「土方さん……」
小さく呼んだ声が届いたのか、どうか。
土方はゆっくりと、総司の方へむかって歩き出した。端正な顔には何の表情もうかんでいない。
冷たく澄んだ黒い瞳に、総司は自分が道端の石ころにでもなったような気持ちになった。惨めでたまらなくて、俯く。
だが、そのためだろうか。すれ違おうとした瞬間、思わず云ってしまった。
「松原さんの事……聞きました」
久しぶりの会話だった。だが、他に何を云うことが出来るのか、総司にはわからなかった。
土方が切れの長い目を、総司にむけた。微かに唇の端があがる。
「……そうか」
「あの、土方さんは……」
云いかけ、口ごもった。
どう思っているのですか?
今回の事で何も思わないのですか?
そんな事、聞ける事ではなかった。否、聞いてどうなるというのだろう。
総司は少し躊躇ってから、小さな声でつづけた。
「松原さんの相手の方……亡くなられたのですか?」
「相手?」
僅かに眉を顰めてから、土方は「あぁ」と頷いた。
「心中だからな。死んださ」
あっさり云ってのけた後、土方は探るような表情で総司を見た。
「おまえ、気になるのか」
「気になるというか……なんだか、他人事とは思えなくて」
総司の言葉に、土方は驚いたようだった。だが、すぐに眉を顰めると、きつい口調で云い捨てる。
「妙な云い方をするな。他人事とは思えぬなど、人に聞かれれば誤解されるぞ」
「申し訳ありません……」
総司は小さくなり、俯いてしまった。
久しぶりの会話だった。
公の仕事以外で、久しぶりに言葉をかわしたのだ。
なのに、それがこれとは。
自分は、彼を苛立たせることしか出来ないのだろうか。これだから、子供だと侮蔑されてしまうのだ。
総司は泣きだしたくなる思いで、ぎゅっと着物を握りしめた。それから、一礼すると、歩み去っていこうとする。
だが、素早く男の手がそれを引き留めた。腕を掴まれ、引き寄せられる。
「待て」
「……は、離して」
思わず身を捩った。涙目になっている自分を見られたくなかったのだ。
こんな事で泣いてしまうなんて、相変わらず子どもだと嘲られたくなかった。
だが、土方は容赦なく総司の顎を掴むと、仰向かせた。瞳を覗き込んでくる。
慌てて目を閉じたが、男の鋭い視線を感じた。
「……おまえ、泣いているのか」
しばらく後、掠れた声が訊ねた。それに、きゅっと唇を噛みしめる。
「泣いて、いません」
強情をはって云うと、土方が微かに苦笑した気配がした。
「嘘つけ。きれいな涙がこぼれている」
……本当なのだろうか。
自分の涙は綺麗なのだろうか。
いや、そんな事があるはずなかった。
この人を裏切り、この人を傷つけた自分の涙が、綺麗なはずがないのに。
総司は目を開き、長い睫毛を瞬かせた。とたん、真珠のような涙がこぼれる。
それに、土方が微笑んだ。
「ほら、泣いている」
「土方…さん……」
「人に見られたらことだ。ここへ入れ」
土方は総司を袂で庇うようにして、すぐ傍の小部屋へ連れ込んだ。障子を閉められると、しんと静まり返った部屋に二人きりになる。もともと人通りの少ない場所だった。そのため、隊内の喧騒も全く届いてこない。
「なぜ……泣いた」
腰を下ろしながら問いかける土方に、総司は唇を噛んだ。坐れと促され、彼から少し離れた場所に座る。その行為に眉を顰めたが、すぐさま、土方は揶揄するように低く嗤った。
「何だ、おまえ、警戒しているのか」
「警戒なんか……」
「以前のように犯されるか、それとも殺されるかとでも思っているのだろう」
「ち、違います!」
総司は思わず声をあげた。
「そんな事、思っていません。ただ、私は……恥ずかしくて。あなたと久しぶりの会話があんなので、悲しくて、それで泣いてしまっている私が恥ずかしくて……」
「悲しい?」
土方は訝しげに首をかしげた。
「俺との会話がまずければ、おまえは悲しいのか」
「はい……」
「今更、何を云ってやがる」
男の声が怒りを孕んだ。はっとして顔をあげた総司を、鋭い瞳が見つめる。
「手を放したのは、おまえの方じゃねぇか。俺を嫌い、逃げ出したのはおまえだろう。それが今更、何だ。悲しいなんざ云うぐらいなら、俺に話しかけるんじゃねぇよ」
江戸の頃そのままの、荒々しい口調だった。切れの長い目の眦はつりあがり、頬が僅かに強張っている。
本気で怒っているのだ。
それを、総司は呆然と見つめた。
斉藤の話から、土方がそんなふうに受け止めている事は、わかっていた。
だが、彼が今もそれに囚われているとは思っていなかったのだ。
土方の中には、もはや自分の存在などありえぬと思っていた。
「ごめん…なさい……っ」
思わず、総司は謝っていた。ぽろぽろ涙をこぼしながら、懸命に言葉をつづけた。
「私、そんなこと……ただ、あなたから離れるべきだと思ったから、そうでないと、大人になれないとわかっていたから」
「……」
「でも、これだけは信じて。私があなたの元を離れたのは、土方さんを嫌ったからじゃない。そんな事……」
「今更だ」
土方は煩わしげに片手で髪をかきあげながら、吐き捨てた。
「おまえが今、伊東の念弟になっている以上、全部今更なのさ」
「念弟にはなっていません! 私は……っ」
今も、あなただけを愛している。
そう云いかけた唇が、男の手でおおわれた。はっと息を呑んだ時には、畳の上へ押し倒されている。
驚いて見上げた総司の肩を、土方は片手で畳に押しつけた。足も膝で押さえつけられ、身動き一つ出来ない。
「……こんなに脆い、のにな」
掠れた低い声で、土方は呟いた。切れの長い目が総司の愛らしい顔から、首筋、白い胸もとまで見つめる。
「少し力を入れれば折れてしまいそうなほど、おまえは脆いんだ。なのに、おまえは、決して俺の思い通りにならない」
「土方……さん」
「昔から、そうだった。可愛がっても愛しても、おまえはいつも逃げ出す隙を伺っていた。囲いこむ俺の腕から、するりと逃げていった」
土方は酷薄な笑みをうかべた。黒い瞳がぞっとするような殺気を湛える。
「おまえは今、幸せだろうな。俺から逃げ出す事が出来たんだ。今度こそ自分の選んだ男と愛しあう事が出来て、さぞかし幸せな事だろう」
「幸せ……?」
小さく、呟いた。
自分は今、幸せなのだろうか。この人から離れて、自由になれて、それで幸せになれたと?
そんな事ありえるはずがなかった。
(ずっと昔から、私の幸せはあなたの傍にしかないのに……)
ならば、どうして離れてしまったのか。自分が選んだ道だとわかっていながら、彼の声を聞くと、彼の姿を見ると、心が引き戻されてしまう。
そんな自分の弱さに、総司は唇を噛みしめた。やるせない思いに、黙ったまま目を閉じる。
だが、すぐに目を開いた。そっと、唇にふれるものがあったのだ。驚いて見上げると、土方が顔を近づけ、口づけた処だった。いつのまにか、彼は優しい色の瞳になっている。
「……そんな顔をするな」
「え……?」
意味がわからず瞬いた総司に、土方は苦笑した。
「自覚ないのか。とにかく、そんな淋しそうな顔をするんじゃねぇよ」
「土方…さん……」
背中に手をまわされ、抱きおこされた。そのまま深く唇を重ねられる。
久しぶりの口づけだった。
極上の酒に酔わされるような、甘くて激しい接吻。
舌をからめられ、何度も愛撫された。男の大きな手のひらが、躰の線をなぞってゆく。
着物ごしに背中や腰あたりを撫でられ、総司は小さく躰を震わせた。少しずつ少しずつ、甘い口づけと愛撫で、躰の芯に火が灯されてゆく。
「んっ…ぅ、ん…ぁ……っ」
抵抗などしなかった。むしろ縋るように男の逞しい胸もとにしがみつき、口づけを受けている。
男の手が着物の下にすべりこむと、自ら躰を開いた。シュッと音をたてて帯が抜かれる。
乱れきった着物を纏わりつかせたまま、総司は土方と愛しあった。
貪るように、肌のあちこちに口づけ、愛撫してくる男が愛しい。
下肢に顔をうずめられた時は、その髪を掴んで啜り泣いた。無意識のうちに腰が揺れ、男だけを早く早くと求めてしまう。
やがて、深く交わった時、総司は土方の肩に爪をたてた。
鋭い苦痛と強烈な快感。
男があたえてくれる情交の深さに、総司は泣きじゃくった。
「ひぃあッ、あっ、あっ……ぁあっ」
激しく体を揺さぶられた。
土方はまるで獣のように総司を抱いた。貪りつくすような情交だった。細い両膝を抱え込み、力強く腰を打ちつけてくる。
そのたびに、男の猛りが蕾の奥を穿ち、突き抜ける快感に総司は泣き叫んだ。
ここが屯所だとか、昼間だとか、そんな事も何もかも忘れ、男の背にしがみついてしまう。
「ぁあっ、ぁっ、んっ…ぁんっ」
「……総…司……総司…ッ」
うわごとのように若者の名を呼びながら、土方は総司の白い首筋や肩にむしゃぶりついた。赤い花びらの痕が散らされてゆく。
総司はそれにさえ感じ、艶めかしく身悶えた。熱をもった躰は男を深く受け入れ、快楽の頂きへと駆けのぼる。
「い、いっちゃ…ぁっ、ぁあっ」
「……く…っ」
「ひぃ…ぁあっ、ああッ、ぁああーッ……」
掠れた悲鳴をあげてのけ反った瞬間、総司のものが達した。白い蜜を迸らせる。
同時に、蕾の奥にも男の熱をたたきつけられ、総司は堪らず泣きじゃくった。
疼きがまだおさまらない。躰が熱くて熱くてたまらなかった。
彼が欲しい。
彼をもっと感じたい。
「土方…さんっ、土方さ……っ」
彼の名だけを呼びながら、縋りついた。白い足を男の腰にからめ、もっと深く受けいれてゆく。
それに、土方が堪らず喉を鳴らした。低く獣のように唸ると、総司の躰を乱暴に畳へ這わせ、一気に後ろから突き入れてくる。
「ぁああーッ……!」
甲高い悲鳴をあげた唇は、背後から塞がれた。そのままの姿勢で、めちゃめちゃに犯される。
本当に手込めにされているようだった。
だが、それでも、総司は構わなかった。
もっともっと溺れてほしい。好きにしてほしい。
彼ならば、めちゃめちゃにされても構わないから。
(愛してる……っ)
恋い焦がれた男に抱かれながら、総司は、信じられぬほどの幸せを感じていた。
障子越しに夕陽が射し込んでいた。
部屋の中は茜色に染まり、美しいが、どこか禍々しいものを感じさせる。
そんな光景の中、総司は、柱に凭れかかった土方の腕の中にいた。男に寄りそい、その逞しい胸もとに凭れかかっている。
二人とも身づくろいはすませていた。だが、何度も情交をかわした後のことだ。土方はともかく、総司は頬が上気し、瞳も甘く潤んでいた。これでは到底、人前に出せぬからと、土方が引き留め、落ち着くまで抱いてやることにしたのだ。
「……そろそろ行かないと」
名残惜しげに云った総司に、土方が「そうだな」と低く答えた。
確かに、一刻もの間、屯所の中とはいえ、副長が行方を晦ましているのだ。そろそろ戻らなければならなかった。
見上げた総司を、土方の濡れたような黒い瞳が見つめ返した。思わず呼吸がとまる。動悸が激しくなる。
ずっとずっと、この人の腕の中にいられたら、どんなに幸せだろう……?
「……行きます」
無理やり視線をそらし、総司は男の腕から抜け出した。かるく髪を撫でつけ、外へ出ようとする。
とたん、その手首が掴まれた。感じる男の大きな手のひらに、どきりとする。
ふり返った総司を、坐ったままの土方はじっと見上げていた。自堕落に片膝をたてた姿が情事の後だけに、男の色香を感じさせる。
「また逢えるか」
「え……」
「そのうち文を届けさせる。待ち合わせの場所と日時だ」
「だ、だって、土方さん」
総司は思わず後ずさった。
確かに、傍にいたいと思った。
ずっと一緒にいたいと、身も心も激しく叫んでいた。
だが、自分は今、伊東の傍にいるのだ。
土方よりも伊東を、あの時、選び取ったはずなのだ。
なのに。
信じられぬ思いで、総司は土方の端正な顔を見つめた。
そうして裏切った恋人に手をさしのべるには、この男の矜持はあまりにも高かった。こんな屈辱的なめにあわされて、黙っている彼ではないのだ。
許すはずがないのだ。
「土方さんは……私を怒って、いないの?」
おずおずと問いかけた総司に、土方は黙ったまま目を細めた。口元が引き締まる。
短い沈黙の後、ぽつりと答えた。
「……怒っているさ」
「だったら、どうして」
「俺はおまえに逢いたいと思った。また、おまえを抱きたいと思った。だから、逢おうと云ったんだ」
「……」
「むろん、おまえが断るなら、それでいい。おまえも俺も、昔通りじゃねぇしな」
突き放すような口調に、たちまち、総司の胸に後悔の波が押し寄せた。
せっかく、この人が誘ってくれたのに、私はなんて事を。
「ごめんなさい」
「……」
「あなたに逢います。私も逢いたいです……だから、また誘って下さい」
素直に答えた総司に、土方は優しい笑みをうかべた。あの頃もよく見せてくれた、きれいな笑顔だ。
男の指がするりと総司の手首の内側を撫でた。それに、ぞくりとする。
「また連絡する」
そう囁いた男に頷き、今度こそ、総司は部屋の外へ出た。難なく離された男の手が少し切ない。
総司はぎゅっと両手を握りしめると、足早に自室へと歩き始めた。
「……」
部屋に残された土方は柱に凭れかかりながら、遠ざかってゆく足音を聞いていた。ゆっくりと目を閉じ、低く嗤う。
形のよい唇が、満足げな笑みをうかべた。
信じられなかった。
何よりも、自分が信じられなかったのだ。
成長するため、自由になるため、土方から離れたはずだった。なのに、少し言葉をかわしただけで、見つめられただけで、あんなにも簡単に流されてしまうなんて。
こんなにも愛していたなんて。
彼を見た瞬間、好きだと、愛していると、全身が叫んでしまっていた。離れたからこそ、わかる自分の想いの激しさだった。
彼なしで生きてゆけるなんて、どうして思ったのだろう? そんなことありえるはずがなかったのに。ずっと傍にいてくれた彼は、自分にとって、世界のすべてだったのに。
「……何もかもわからない」
総司はため息をつき、鉢巻をほどいた。
巡察から戻ったばかりだった。
あの土方と睦みあった日からもう十日の時がたっている。その間も、むろん、公では土方と顔をあわせていた。今も、巡察の報告をしてきたばかりだ。
だが、戸惑う総司をよそに、土方はまるで何事もなかったように振る舞っていた。冷厳な副長としての態度を決して崩そうとしなかったのだ。
それに、総司は、あの時のことは夢だったのかとさえ、思った。
むろん、夢でない事はわかっている。だが、むしろ、土方が夢にしてしまいたいのかと、忘れてしまいたいのかと思った。
矜持の高い彼が自ら手をさしのべてくれるなど、ありえるはずもないのだから。
「誘いなんか、くるはずないよね」
どきどきしながら待っている自分が、莫迦みたいに思えた。
もしかしたら、あれは意趣返しだったのかもしれない。
裏切った恋人に対する、ちょっとした仕返し。
そんな子どもっぽい事を、あの土方がするとは思えなかったが、こうまで無視されると考えざるをえなかった。
総司は着替えをしようと、葛籠に歩み寄った。とたん、はっと息を呑んだ。
一通の文が置かれてあったのだ。
「……」
震える手で、そっとそれを取り上げた。一瞬、目を閉じてから、おそるおそる開いてみる。
思ったとおり、土方からだった。見慣れているので、彼の字はすぐわかるのだ。祇園の料亭に、暮れ六つとのみ書かれてあった。
外泊届を出していった方がいいのだろうかと、少し迷ったが、一応は出していくことにした。
近藤に心配はかけたくなかったのだ。最近、総司が土方から離れた事に、近藤も気づき、かなり心配しているようだった。何度か声もかけられている。優しい恩師を思いわずらわせたくなかった。
「暮れ六つ……」
総司は、そっと呟いた。
今度は土方さんと密会するようになります。立場逆転。