やがて、総司は静かな声で問いかけた。
「以前、斉藤さんは云いましたよね。私が土方さんの本当を知らないと」
「あぁ」
 斉藤は鳶色の瞳で総司を見つめ返した。少し躊躇いがちだったが、ゆっくりと言葉をつづける。
「おれは……初めて逢った時から、あの人が怖かった。あんなにも冷徹で、策士であるはずなのに、土方さんは、おまえの事になると異常だ。気が狂ったように執着し、独占している」
「……」
「前にも云っただろう。土方さんは、奪われるぐらいならおまえを殺すと。だから」
「だから、殺そうとしたと?」
 総司はきつい口調で問い返した。両手を広げてみせる。
「だって、私、別に奪われたりしていません。土方さんの傍にいるし、今も愛しつづけている。なのに……っ」
「噂がたっているんだ」
 斉藤は苦々しげに云った。
「おまえが外で誰かと逢っているという噂。相手までは知られていないが、それを土方さんが知らぬはずがない」
「――」
 総司の目が見開かれた。桜色の唇が小さく震える。
「……噂に、なっているの? 土方さんもそれを知っていると……」
「噂は本当だったのか」
 思わず嘆息した。
 正直な話、斉藤にしても、気分のいい話ではなかった。自分にも内緒であっている相手に、ひそかな嫉妬を覚えているのだ。
「総司、おまえは誰と逢っているんだ」
「……伊東先生」
 小さな声で云われた答えを、一瞬、斉藤は理解できなかった。え? と目を見開く。
 それに、総司は口ごもりつつ、くり返した。
「伊東先生と、逢っているのです」
「! 総司……おまえは」
 斉藤は愕然となった。


 まさか、そんな相手だとは思っていなかったのだ。
 隊内の者というだけで危ういのに。
 その上、あの伊東とは。


 思わず片手で顔をおおった。低い呻きがもれる。
「それは……土方さんに殺されかけるだろう」
「え、だって」
 総司は無邪気に小首をかしげた。
「土方さんは知らないんですよ。私が外出先で誰かと逢っていると、噂で知っていても、その相手まで……」
「おまえ、それ、本気で云っているのか」
 斉藤は声を荒げた。
「殺されかけまでして、それでも、土方さんが何も知らないと?」
「斉藤、さん」
 総司の目が見開かれた。怯えたように、後ずさる。
 それに苛立ちを覚えつつ、斉藤は云った。
「あの人は狂ったように、おまえに執着しているんだ。その手の中に捕え続けようとしている。なのに、そんな……知らない訳がないだろう……!」


 未だ、総司は土方の本質を理解できていないのだ。
 だが、それも仕方がない事だった。
 長い間、総司は、土方の優しい笑顔しか見てこなかったのだ。一度も、彼の狂気、激しさを突きつけられたことがない。
 殺されかけても尚、愛しつづけるほど彼を信じている総司が、愛する男が秘める狂気じみた情愛まで、理解できるはずがなかった。
 何よりも、総司は受け身の立場なのだ。常に守られ、慈しまれ、愛されつづけてきた。
 己の手元から逃げようとするものを、翼を折ってでも愛しつづける男の狂った愛など、理解できるはずがない。


「私は……」
 総司は何か云おうとした。
 だが、言葉につまり、俯いてしまう。
 その綺麗で愛らしい顔を、斉藤は痛ましげに見つめた。
 衝撃だったのはわかる。
 今まで信じていた世界が崩れさってゆくような感覚なのだろう。
 だが、これは乗り越えなければならない時だった。ここで、真実に向き合わなければ、永遠に、総司は囚われのままなのだ。
「……私は、まだよくわからないのです」
 小さな声で、ゆっくりと云った。
 綺麗に澄んだ瞳で、じっと自分の手だけを見つめている。
「土方さんのことも……いろんなことも、私自身の気持ちさえ」
「……」
「でも、何かがおかしいという事はわかります。このままではいけないのだという事も」
「そうだ、総司」
 斉藤はその細い肩を掴み、かるく身をかがめた。視線をあわせ、真摯な気持ちをこめて話しかける。
「このままではいけない。おまえが、おまえ自身であるためにも」
「私が……私自身であるためにも」
 斉藤の言葉をくり返し、総司はそっと唇を噛みしめた。僅かに潤んだ瞳が斉藤を見上げる。
 それに、思わず手をさしのべたくなったが、それではいけないのだと思った。これは、総司自身が納得し、踏み越えていかなければ、何も変わりはしないのだから。
 じっと見つめる斉藤の前で、総司は長い睫毛を伏せた。












 土方と全く逢わなかった訳ではない。
 公の場や仕事上では、幾度も顔をあわせていたし、言葉も交わしていた。だが、それは衆目の中であり、恋人同士として二人きりで逢えることはなかったのだ。
 多忙な土方を恋人としている以上、常のことだったが、それでも、時期が時期だけに、総司は不安に思わずにいられなかった。まるで、避けられているような気がしたのだ。


(土方さんは……怒っているの?)


 意見した自分を。
 そして、彼に隠れて伊東と逢っていた自分を。
 怒り、飽きれ、見捨ててしまったのだろうかと思った。


 実際、酷いめにあわされたのは総司であるのに、長年培われた考え方はなかなか変えられない。いつも控えめで、自分を高く評価せず、彼の意にそうよう行動しつづけてきた癖が、つい出てしまうのだ。
 総司は決して自分本位で考えなかった。
 土方がいてこその世界なのだ。総司の世界は、喜びも悲しみも不安も、土方によってあたえられてきた。
 そうである以上、総司にとって、土方に見捨てられることは、世界を失うに等しかった。闇に突き落とされるようなものだ。
 だからこそ、殺されかけ、その本性に気づき不安を覚えても尚、土方を心から愛していた。彼がいない世界など、考えられなかった。否、考えようともしなかったのだ。
 そう行動するよう、考えるよう、少しずつ仕込んできたのは土方であるのに、それを異常だとは全く思っていなかった。
 束縛されているとも感じず、彼は自分のことを考えてくれているから、いつも優しく守ってくれるからと、彼の腕の中だけで微睡みつづけてきたのだ。
 だが、それでも、その不安は今までと違っていた。明らかに、昔とは異なりつつあったのだ。


 総司は伊東と話したことで、新しい世界を知った。
 土方がつくりあげた優しい花園の外にも、世界が広がっていることを教えられたのだ。
 その世界は確かに、優しくはないだろう。美しくもないだろう。
 土方が今まで総司に見せぬようにしてきた、汚いこと、恐ろしいこと、苦痛が多く存在しているに違いない。だが、それでも、外へ飛び出さなければならなかった。
 いつまでも、花園の中で微睡んでいる訳にはいかないのだ。


 思い悩んだ総司は、土方に話をしようと思った。
 それも今までと違う行動だった。いつもは、土方から声をかけられるのを待ちつづけてきたのだ。
 そのため、廊下ですれ違った時、突然、声をかけてきた総司に、土方は僅かに眉を顰めた。その行動に、云いしれぬ予感を覚えたのかもしれなかった。
「……何だ」
 静かな表情で聞き返した土方に、総司はこくりと喉を鳴らした。そうして、躊躇いがちにだが、話しかける。
「あの……少しお話ができないかと思って」
「話? ……あぁ」
 何に思いあたったのか、土方は唇の端を微かにあげた。そうして、手をのばし、すぐ後ろの空き部屋の障子を開けると、視線を投げかける。まるで流し目のようなそれに、総司はどきりとした。
「いいぜ。ここに入れよ」
「は、はい」
 素直に返事をし、総司は部屋に入った。土方は障子を閉めてから、ゆったりと腰をおろした。その前に、総司も端坐する。
 話があると云ったものの、しばらくの間、なんと切り出せばいいのか、総司はあれこれ思いをめぐらせていた。長い沈黙が落ちる。
 その様子をじっと見つめていた土方が、低い声で云った。
「別れ話か」
「……え」
 驚いて顔をあげると、酷く冷たい目をした土方の視線とあった。視線があうと、微かに唇の端をあげてみせる。
「俺を避けていただろう。あんな事をされて、さすがのおまえも愛想をつかしたという訳か」
「土方さ……」
「俺も……あれは悪かったとは思っているよ。山南の事で気がたっているところへ、あれこれ云われて頭に血がのぼっちまったんだ。おまえを怖がらせてすまなかった」
「……」
 土方は、どこか拗ねているように見えた。目をそらし、唇を微かに噛んでいる。
 まるで、悪戯が見つかり、叱られるだろうかと様子を伺っている少年のような表情だった。
 その子どもっぽい表情に、総司は目を見開いた。


(土方さんが、こんな表情をするなんて……)


 思ってもみない事だった。
 常に九つも年上の大人の男として振る舞ってきた彼だった。この京へ来てからは、尚のことだ。新選組副長となった彼はどこか人を寄せつけず、冷徹で隙一つ見せなかったのだ。
 だが、今、土方は子どもっぽい表情で、拗ねている。それを見たとたん、総司の胸奥が、ふわっとあたたかくなった。
「土方さん」
 総司は膝をすすめると、土方の傍に寄った。何だと見返す彼にむかって両手をのばすと、その胸もとへ凭れかかる。
 驚いたように、耳もとで息を呑むのを感じた。
「私の方こそ……ごめんなさい」
 小さな声で、総司は云った。細い指さきで彼の着物を掴んだ。
「大変な時に、自分勝手な事ばかり云って……土方さんの気持ちも思いやらなくて、本当に申し訳ないと思っているのです」
「総司……」
「土方さんが重責を担っているのは、よくわかっているのに。それを少しでも支えたいと思っているのに、なのに、逆に邪魔ばかりして……ごめんなさい」
「邪魔なんかしてねぇよ」
 土方は総司の両脇に手をいれると、軽々と己の膝上に抱きあげた。子どものように坐らせ、その瞳を覗き込みながら話しかける。
「おまえが傍にいてくれるだけでいいんだ。それだけで、俺は救われるんだよ。気持ちがやすらぐんだ」
「でも……私、何もしてあげられなくて……」
「傍にいてくれるだけでいいと、云っているだろう。俺は本当におまえを愛しているんだよ。……だから、な? あんな事をやっちまった俺を許してくれねぇか?」
 ちゅっと音をたてて額や頬に口づけながら、甘く掠れた声で囁きかけた。
 それに、総司は頬を染めた。
 抱きしめられ、何度も口づけの雨を降らされ、挙句になめらかないい声で囁かれては、うぶな総司など一たまりもない。
 何しろ、土方はさんざん遊びつくしてきた男だなのだ。手練手管など、お手のものだった。そんな土方に、総司が太刀打ちできるはずがない。
 男の腕の中、頬をそめながら頷いた総司に、土方は柔らかく微笑んだ。
 愛しているよ、と何度も囁きながら、優しく抱きすくめてくれる。その腕の中、うっとりと彼のぬくもりを感じながら、総司は目を閉じた。


 確かに、殺されかけた事は怖かったし、今もその怯えは残っている。
 だが、先ほど、今までとは違う土方を見せられたことで、総司は、安堵を覚えていた。
 少し、彼の心に近づけた気がしたのだ。
 むろん、すべてが解決した訳ではない。斉藤に云ったように、このままでいいはずがなかった。変わらなければならないのだ。
 土方が望んでくれているように、ただ傍にいればいい――ではすまない日が、いつか必ずやってくるのだから……。


 物思いに沈んでしまった総司を、土方は切れの長い目で見下ろした。
 なめらかな頬、伏せられた長い睫毛、ふっくらした桜色の唇。何もかもが、まるで人形のように愛らしかった。彼の着物を掴んでいる細い指にある爪までも、綺麗な桜貝のようだ。
 可愛い可愛い総司。
 土方にとって、総司は、この世の何にも代えがたい大切な宝物だった。己の好みどおりに育て、慈しみ、愛してきたのだ。
 だからこそ、その可愛い恋人が逆らうことなど考えてもいなかった。一度、京へのぼる時、逃げ出した事があったが、あれも彼を想うがゆえの行為だったのだ。
 だが、今は違う。
 総司は明らかに、自分の手の中から逃れようとしていた。自分につけられた鎖に気づき、悩み苦しみ、もがいている。
 それがわかるだけに、土方は苛立ちを覚えずにいられなかった。


 優しく素直で、まっ白な雪のように清らかな総司。
 汚い事や、恐ろしい事など何一つ知らず、優しい世界だけを信じて生きている総司。


 土方にとって、総司は宝物であり、恋人であり、そして――救いだった。
 自分がどれほど汚れても、黒い闇に堕ちたとしても尚、総司だけは清らかで在りつづける。総司という清らかで美しい珠が手の中にあるならば、どんな地獄も突き進むことも出来るのだ。
 だが、手放せば、そうはいかない。総司はたちまち世の中の汚れにふれ、穢れ、その清らかさを失ってしまうだろう。
 それだけは許せなかった。それを阻止するためなら、どんな事でもできた。
 それこそ、この手で殺してしまっても構わぬほどに……。


(おまえは、俺の手の中にいればいいんだよ)


 土方は華奢な躰を抱きよせながら、目を細めた。あるかなしの笑みが、形のよい唇にうかぶ。
 愛しい人形なのだ。
 土方だけが愛でることを許された、愛らしい人形。そうである以上、生意気な言葉など囀る必要はなかった。外の世界など知る必要もなかった。
 今までどおり従順に、逆らわず、彼だけを見つめていればいい。


「総司、愛しているよ」
 そっと囁きかけた土方の腕の中、総司はこくりと小さく頷いた。

















「――総司」
 横あいから声をかけられ、総司は、はっとしたようにふり返った。
 穏やかな昼下がりの事だった。文で呼び出された総司は、道に迷ってしまい、途方にくれていたのだ。


(どうしよう……こんな処、あの人に見られたら……)


 焦燥感を覚えつつ、総司は唇を噛んだ。
 その時、後ろから声をかけられたのだ。一瞬、びくりと肩を震わせ、ふり返った総司は、だが、相手を見たとたん、安堵の表情をうかべた。
「伊東先生」
 小料理屋の店先に、伊東が佇んでいた。穏やかに微笑みかけている。
 総司は、ほっとしたように躰の力を抜くと、すぐさま駆け寄った。それを、伊東の鳶色の瞳が優しく見下ろす。
「迷ってしまいましたか」
「ちょっと……この辺りは初めてだったので」
 小首をかしげるようにして答えた総司に、伊東は苦笑した。
「文で誘ったことも、迷わせた理由の一つのようですね。本当なら、一緒に屯所を出たかったのですが」
「それは……」
 総司は長い睫毛を伏せ、俯いてしまった。
 無理なことだとわかっていた。
 土方の前で、伊東と連れ立って外出するなど、出来るはずもないのだ。


(こうして逢っているだけでも、危ういのに)


 こみあげる不安に、きつく唇を噛みしめた。



















危険を知っていても尚、新しい世界に飛び込みたい総司なのです。