総司の姿がない。
 その事に斉藤が気づいたのは、日暮れ近くだった。
 外出から戻っているはずなのに、屯所のどこにも姿がないのだ。しかも、部屋は綺麗に片付けられ、着替えの幾つかが消えている。
 その事を確かめたとたん、血の気が引いた。


(まさか、脱走……?)


 最近、総司の様子がおかしい事にはむろん気づいていた。
 土方との仲が拗れていることも知っていたのだ。
 だが、どうしてやる事も出来なかった。ただ、その話を聞いてやる事しか出来ぬ自分に歯がゆさを感じつつ、ずっと傍に寄りそいつづけたのだ。
 だから、その総司が斉藤に何も告げず、逃げるはずがなかった。追い詰められている事はわかっていたが、しかし、斉藤にさえ告げぬまま逃げるとしたら、それは。
「――」
 きっと唇を引き結んだ斉藤は、隊士たちのたまり場で島田を捕まえた。総司と同じ時刻あたりに、屯所へ戻ってきた男なのだ。
「伊東先生、ですか?」
 小首をかしげた島田は、何も知らないようだった。
 だが、傍にいた監察方の吉田が云った。
「伊東先生ならば、お見かけしましたよ。所用でいったん帰京されたようです。すぐ、お出になりましたが」


(……それだ)


 呻くような思いで、斉藤は確信した。
 総司は、伊東に連れ去られたのだ。京へ戻ってきた伊東に連れられ、逃げたのだろう。だが、それはあまりにも危険な行為だった。
 以前とはあまりに状況が違いすぎていた。今、土方と総司の間は冷え切っている。かつて愛したはずの男にむけられる総司の瞳に、斉藤は何度も息を呑んだほどだった。
 むろん、土方の真意も、総司の真意も、よくはわからない。
 だが、これ程までに拗れている状況での逃亡は、悲劇的な結末をもたらすとしか思えなかった。
 以前、斉藤が連れて逃げた時のように、許されるとは、とても思えない。
「――」
 固い表情で、斉藤は玄関へ向かった。馬を借りて、追いかけようと思ったのだ。
 京を出るまでに連れ戻せば、何とか間にあうかもしれない。そう思いつつ框を降りかけた斉藤の腕を、後ろから誰かが掴んだ。
 はっとしてふり返れば、冷たく澄んだ黒い瞳が見下ろしていた。
「……土方、さん」
 思わずその名を呼んだ斉藤に、土方は唇の端をつりあげてみせた。
「随分と急ぎのようだが、こんな時刻に何処へ行く」
「え、あ……その、少し所用で」
「成程、所用か」
 ゆっくりと嗤い、土方は手を離した。懐手しながら、目を細める。
「そう云えば、総司に逢ったか」
「――」
 ぎくりとした。視線をあわさぬように、答える。
「いえ、知りません。オレは見ていません」
「斉藤」
 喉奥で低く嗤った。
「おまえ、嘘がつけねぇな」
「え」
「俺は、逢ったかと訊ねただけだ。なのに、おまえは見ていない、知らないと答えた。それはとりもなおさず、この屯所内で総司の姿を見ていないという事だろう。ここに、総司がいないという意味だ」
「……っ」
 思わず息を呑んだ。
 呆然としてふり返った斉藤に、土方は鋭いまなざしをむけた。突然、手をのばすと、乱暴に斉藤の胸元をぐいっと掴み上げる。
「!」
 顔を間近に寄せ、囁きかけた。
「俺を騙せると思うなよ。総司はどこだ、どこへ逃げ出した」
「まだ、決まった訳じゃ」
「決まった事さ。一人で逃げたのか」
 斉藤は言葉に詰まった。だが、云わぬわけにはいかないのだ。
「……伊東さんと一緒みたい、です」
「――」
 すうっと、男の端正な顔から表情が消えた。無表情のまま、斉藤を見据えている。
 黒い瞳だけが冴え冴えと光っていた。暗い情念と狂気を宿した、瞳だ。この男が、身の内に飼っている狂暴さが剥きだしにされたようだった。
 立ち尽くす斉藤から、土方はゆっくりと手を離した。しばらく何事かを考えていたが、やがて、框から降りた。そのまま大股に歩き出そうとする。
「駄目だ……!」
 思わず斉藤はそれを追い、男の腕を掴んで引き留めた。
 もう必死だった。
 何があっても、彼を行かせる訳にはいかないのだ。
「あなたが行くのだけは、絶対に駄目だ。何もかも終わりになってしまう! 頼むから、オレに……オレに行かせて下さい」
「……離せ、斉藤」
 前だけを見据えたまま、土方は低い声で命じた。
 かるく腕を払いかけてから、切れの長い目を斉藤に向けた。素早く掴みなおした斉藤に、薄闇の中、獣のようにぎらりと目が光る。
「離せと云っているのが、聞けねぇのか」
「聞けません。聞くわけにはいかない。オレは、今ここであなたを行かせる訳にはいかないんだ」
「おまえにつべこべ言われる筋合いはねぇ。これは、俺と総司の問題だ」
「だからこそです!」
 斉藤は声をあげた。
「今、あなたが行けば、必ず手を下す。感情のまま総司を殺してしまうでしょう。そんな事をすれば、あなたも破滅だ」
「破滅……?」
 ふっと、土方が嗤った。愉悦を含んだ黒い瞳が、斉藤を傲慢に見下ろした。
「面白いじゃねぇか。あいつと一緒に破滅するなんざ、それこそ本望だ」
「頼むから、オレに任せて下さい」
 斉藤は必死に懇願した。
「連れ戻せばいいのでしょう? 必ず総司を連れ戻すと約束しますから、オレに任せてもらえませんか」
「ほう」
 土方はくっと喉を鳴らした。身をかがめ、斉藤の顔を覗き込んだ。
「おまえはむしろ、俺から総司を奪おうとしていると思っていたがな。いけすかねぇ餓鬼だった頃からな」
「オレは、ただ総司の幸せだけを願っているのです。いくら総司が望んでいても、あなたの元で幸せになれるはずもないと思っていましたから」
「なら、どうして今は連れ戻そうとする」
「殺されるよりは、ましでしょう。総司はあなたの想いの激しさがわからない。自分がどれだけ愛されているかなんて、全くわかっていないんだ」
「おまえが、それを云って聞かせるのかよ? それこそお笑い草だろう」
 肩をすくめた土方は、さっきより余程冷静になっているようだった。身をおこし、片手で煩わしげに黒髪をかきあげる。
 薄闇に包まれはじめた外を眺めやり、低い声でゆっくりと云った。
「……今すぐ追え、斉藤」
「土方さん」
「追って必ず連れ戻せ。今夜中に戻ればすべて不問にしてやる。だが」
 切れの長い目が鋭く斉藤を見据えた。薄い笑みが口元にうかべられる。
「そうでなければ、今度こそ俺が行くぞ。地の果てまで追いかけ、あいつを殺してやる」
 凄みのある声音だった。
 この男を愛するならば、命がけなのだ。
 それを思い知らされた瞬間だった。
「……」
 斉藤は黙って頭を下げると、踵を返した。次第に駆け出してゆく。


 ―――今夜中に。


 総司を救うためにも、夜が果てることなく続けと願った。












 総司の居場所は意外にもすぐ知れた。
 伏見にまだとどまっていたのだ。総司の体調が悪くなったためだった。
 やはり土方から逃げるという心の責めが、体の具合をも悪くしたのだろう。宿の部屋に現れた斉藤に、総司は小さく笑ってみせた。
「もう……見つかっちゃいましたか」
「総司」
 斉藤は刀を傍らに置くと、慌ただしく言葉をつづけた。
「オレと共に戻ろう。今なら間に合うはずだ」
「そうでしょうか」
「今夜中に戻れば、土方さんも不問にすると云っていた。だから」
「だから?」
 総司はゆるく小首をかしげた。さらさらと艶やかな黒髪が細い肩さきで揺れる。それがひどく儚げで、斉藤はどきりとした。
 まるで、今にもとけ消えてしまいそうな気がしたのだ。
 総司は静かな声でつづけた。
「だから、またあの場所へ戻って、土方さんの人形となるのですか。弄ばれ、束縛されるだけの日々に身を落とせと、斉藤さんは云うのですか?」
「そんな事は云っていない。ただ、今の状況は危険すぎるんだ」
「危険など、わかりきっていますよ」
 遠くの方を見やった。
「前に、云われた事があるのですから。裏切ったら殺すと。だから……私は殺されるのです。それでいいと思っています」
「いいはずがないだろう!」
 斉藤は思わず叫んだ。
「どうして、そんなに投げやりになるんだ。おまえは京へのぼる時、云っていたじゃないか。土方さんを支えたいと。もっと大人になりたいと。なのに、おまえが望んだのは、こんな形だったのか」
「私は……何を望んでいたんでしょうね」
 きれいに澄んだ声が呟いた。
「あの頃の事が、夢のように遠いのです。ただ、土方さんを愛していれば良かった。あの人の優しさを疑う事なんて、必要なかった。初恋が成就した事に有頂天になって……今になって思うのです、あの頃があんなに幸せでなければ良かったと。夢のように幸せでなければ、こんな……」
 言葉を途切れさせ、総司は指さきをきつく握りこんだ。長い睫毛が伏せられる。
「ここまで、あの人を憎まずに済んだかもしれない。愛していたからこそ、信じていたからこそ、今……こんなにも苦しいのです。辛いのです。私が信じていた世界は、あの人は、偽りだった。土方さんに真実を知らされた時、今までの想い出も愛も何もかも、すべてが粉々に砕け散ってしまった」
 のろのろと両手をあげ、総司は顔をおおった。低い嗚咽がもれる。
「あんなに幸せでなければよかったのに。あの頃、あんなにも幸せだったからこそ、あれが偽りだと知らされた事に、弱い私は堪え切れなかった。信じてきた幸せな世界が目の前で叩き壊される様から、目を背けずにはいられなかった……」
「……それが、おまえの逃げた理由なのか」
 斉藤は鳶色の瞳で総司を見つめた。
「土方さんから逃げた、その理由なのか」
「……」
「なら、おまえは間違っているよ」
 斉藤の言葉に、総司はかっとなったようだった。なめらかな頬を紅潮させる。
「何が間違っているのです……!」
「総司」
 斉藤は身をのりだし、総司の腕をつかんだ。静かな声で云いきかせる。
 「おまえは今、信じてきた世界が偽りだったと云ったよな。確かに、そこに偽りはあっただろう。だが、それは土方さんがおまえを守るための手段の一つだった。そして、これだけは確かに云えることだが、あの人はおまえを誰よりも愛している。今も昔もかわることなく、おまえを心から愛してきたんだ」
「嘘……」
 ゆるゆると、総司は首をふった。
「そんなこと……あるはずありません」
「どうして、そう云えるんだ。おまえは、土方さんの気持ちを聞いた事があるのか。それもないのに、愛されているのかいないのかなど、判断できるはずがないだろう」
「そんなの……」
 総司は怯えた子供のように首をふった。
「聞けるはずがない。もしも、違うと云われたら? おまえなんて愛したことはないと、云われたら? 私は……どうすればいいの」
「……」
 斉藤は深い吐息をもらした。
 今の言葉の中に、総司が抱える想いを感じ取ったのだ。
 土方を恐れ、憎みつつも愛する総司の想いを。
「とにかく、戻ろう」
 斉藤は出来るだけ冷静に云った。総司の腕をつかんだ手に力をこめる。
「今夜中に戻れば、事はおさまるんだ。オレと一緒に戻ろう」
「お断わりします」
「総司」
「私はもう何も信じられない、自分さえも。あの人のもとには……二度と戻らな……」
 不意に、総司の声が途切れた。
 目を見開き、片手で口元をおさえる。とたん、激しい咳の発作が始まった。
 身を折るようにして咳きこむ総司の背を、斉藤は慌ててさすった。そこへ伊東が足早に入ってくる。
「総司……!」
 傍らに跪き、その華奢な躰を己の胸もとに抱きよせた。水を口元にもっていってやり、背を何度もさすっている。
 総司は伊東の胸もとに縋りつくようにして、必死に発作に耐えていた。見ているだけで辛くなるような、咳き込みようだった。
 ようやく咳がおさまってくると、伊東は鋭い瞳を斉藤にむけた。
「何を総司に云ったのです」
「……」
「連れ戻しに来たのでしょうが、私は総司を決して手放しませんよ。彼に返すつもりはない」
「副長は、今夜中に連れ戻せば不問にすると云っていました」
 冷静な声で、斉藤は答えた。
「オレは、総司を危険に晒したくない。必ず連れ戻します」
「きみも総司を大事に思っているのでしょう。なのに、何故、そんな危険な場所へ総司を戻そうとするのです」
「今、実際、危険が目前に迫っているからです! 今の総司の行為は、脱走だ。隊規違反だ」
「総司は私が出張のため連れ出したのです。脱走ではない。近藤さんの許可をとれば、問題にはならないでしょう」
「だとしても、こんな状態の総司を、伊東さん、あなたは長旅に連れていくつもりなのですか」
 鋭い斉藤の言葉に、伊東は口元を引き結んだ。鳶色の瞳で、己の腕の中、苦しげに喘いでいる総司を見下ろす。
 やがて、伊東はゆっくりと云った。
「私はここに残ります。総司の体調が回復してから、出発することに……」
「そんなの、駄目…です」
 総司が細い声で、拒んだ。
「私のために、伊東先生がそんな……足手まといになりたくありません」
「足手まといなどではありません。私は、きみを大切に思っている。こんなきみを土方君のもとに残して、行けるはずがないでしょう」
「伊東先生、私は……」
 涙がその声を震わせた。ぎゅっと彼の胸もとに縋りついてから、小さな小さな声で謝る。
「ごめん…なさい……」
「……総司?」
「伊東先生のことは……尊敬しています。とても好きです……でも、この先どんなに大切にして下さっても、私は応えることが出来ないのです……」
「……」
 一瞬、伊東は切なげに眉を寄せた。だが、すぐ総司の体を優しく抱きしめると、囁きかける。
「構いません。私が勝手に、きみに構っているだけなのですから」
「でも、こんなの間違っています。応えることも出来ない私のために、伊東先生が危険を冒すなど。私は……自分が許せない」
「なら、きみは土方君のもとへ戻るのですか。それで構わないのですか」
「……」
 総司は伊東を見上げた。そうして、じっと押し黙ったままの斉藤の方へ視線をやると、小さく微笑んでみせた。
「少しだけ……時を貰えませんか。一人で考えてみたいのです」
「一晩って訳にはいかないぞ」
「わかっています。せめて……四半刻。それで、ちゃんと答えを出しますから」
「四半刻だな。わかった」
 斉藤は頷き、腰をあげた。伊東はまだ心配げだったが、総司が頷いてみせると、静かに部屋を出ていった。
 誰もいなくなり、部屋の中は静まり返った。しゅんしゅんと火鉢に置かれた鉄瓶の音だけが響く。
 総司は熱っぽい躰を引きずるようにして、窓傍に寄った。細く開くと、白い粉雪が闇の中、降り舞っているのが見える。
「……冷たい、かな」
 小さく呟いた総司は、何を思うのか、そっと柔らかく微笑んだ。






 四半刻後、部屋に総司の姿はなかった。




















次で完結です。ラストまでおつきあい下さいませね。