翌朝、総司は早いうちに目を覚ました。
躰は重く気怠かったが、それをおして起き上がった。隣で、土方はまだ眠っている。
物音をたてないよう気をつけて着替えると、部屋を出た。
むろん、逃げるためではない。あの時とは違うのだ。
階下へ降りた総司は、宿の者に、二人分の食事の用意を手伝わせてもらえるよう頼んだ。土間の一角を借りて、味噌汁だけでもつくらせてもらう。
出来上がった膳を部屋に運び、総司は土方が眠っている隣室へ戻った。褥の傍らに膝をつき、そっと顔を覗き込む。
だが、そのとたん、手首をぐいっと掴まれ、悲鳴をあげそうになった。ひっぱられたため、男の上へと半ば倒れ込んでしまう。
「土方さん……!」
慌てて身を起こした総司の手をとらえたまま、土方が問いかけた。
「……どこへ行っていた」
「え、あの」
「逃げたのかと思った、あの朝のように」
「……っ」
初めて二人が結ばれた日の翌朝、総司は土方をこの宿に残し、逃げたのだ。その事を云っているのだろう。
思わず唇を噛んでしまった総司に、土方は口角をあげた。
「もっとも……逃がしはしねぇけどな。俺はおまえを二度と手放さない」
「……」
黙ったまま俯いていると、その細い顎が男の手にとらえられた。強引に仰向かされる。
見上げると、濡れたような黒い瞳が総司をじっと見つめていた。やがて、顔をそむけると、忌々しげに舌打ちされる。
びくりと肩を震わせた総司にかまうことなく、土方は立ち上がった。脱ぎ捨てていた着物を手早く身につけてゆく。そうして身支度を整えると、部屋の襖を押し開いた。歩み入ったところで、膳が並べられている事に気づく。
土方は、はっとしたように総司をふり返った。
「……おまえ、これを受け取りに行っていたのか」
これ、というのが、朝餉の膳の事であるのは明らかだった。
総司は彼のぬくもりが残る褥の上に坐りこんだまま、おずおずと頷いた。俯き、小さな声でつづける。
「何か、あなたのためにしたくて……それで……」
「――」
それを聞いた土方はしばらく目を見開いていたが、やがて、大股に部屋を横切った。総司の傍まで戻り、跪くと、乱暴なほどの勢いで細い躰を抱きよせる。
「すまん」
謝られ、総司は目を見開いた。それに、土方はその躰を抱きしめつつ、言葉をつづけた。
「俺は……おまえの気持ちも考えず、また酷い事を云ってしまった。本当にすまねぇ」
「そん…な、私が悪いのです」
総司はゆるゆると首をふった。
「あなたを騙して、あの日逃げたのは私だから……あなたが疑うのも無理はありません」
「いや、いつまでも拘っている俺が情けねぇのさ。俺は……駄目だな、おまえの事になると頭に血がのぼっちまう」
そう云ってため息をついた土方は、総司の手をとるようにして立ち上がらせた。優しく隣室へと連れていってくれる。躰が気怠い総司の足元もおぼつかない様子に、眉を顰めた。
「こんな躰で、俺のために……」
「私がしたくて、勝手にしたことです。ごめんなさい」
あくまで控えめな総司に、土方は胸奥が熱くなった。ぎゅっと一瞬だけ抱きしめてから、座布団の上に坐らせる。
食事が始まると、土方はまめまめしく総司のために世話を焼いてくれた。まさか、彼がそんな事をしてくれるとは思っていなかったので、狼狽してしまう。
「あの、私が……っ」
魚までほぐしてくる土方に、総司は慌てて手をのばした。だが、土方は小さく笑うだけで、食べやすいよう丁寧にほぐしてから、皿を返してくる。
「俺がしたいから、勝手にしたんだよ」
先ほどの総司の言葉を真似てから、土方は悪戯っぽく笑ってみせた。黒い瞳が総司だけを見つめ、とても綺麗だ。
ぼうっと見惚れてしまった総司は、頬が熱くなるのを感じた。素直に「ありがとうございます」とだけ云って、魚の身を口にはこぶ。
味噌汁の椀を取り上げた土方に気づき、思わずじっと見つめてしまった。食してから椀を膳に戻した土方は、その視線に首をかしげる。
「何だ」
「いえ、あの……」
「何かあったのか?」
「そうじゃなくて、その…お味噌汁……おいし、かったですか?」
おずおずと訊ねる総司に、土方は「え?」という表情になった。それから、味噌汁と総司を見比べると、不意に、嬉しそうな笑顔になった。
「もしかして、これ、おまえがつくってくれたのか?」
「は、はい」
「すげぇ旨かったよ」
土方は、総司が恥ずかしくなるぐらい褒めてくれた。
「おまえらしくて優しい味だ。ありがとう、総司」
「ありがとうございます」
耳朶まで真っ赤になりながら、総司は俯いた。
……嬉しかった。
ほんの少しでも、彼に喜んでもらえたのだ。
本当に、嬉しくてたまらなかった。
朝餉を終えると、二人は帰り支度をした。屯所に戻るため、総司は歩き出そうとする。
だが、後ろから柔らかく引き留められ、驚いてふり返った。
「土方…さん?」
「少し散策してから帰ろう」
「え」
「大丈夫だ。隊の方へは使いを出してある」
そう云うと、土方は総司と手を繋いだまま、歩き出した。まるで、はるとしてつきあっていた頃のように。
総司は思わずふり払いかけた。
すれ違う人々の視線が怖かった。
はるの姿をしていた頃は、娘のように見えるため、誰も見とがめる者はいなかったのだろう。
だが、今は違うのだ。
「は、離して下さい」
小さな声で懇願した。
「こんな事をしたら……土方さんに迷惑がかかります」
「別に構やしねぇよ」
「でも」
「それとも、おまえは俺とこうしているのが嫌なのか」
「……」
低い声音だった。
はっとして見上げると、土方は形のよい眉を顰めている。それに、躰が竦んだ。
また、自分は彼の機嫌を損ねてしまったのだ。せっかく笑いかけてくれていたのに、なのに、不用意な言葉で彼を苛立たせてしまった自分が悲しくなる。
「ごめんなさい」
小さな声で謝ったが、より一層、彼の怒りに火を注いでしまったようだった。
土方は総司の方へ向き直ると、鋭い瞳でその小さな顔を見下ろした。
「何に対して謝っているんだ」
「土方さん……」
「俺といるのが嫌だという事を、謝っているのか」
「……っ」
泣きだしそうになりながら、首をふった。
だが、土方はそれを信じてはくれなかったようだった。
ちっと短く舌打ちすると、手を離した。もう散策などする気が失せてしまったのか、屯所の方向へと歩きだしてゆく。
(土方さん……)
決してふり返らない男の広い背を見つめ、総司は唇を噛みしめた。
土方からの誘いが途絶えた。
先日、宿屋で別れてから、もう二十日も呼び出されていない。むろん、隊内では相変わらずだった。声をかけるどころか、一瞥さえ与えられぬ状況が続いている。
総司は土方を屯所で見かけるたび、必死に衝動を堪えた。
本当は訊ねたかった。
話しかけたくてたまらなかったのだ。
もう……私に飽きてしまったの?
だが、そんなこと聞けるはずもなかった。
二人の関係上、許される事ではなかったし、何よりも、そんな情けない真似は総司の矜持が許さなかった。だが、そのくせ、不安で不安でたまらないのだ。
こちらを見向きもしない土方が、本当に総司に飽きてしまったのではないか、また関心を失ってしまったのではないかと、怖くて仕方がない―――。
「私って……素直じゃありませんよね」
そう云った総司に、斉藤が驚いたように顔をあげた。
巡察の帰りだった。たまたま一緒になった斉藤が誘いかけると、総司は「甘いものでも食べていきましょう?」と笑いかけてきたのだ。
二人一緒に甘味処に入り、葛切を食べた。江戸と違い、黒蜜をかけて食べるが、総司はこれが気にいっている。
ひとしきり隊の事などを話してから、不意に、総司が口にした言葉に、斉藤は驚いた。
「おまえが素直じゃない?」
「えぇ」
「何を云っているんだ。おまえが素直じゃなかったら、誰が素直だと云うんだよ」
「でも、私……素直じゃありませんよ」
総司は淋しそうな笑みをうかべた。
「聞きたいことがあっても、聞けないし、云いたい事があっても云えないし。自分にも嘘ばかりついて、全然素直じゃないと思うのです」
「自分に嘘、か」
斉藤は呟き、ちょっと目を細めた。
「それって、誰でもある事じゃないかな。皆、自分に嘘をつく事ぐらいあるだろう。誰だって自分の中にある弱さや悪からは、目をそらしたいものだ。そうして、何もないように振る舞っている」
「うん、それはわかります。でも、斉藤さんが云ってくれたことと、私の状況はちょっと違うかもしれない」
愛らしく小首をかしげた。
「自分の気持ちに素直じゃないのです。嘘ばかりついているのです。本当は、好きで……好きでたまらないのに、もっと逢いたい、もっと甘えたいと思うのに……我慢して、あの人に嫌われたくないから必死に頑張って……」
言葉が途切れた。
総司は空になった器を見つめ、ぼんやりとしている。
それを斉藤が見守っていると、やがて、消えそうなほど小さな声がぽつりとく呟いた。
「もう……疲れちゃった」
「総司」
「何をやっても、私はあの人に関心さえ持ってもらえないんだとわかったから……」
「あの人とは、副長……土方さんのことか」
そう訊ねた瞬間、総司の細い肩がびくりと震えた。ますます深く俯いてしまう。
「……」
斉藤は、土方が総司に関心を持っていないなどと、全く思っていなかったが、ここまで総司を追いこんでいる男の行動に怒りを覚えた事は確かだった。
ふれるのも許さないと云われたが、そんな事知ったことではないと怒鳴り返してやりたくなる。
不意に手を伸ばし、総司の手を掴んだ。それに驚いたように顔をあげる総司が可愛い。
「総司、おれとつきあわないか?」
「え?」
総司は目を瞬いた。それに、斉藤は笑いかけた。
「もちろん、本当にじゃないよ。おまえ、土方さんの気持ちがわからないんだろう? あの人が自分をどう思っているか、知りたいんじゃないのか」
「そうです…けど」
「なら、オレが念兄弟だって名乗りをあげたら、少しはわかるんじゃないか? あの人の行動を見ればいいんだ」
「そんなの駄目ですよ」
慌てて手を引き抜き、総司は首をふった。
「斉藤さんにも迷惑がかかるし……それに、これ以上、私は土方さんに嘘をつきたくないのです」
「嘘をついたのか?」
「えぇ」
総司はこくりと頷いた。
「詳しくは云えませんけど、あの人に嘘をつきました。だから、もう二度と嘘や偽りはいやなのです」
「なら、その気持ち自体は伝えたのか?」
「え?」
目を瞬く総司に、斉藤は静かな声で云った。
「おまえの気持ちだよ。土方さんが好きなんだろう? 傍にいたいんだろう? もう二度と嘘はつきたくないと思うなら、素直にそう告げればいいじゃないか」
「そんなの……」
総司は小さく首をふった。
「出来るはずがありません。だいたい、好きだと告げてどうなるの? 傍にいてくれるのですか? そんな事……ありえるはずがないのに」
「ありえるはずがないって、どうして決めつけるんだ」
「だって、相手はこの私なんですよ」
思わず声が高くなった。
「娘でもなくて、全然綺麗じゃなくて、素直じゃないし、快活でも明るくもなくて……こんな私が、どうして、相手にしてもらえるの? 駄目だとわかっている事に挑むほど、私は強くない」
「総司、おまえ……もっと自信をもてよ」
斉藤はため息をついた。
「おまえは可愛いし、綺麗だ。素直で優しくて、気立てもいい。おまえみたいなのを嫌う男はいないよ。土方さんだって……」
「世辞はやめて下さい。私は……自分が嫌いなのです。土方さんに関心さえ持ってもらえない私が、惨めでたまらないの……っ」
そう云なり、総司は立ち上がった。手早く勘定をすませ、店から駆け出て行く。
後ろで斉藤が何か叫んでいるのが聞こえたが、ふり返ろうとは思わなかった。何度も転びそうになりながら、どこへ行くともなく走った。
角を曲がった瞬間だった。
どんっと誰かと突き当ってしまう。男の胸もとへ飛び込む形になってしまったのだ。
「……あ」
視界の端に入った刀に、相手が侍だと知り、頭が冷えた。無礼者と罵られ、斬りあいになる可能性もあるのだ。
思わず身を固くした総司に、だが、男はまるで動じていなかった。低い声が問いかける。
「……こんな処で何をしている」
「!」
聞き慣れた声に驚き、顔をあげた。息を呑む。
そこにいて、総司を抱きとめるようにして佇んでいたのは、土方だったのだ。黒絣の着物をさらりと着流した姿は粋で、京で鬼のように恐れられている新選組副長にはとても見えない。
濡れたような黒い瞳が、総司を見下ろした。
「巡察の後、散策でもしていたのか」
「いえ……あの」
総司は慌てて身をひき、男の腕の中から逃れた。それに土方が痛みを覚えたかのように眉を顰めた事に気づかぬまま、謝る。
「すみませんでした。巡察の後、斉藤さんと逢って、それで……」
「……」
斉藤の名を聞いたとたん、土方の端正な顔から拭いとったように表情が消えた。冷たい瞳が総司にむけられる。
「成程」
微かに唇の端をあげた。
「で? その斉藤は」
「さっき、別れました……少し気まずくなったので」
「……」
土方は探るように総司を眺めた。だが、やがて、かるく肩をすくめると、そのまま総司の傍を通り過ぎ、歩き出す。
総司は思わず瞼を閉じた。
去っていくのは、当然のことだった。
土方には、何の関係もないのだ。総司の行動に関心をむける理由もない。
なのに、気まずくなったからなどと、まるで彼の気をひくような事を云ってしまった自分が情けなくなる。
ぎゅっと両手を握りしめ、総司は反対方向に歩き出そうとした。そのとたん、だった。
「――総司」
男の声に、びくりと肩が震えた。
驚きつつふり返ると、とうの昔に立ち去ったはずの土方が訝しげにこちらを見ていた。
「どうした」
「え……」
「さっさと来いよ」
「……」
呆然と立ちつくしてしまった。だが、土方は、総司が一緒にくるのが当然だと云わんばかりの表情だ。そうして待っていてくれる男の姿に、はっと我に返った。
「す、すみません」
慌てて駆け寄ると、土方がかるく両手をあげて伸びをした。
「暑いな。どこか涼しい処でも行くか」
「あの、土方さん……お仕事は」
「見ればわかるだろう、今日は非番だよ」
そう云うと、土方は手にしていた編み笠をかぶった。それから、総司の手をひき、さっさと歩き出していく。
頬を染めたが、今度は抗わなかった。
こんな事で再び云い争いたくなかったのだ。
(……土方さん)
あんな事があったにも関わらず、また繋いでくれた土方の手がとても嬉しかった……。
次、お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいね。