのだ。
 だが、伊庭は違った。
 伊庭は江戸の頃から試衛館にも出入りし、総司の信頼や好意を得ている。一度告白してふられたとは聞いていたが、また懲りずに京でも声をかけてきたのだろう。余程、総司に惚れているということか。
 だが、土方にとって、それは不思議でも何でもなかった。自分も同じなのだ。初めて逢った時から、総司しか目に入らなかった。総司しか欲しくないのだ。
 まるで、餓えた獣のように。
「伊庭……か」
 そう呟くと、土方は頭の後ろに手をまわし、ごろりと畳の上へ横になった。天井を見上げ、眉を顰める。
 最近、総司の外出が頻繁になっていることに、むろん、気づいていた。それが伊庭相手だと知った時は、不愉快だったが、無理やりつきあわされているのだろうとたかをくくっていたのだ。
 なのに。


「逢いたいからです」


 狂ったように愛している男の前で、何のてらいもなく答えてみせる総司に、怒りのあまり目眩さえ覚えた。
 そんな事を云われて、男が平気でいられると本気で思っているのか。
 否、そうなのだろう。
 総司は、土方の想いなどまるで知らない。狂ったような衝動も、情愛も、何一つ知ろうともしないのだ。
 だからこそ、土方の前で、男と逢うことを楽しげに話せるし、挙句、その直後に自分のことが好きか? などと問いかけることが出来る。


(だが、その幼いゆえの残酷さまでもが愛しいなどと……本当に俺は狂っている)


 どうすればいいのかなど、わからなかった。
 このまま、伊庭にかっさらわれるのを、黙ってみていられるのかさえも。
 いつか、自分のものになってくれたらと願っていた。何度も告げた想いさえ届いていないことを、よくよく知っていながら、それでも、一縷の望みに縋っていたのだ。
「お笑い草だな」
 土方は己を嘲るように、口角をあげた。
 愛しても愛しても報われない想いに焦燥しながら、その実、最後の瞬間に、他の男に奪われてしまうなど、傍から見れば滑稽そのものではないか。
 否、奪われるなど、堪えられるはずがない。
 そんな事になるぐらいなら、いっそ……
「……」
 喉奥で低く嗤うと、土方は静かに瞼を閉じたのだった。