障子越しに乳白色の光が射し込んでいた。
朝の白っぽい光に、部屋の中が柔らかく満たされている。庭で聞こえる鳥の囀りに、眠りから引き戻された。
「……」
総司はぼうっとした瞳で、天井を見上げた。むろん、今の自分の状況は分かっている。
目覚めたとたん、自分を抱きすくめるようにして眠る男の姿に、すべてを思い出したのだ。
(私は……なんて事をしたの)
いくら彼に求められたからと云って、こんな事までさせてしまうなんて。契りを結んでしまうなんて。
身勝手すぎると思った。名を偽って彼を騙して、挙句、契りまで結ぶなど、自分で自分が許せなかった。
終わりにしなければと思ったのに。
もう、こんな自分から、彼を逃がしてあげなければと思ったのに。
なのに。
総司はきゅっと唇を噛みしめると、彼を起こさぬよう気をつけ、その腕の中から抜け出した。
ぐっすり眠っている土方の寝顔を見つめつつ、音をたてず手早く着物を身につけてゆく。昨夜、激しく愛されたために、躰が気怠かったが、そんな事は気にしていられなかった。
部屋を出ると、総司は宿の者に紙と筆を貸してくれるように頼んだ。その場でさらさらと「ごめんなさい、もう二度とお逢いしません」と書きしるし、もう一度部屋へ戻って文を卓の上に置く。
逃げるように宿を後にしたのは、そのすぐ後だった。
本当は戻りたい。
戻って、彼に抱きしめられたい。
だが、そんなこと、出来るはずがなかった。
これ以上、彼を縛りつける訳にはいかないのだ。もう、終わりにしないといけないのだ。
「……っ」
総司は涙をこらえ、足早に歩いた。
むろん、わかっている。屯所に戻っても、土方と顔をあわす事になる。だが、それは、沖田総司としてだ。土方の恋人だったはるという若者として、ではない。
それが唯一の救いのように、今の総司には思えた。
屯所に戻った総司は、朝餉をとる気にもなれなかった。
かなり早朝だったが、もう隊は動き出している。巡察に出ていく隊士たちとすれ違い、目礼した。
総司の外泊は、既に提出済だった。お久実の家で泊まる事もあったため、土方と逢う時はいつも外泊届をだしていたのだ。
(そう云えば、土方さんは宿についてから出したのかな)
ふと、そんな事を考えた。
自室へ向かって歩いている最中、近藤と行きあった。
「総司、もう帰っていたのか」
「はい。おはようございます」
一礼し、丁寧に挨拶した総司に、近藤は笑った。
「どこかに泊まってきたようだが、随分と早い帰りだな」
「えぇ……仕事もありますし」
「ゆっくりして来ればよかったのだ。しかし、おまえも律儀だな」
「え?」
小首をかしげた総司に、近藤が云った。
「外泊届は、一度で十分だぞ。二度も出す必要ないだろう」
「二度……?」
不思議そうな総司に、近藤はそれ以上何も云わなかった。今から黒谷なのだろう。慌ただしく屯所を出ていく。
それを見送り、総司は小首をかしげた。
近藤の言葉の意味がさっぱりわからなかったのだ。
どういう事だろう? と考えつつ、また歩き出した。広間の前を通りかかると、三番隊隊士たちと一緒にいた斉藤が声をかけてくる。
「総司、おはよう」
「あ、おはようございます」
相変わらず丁寧な総司に苦笑しつつ、斉藤が訊ねた。
「おまえ、どこかに泊まってきたのか?」
「……はい」
総司は自然と耳朶が熱くなるのを感じた。むろん、土方と一緒にいたなどと、云う事はできない。だが、つい昨夜の彼との情事を思い出してしまったのだ。
それを訝しげに眺め、斉藤が何か言葉をつづけようとした。
その時だった。
慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと、突然、後ろから腕を掴まれた。ぐいっと引き寄せられる。
「!?」
ふり返った総司は、そこにいる男を見た瞬間、息を呑んだ。
「ひ、土方さ……っ」
熱っぽい光を宿した黒い瞳が、総司を見据えていた。宿から急いで戻ってきたのか、肩で荒く息もしている。
それは、いつもの冷徹な副長の姿ではなかった。
最近、総司が見慣れるようになった、一人の若い男としての彼だ。
「来い」
有無を云わさぬ口調だった。
それに、総司は思わず抗った。
怖かったのだ。何がどうなっているのかまるでわからず、混乱もしていた。
「い、いやです。何をいきなり……」
「来いと云っているのがわからねぇのかッ!」
乱暴に一喝され、総司は目を見開いた。
完全に、土方は怒っていた。
副長として振る舞うようになってから、感情を表にあらわす事はほとんどなかったのだが、今、彼は激情を剥きだしにしている。その証に、切れ長い目の眦はつりあがり、黒い瞳もぎらぎらしていた。
驚きと怖さで身を竦ませた総司に、土方は苛ただしげに舌打ちした。もはや勝手に連れていく他ないと思ったのか、総司の腕を掴んだまま歩き出す。
「あ……っ」
よろめくようにして連れていかれる総司を、斉藤たち隊士は呆然と見送った。珍しく感情を激させた土方の様子に、誰も手出しできなかったのだ。
連れていかれたのは、土方の部屋だった。総司を突き飛ばすように部屋の中へ入れると、後ろ手にぴしゃりと障子を閉めきる。
総司は怯えきった表情で、彼を見上げた。
それに、土方は目の前に片膝をつくと、懐から取り出したものを突きつけた。
「これは何だ」
「え……」
「これは、どういう意味だと云っている」
「……」
総司はのろのろと、彼が手にしているものに視線を落とした。とたん、はっと息を呑んだ。
それは、総司が書いた文だったのだ。宿に残してきた、あの置き文だった。
血の気がさっとひいた。唇をわななかせ、思わず後ずさる。
「土方…さん……っ」
とうとうばれてしまった。
はるの正体が自分であることがばれてしまったのだ。
もしかすると、筆跡からわかったのかもしれない。
考えなしだったと、泣き出したくなった。
総司は掠れた声で云った。
「ごめん…なさい……っ」
「……」
「あ、あなたを騙していて……すみませんでした。はるとして偽ったこと、本当に……」
「おまえ、何を云っているんだ」
土方は苛ただしげに、総司の言葉を遮った。ばんっと文を畳にたたきつける。
「俺は! これがどういう意味なのかと聞いているんだよ」
「だから……私が、はるなのです。あなたを騙して、はるとして振る舞ったことは謝ります。だから、昨夜のことはもう忘れ……」
「忘れろってか」
煩わしげに、土方は片手で艶やかな黒髪をかきあげた。こんな時なのに、その仕草につい見惚れてしまう。
「冗談じゃねぇよ。やっと手にいれたんだ、忘れられるものか」
「でも、私はあなたを騙し……」
「おまえな、さっきから騙した、俺を騙したと云っているが、何のことだ、それは」
「え……?」
目を見開いた総司に、土方は微かに眉を顰めた。
「もしかして、おまえ、俺がまだわかっていないと思っていたのか。おまえが総司だと知らずに抱いたと、そう思っていた訳か?」
「知らずにって……」
総司は呆然となった。指さきが冷たくなり、躰中が震えだす。
「まさか……私のこと、沖田総司だとわかっていたのですか?」
「……」
「いったい……いつから」
「……初めからに決まっているだろう」
吐き捨てるような口調に、総司は目の前が真っ暗になった。すべてが絶望へと塗りかえられていく。
ならば、土方は自分が総司だとわかっていて、こんな茶番につきあっていたのか。
いつも屯所では無視し、蔑んでいた存在。
なのに、その総司が娘の恰好をして別人のように振る舞うのを見て、莫迦みたいだと嘲笑していたのだろう。
あの時のように、悪ふざけのつもりで、つきあっていたのか。
(あぁ、だから……)
昔と同じ台詞を何度もくり返したのだ。
俺のものになっちまわねぇか? と。
あの時、つづいた言葉そのままに、「悪ふざけ」なのだと念押しするように。
「い、いや……!」
総司は思わず土方の前から逃げ出そうとした。だが、それは素早くその小柄な躰を抱え込んだ男の腕によって、阻止される。
必死に男の胸や肩を叩き、総司は抗った。
「離して! いや……離して!」
「……離さねぇよ」
低い凄みのある声で、土方が云った。
「おまえが誰を思っていようが、どんなに俺を嫌おうが、それでも……絶対に離さねぇ」
「いやっ、こん…な、いやだ……っ」
「云っただろう、総司」
土方は総司の細い顎を掴んだ。無理やり仰向かせ、その瞳を覗き込む。
獣のような光を宿した男の瞳に、総司は息を呑んだ。
かたかたと躰を震わせる総司を満足げに眺めながら、土方は囁いた。
「おまえを俺のものにする、と」
「土方、さ……」
「今更逃げるなど許さねぇ。おまえは俺のものなんだよ、総司」
彼を騙した罰として。
自分には分不相応な幸せを求めた罰として。
そんな声を聞いた気がした。
抱きしめてくる男の腕の中で、総司はすべてを拒むように目を閉じた。
表面上は以前と同じ日々が始まった。
土方はあれきり屯所の中で、総司に声を荒げる事もなかったし、無理強いをする事もなかった。今までどおり、冷徹な副長として接してきたのだ。
むしろ、変わったのは総司の方だった。
今までも緊張したりしていたが、別に、彼を避けるような事はなかった。だが、今は土方と逢う事を出来るだけ避け、顔をあわせても怯えきった様子で身を固くしている。
その様子に、土方は舌打ちしたいほど苛だっていたが、それでも、屯所の中では感情を出すことは控えた。
だが、その分、屯所の外での逢瀬では、その激情がむき出しにされた。総司はたびたび呼び出され、土方に激しく貪るように抱かれたのだ。
外泊届を勝手に二人分出してしまい、あの以前泊まった宿へ連れこまれた。離れの部屋なので声を出せばいいと云われ、躰中がとけそうなほど愛撫され、彼を受け入れさせられた。
今夜もそうだった。あまりにも激しい情事に、総司は気を失った。痛みはあたえられていないが、快楽の限度を超えてしまったのだ。
「……」
ぐったりと褥に倒れ込んでしまった総司を見下ろし、土方は眉を顰めた。ちっと短く舌打ちする。
「……最低だな」
むろん、苛だちは己自身に対してだった。
総司に対して怒りはあるが、それは報われない、相手にもされていないという屈辱と切なさによるものだ。こうして何度抱いても心を開いてくれない総司に、虚しさがこみあげるばかりだった。
「俺は何をやっているんだ」
総司から躰を離すと、土方はそのまま褥の上で片膝を抱え込んだ。はぁっとため息をつき、目を閉じる。
春の日に、娘姿の総司と出会った。
むろん、それは偶然などではなかった。斉藤と出かけると聞いて、つい後をつけてしまったのだ。
斉藤とはぐれた総司を見守るうちに、総司はある一軒の店へと入っていった。そして、驚いた事に、出てきた総司は娘が着るような美しい小紋を身につけていた。
思わず見惚れるほどの可憐さ、美しさだった。
声をかけようかと思った。だが、日頃、自分に対して怯えた表情をみせる総司の態度を思うと、それも躊躇われた。
そんな時だったのだ。総司が酔漢に絡まれたのは。
思わず助けた土方に対し、総司は「はる」だと自分を偽った。
初めは何の冗談だと思った。
自分が総司であることがばれていないと思っているのかと。
土方にとって、総司は掌中の珠なのだ。幼い頃からずっと見つめ、愛してきた唯一の存在。なのに、その総司が少し着物や装いを変えたぐらいで、わからないはずがなかった。
だが、考えてみれば、それは彼の勝手だった。総司にすれば、土方は冷たくて恐ろしい鬼の副長なのだろう。ほとんど言葉もかわした事のない他人なのだ。
娘姿になっている総司が、自分を偽りたいと思っても当然のことだった。
調子をあわせてやろうと思った土方だったが、言葉をかわすうちに、次第に気持ちが浮き立つのを感じた。
総司は隊でいる時とはまるで違った。明るく朗らかに笑い、土方にも何も臆することなく言葉を返してきた。いつも目を伏せ、視線さえあわさない総司とはまるで別人のようだった。
どんなに、その瞳が見たいと思ったか。その笑顔が見たいと思ったか。
突然、僥倖のようにかなえられた願いに、土方は自分でもおかしくなるぐらい有頂天になった。先のことなど考えなかった。総司とこうして逢って会話できることが、嬉しくてたまらなかったのだ。
娘だと思い込んでいたと知らされた時は驚いたが、すぐにそれは否定した。男でも女でも構わないと告げた。
好きだとも云った。初めて逢った時から好きだったと、本心を告げた。
だが、総司は彼に応えてくれなかった。いつも恥ずかしそうに身を寄りそわせつつも、どこか壁をつくっていたのだ。
それが土方にはもどかしくてたまらなかった。
そんな時だったのだ。
近藤から、斉藤と総司の話を聞かされたのは。
やはり念兄弟らしいという話に、目の前が真っ赤になるような気がした。怒りと嫉妬で、頭がおかしくなりそうだった。
今更、他の誰かに奪われてたまるかと思った。総司の気持ちが知りたかった、確かめたくてたまらなかった。だからこそ、総司を屯所の中で呼びとめ、食事を共にしたのだ。
だが、相変わらず、総司は土方に怯えていた。はるとして逢う時は楽しそうに笑いかけてくれるのに、屯所の中ではまるで別人だった。
彼を蛇蝎のように嫌い、避けているのだ。
総司のそんな態度に胸奥が重苦しくなったが、土方は必死にそれを抑えた。
(総司は、俺自身を好いてはいない……)
その事を思い知らされた気がした。
やっと土方さんサイドになりましたが、とたんに昼メロの世界です。