「私は、きみが欲しいと思っています」
「……伊東、先生……?」
総司は怯えに似た表情で、伊東を見上げた。一瞬、彼の腕の中にある華奢な躰が固くなる。
それを感じ、伊東は微かに苦笑した。
「そんなに怯えないで下さい。無理強いなどするつもりはないし、私自身、まだきみに対する気持ちが定まっていない」
「……」
「きみが土方君のものだということも、よくわかっています。ただ、私はきみに対する気持ちをこれ以上、偽る気になれなかった」
「……」
黙ったまま目を伏せてしまった総司に、伊東は吐息をもらした。そっと細い肩に手をかけながら、言葉をつづけた。
「随分と驚かせてしまったみたいですね。私の身勝手を、許して下さい」
「そんな……」
総司はふるりと首をふった。艶やかな髪が白い首筋で揺れる。
「謝られるような事ではありません。好意をもって下さっているのは、嬉しいのです。ただ、びっくりしてしまって……」
「わかっています。くり返しますが、無理強いをするつもりはありません。私が、ただ告げたくなった、それだけの事なのですから」
「はい……」
「総司」
あらたまった声で呼びかけた伊東に、総司は顔をあげた。澄んだ鳶色の瞳に見つめられ、どきりとする。
伊東は静かな声で云った。
「これからも、私とこうして逢ってくれますか」
「はい」
総司は躊躇いなく頷いた。
伊東からの好意に、驚きはしたが、決して不快なものではなかったのだ。むしろ、心地よいものでさえあった。それは、美しい若者特有の感情だったのかもしれないが。
総司の答えに、伊東は安堵したようだった。ほっとしたように微笑みかけてくる。
それに応えながら、総司は、この事を土方さんが知ったらどうするだろうと、ふと思った。
土方と山南の対立は、日を追うにつれ激しくなっていった。
だが、圧倒的に山南の方が不利だった。土方は、山南を総長として祭り上げ、実権をすべて奪い去っていたのだ。今更、山南がどんな異を唱えようと、通るはずがなかった。
総司は不安に揺れながら、それらを見つめていた。できることなら、争って欲しくなかった。総司にとって、土方は大切な恋人だ。その人が自分の友人を追いつめていくさまなど、見たいはずもなかった。だが、結果的に、総司は、それ以上のものを知ることになってしまうのだ。
冬の寒い朝だった。
廊下をわたってゆく音に、総司は目を覚ました。一瞬、その足音は総司の部屋の前で留まりかけたが、すぐに通り過ぎた。遠ざかってゆく。
まだ夜明け前だった。辺りは薄暗い。
それでも、総司は起き出した。
(今のは、土方さん……)
こんなまだ夜も明けやらぬうちから、いったい何処へ行くのか。
不測の事態が起こったに違いなかった。
総司は慌ただしく身支度を整えると、部屋を出た。足音を忍ばせつつ玄関へと急ぎ、外に出る。
朝靄の中、土方の広い背が見えた。
「――」
きゅっと唇を噛みしめると、総司は歩を急がせた。後ろから誰かが近づいているのは、土方もわかっているはずだった。だが、ふり返ろうともしない。
(私だと、わかっている……?)
そう思った時、土方が低い声で云った。
「総司」
あぁ、やっぱりと思った総司に、土方がゆっくりとふり返った。微かに眉を顰めている。
「おまえ……そんな薄着で出てくるんじゃねぇよ」
「え……」
総司は自分の身なりをあらためて見下ろした。確かに薄着だ。この寒い冬の朝に、小袖一枚では凍えてしまいそうだった。
黙って唇を噛んでいると、土方は「しょうがねぇな」と嘆息した。己の羽織を脱ぐと、それで総司の躰を包み込んでくる。
「ひ、土方さん」
目を見開いた。
いきなり、羽織ごと抱きしめられたのだ。
夜明けとはいえ、道の真ん中でだった。それも屯所近くだ。誰に見られるともしれぬのに、慌てる総司をよそに、土方は一向に腕の力を緩めようとしなかった。
それどころか、頬を寄せてくる。
「……冷たいな」
掠れた声で呟いた土方に、総司は、ようやく彼の様子がおかしいことに気づいた。否、初めからわかっていたのだ。だからこそ、こうして追いかけたのだから。
「何が……あったのですか」
小さな声で問いかけた総司に、土方は総司を抱きしめたまま黙っていた。その髪に顔をうずめながら、より強く抱きすくめる。
そして、答えた。
「山南が脱走した」
「――」
一瞬、総司は意味がわからなかった。呆然とした表情で、土方を見上げる。
それに、土方はゆっくりと身を起こした。切れの長い目で、腕の中の総司を見下ろす。
長い沈黙が落ちた。
やがて、総司が口にしたのは、何の変哲もない言葉だった。
「嘘……」
「嘘じゃねぇ。今朝、山崎が知らせてきた。部屋に山南の姿がなく、書置きがあったと」
「書置き?」
「江戸へ帰ると書いてあったそうだ」
淡々とした口調に、それが事実であることを知った。山南は新選組に失望し、去ったのだろう。
だが、それは脱走だった。隊規に反する行為だった。
「土方さんは……」
総司は小さな声で訊ねた。
「山南さんを、どうするつもり?」
「決めるのは俺じゃねぇ。隊規だ」
「隊規?」
微かに眉を顰めた。迷ったが、思わず口に出してしまう。
「でも、それをつくったのは、土方さんでしょう? なら、山南さんを裁くのは、あなたではないのですか?」
総司とは思えぬ言葉に、土方は一瞬、目を見開いた。だが、すぐ表情を引き締めると、鋭い視線を返してくる。
「どういう意味だ」
「意味などありません。でも、隊規が人を支配するなど、おかしいと思うのです。実際は、隊規を使っているのも、裁量しているのも、土方さんなのに」
「俺のやり方が間違っているというのか」
「違います。でも、山南さんの事にしても、隊規だからと切り捨てるのではなく、もっと何か別の形があるのではないかと……」
「総司」
土方が呼びかけた。
え? と顔をあげた瞬間だった。
突然、総司の細い首が男の大きな手で掴まれたかと思うと、そのままガンッと乱暴に塀へ押しつけられた。首を絞めあげられ、息もできなくなる。
「……ッ!?」
総司は目を見開いた。
自分が何をされているのか理解できず、呆然と男を見上げる。本能的に息をしようと、もがいた。身を捩り、男の手から逃れようとする。
だが、それは無駄な抗いだった。男の手はまるで鋼のようで、びくともしない。
「っ…ぁ……ッ、ッ」
そんな総司を見下ろし、土方はゆっくりと目を細めた。朝靄の中でも、その黒い瞳が狂おしく光っているのがわかる。
なめらかな低い声が問いかけた。
「総司……おまえは、誰のものだ?」
「……っ」
「答えろ。おまえは誰のものだ」
「……土方、さ…んの……ッ」
必死に、答えた。
彼の名だけを、懸命に。
そうでなければ、殺されると思った。今この場で縊り殺されてしまうと。
躰の芯から震えが立ち上ってきた。がくがくと膝が震えてしまう。土方に首を掴まれていなければ、このまま地面へ崩れ折れてしまっただろう。
青ざめた顔で見上げる総司に、土方は微笑んでみせた。濡れたような黒い瞳で見つめ、優しく微笑みかけてくる。
綺麗な笑みだった。こんな時でなければ、うっとりと見惚れてしまうほど。
「わかっているなら、それでいいのさ」
「……」
「いい子だな」
土方は甘く掠れた声で囁きかけると、首から手を放した。がくりと崩れ落ちそうになったが、すぐさま、男の腕が総司の躰を支える。
そればかりか、柔らかく抱きすくめた。だが、男のぬくもりに包まれながら、総司は震えがとまらなかった。
何が起こったのか、理解したくなかった。
信じられなかった。
今、確かに、彼は自分を殺そうとしたのだ。その手で、自分を縊り殺そうとしたのだ。
『おまえを失うぐらいなら、殺してしまうだろう。そういう人だ、土方さんは』
いつか云われた斉藤の言葉が、耳奥に蘇った。
江戸を発つ前に、云われた言葉だった。
あの時は信じることが出来なかった。まさかと、否定していたのだ。
だが、今、彼は。
(……私を殺そうとした……)
総司は気が遠くなるような思いで、虚空を見つめた。
その後、起こった様々な事は、総司にとって記憶の彼方にあった。
まるで薄靄がかかった向こうの世界のようだったのだ。自分が何をしていたのかさえ、あまり記憶にない。
むろん、それは山南への哀切と辛さゆえでもあった。だが、それと以上に、総司の心を占めていたのは、あの朝の土方の行動だったのだ。
まるで見知らぬ男のようだった。
優しい人だと思っていた。いつも自分を甘やかし、優しく包みこむように愛してくれた。その優しさを疑ってみることさえ、しなかったのだ。なのに、あの朝、見た彼はまるで別人だった。
冷たい光を湛えていた黒い瞳。自分の首を締め上げた大きな手。
愉悦さえ覚えていたのか、微かに笑っていた唇。
綺麗で美しく、だが、ぞっとするほど冷たかった男―――
(あれは……誰?)
総司は息をつめるようにして、思った。
あんな男は知らない。あんな冷たい瞳は知らない。
だが、そこにいたのは、確かに、土方なのだ。ずっと子どもの頃から、慈しんできてくれた優しい男であるはずなのだ。
斉藤の言葉が幾度も脳裏によみがえった。
彼は、総司が何も知らないと云ったのだ。土方の本当の姿を知らないと、その事を痛ましげな表情で訴えていた。あの時、総司はそれを信じなかった。彼のことは自分の方がずっと知っている。ずっと愛してきた、ずっと傍にいた人なのだからと。
でも。
それは、真実だったのだろうか。
傍にいれば、愛していれば、その人の真実を知ることが出来るのだろうか。
愛という言葉には、いくつもの形がある。ならば、総司が抱いている愛と、土方が抱いている愛は、異なるものなのだろうか。
「総司」
不意に、声をかけられ、総司はびくりと肩を震わせた。
ふり返ると、斉藤が心配そうな表情で立っている。その姿に妙な安堵感を覚えつつ、総司は微笑んでみせた。
「斉藤さん……」
「おまえ、大丈夫か」
「え?」
小首をかしげる総司に歩みよってくると、斉藤はその瞳を覗き込んだ。
「山南さんの事からこっち、いつも考え込んでいるようだったから」
「そう……ですか?」
「稽古の時も上の空のことが多いし、ずっと塞ぎ込んでいるだろう」
斉藤は小さく嘆息した。
「山南さんのことは辛い事だった。とくに、介錯までしたおまえには大きな衝撃だっただろう。それはわかるが、おまえ自身の心がそれにいつまでも囚われているとしたら……」
「斉藤さん!」
突然、ぎくりとするような声音で、総司が叫んだ。
それに、斉藤は声を呑んだ。総司を見る。
「……何だ」
「私は、何もわかっていない子どもですか」
総司は低い声で云ってから、斉藤の方へ向き直った。興奮のせいか、大きな瞳がきらきらと光っている。
なめらかな頬も紅潮し、いつも以上に美しいが、どこか狂おしい印象だ。
「私は、新選組のことも、土方さんのことも、自分が置かれた立場も、何もかもみんなわかってなくて、ただ日々を過ごしているだけの子どもなのですか」
「総司……」
思わず、斉藤は眉を顰めた。
「おまえ、誰かに何か云われたのか」
そう訊ねてみたが、それに、総司はふるりと首をふった。
「いいえ。誰に云われた訳でもありません。ただ、何もわかっていなかった事に……自分が知らなかった事に、気づいたのです」
「土方さんと何かあったのか」
そう訊ねたとたん、総司の細い肩がびくりと震えた。それに確信する。
明らかに様子がおかしかった。土方と総司の間に何かがあったのだ。土方の狂気じみた愛でつくりあげた鎖にも、緩みがあったという事なのか。
「……」
突然、 総司が深く澄んだ瞳で、前を見据えた。
それにふり返ると、ちょうど、土方が玄関先から出てゆく処だった。こちらに気づいているのかいないのか、黒い隊服姿で門をくぐってゆく。
その背を見送り、総司はきつく唇を噛みしめた。
そして、云った。
「斉藤さん」
「あぁ」
「私、土方さんに殺されかけたのです」
「――」
愕然とした表情で見下ろした斉藤の前で、総司は静かに目を伏せた。
長い沈黙が落ちた。
やがて、絞り出すような声で、斉藤が云った。
「それ……どういう事だよ」
「どういうことも何も、言葉そのままです」
総司らしくない、どこか突き放す口調だった。
驚いて凝視する斉藤に、小さく笑ってみせる。むろん、いつもの可愛い笑顔ではない。淋しげで物憂い笑みだった。
「山南さんが脱走した朝のことです。私が土方さんに意見したとたん、首を絞められました」
「首を……」
「斬られないだけよかったと思いますか? とにかく、私は土方さんに首を絞められ、殺されそうになったのです」
一気にそう云ってから、総司は視線を落とした。
土方さん、次で修復しようとします。でも……