ぐるり縁側になっている静かな部屋だった。
庭先に突き出すような形の部屋は秋の木立に囲まれ、とても居心地が良い。
伊東は時折、その部屋を講義の場として使っていた。今日も講義が行われたばかりだ。
解散後、書物をまとめる伊東の傍で、久しぶりに出席していた総司がそれらを手伝っていた。小袖に袴姿で端坐し、伊東を手伝う様はまさに美しい若侍そのもので、似合いの念兄弟にしか見えない。
「今日の講義、どうでした」
書物をより分けながら訊ねた伊東に、総司は目をあげた。率直に答える。
「興味深い内容でしたが、私には時折、難しすぎるところがありました」
「どんなところが?」
「例えば、先生がおっしゃった詩文です」
総司は書物を探し、伊東に見せた。
「あぁ、これは」
伊東は微かに笑うと、柔らかな口調で丁寧に教えてくれた。総司は素直に頷き、伊東から与えられる知識を貪欲に吸収してゆく。もともと聡明な若者であるため、伊東の教えを二度聞き返すことはない。
「しかし、きみは」
話が途切れると、伊東は何気ない口調で云った。
「最近、私から離れるつもりになったと、そう思っていましたが」
「……」
総司の手がとまった。目を伏せ、じっと黙りこんでいる。
それに、伊東は静かなまなざしを向けた。
「土方君のもとに戻る決意をした。そうではないのですか」
「……違います」
のろのろと手を膝元に戻し、ぎゅっと握りしめた。
「そうではないのです。私は……土方さんのもとに戻りません。でも、伊東先生のもとに来ることも出来ないのです」
「なぜ?」
「……土方さんが、怖いからです」
小さな声で答えた総司に、伊東は眉を顰めた。書物を脇におくと、身をのりだし、その愛らしい顔を覗き込む。
「総司? いったい何があったのです」
「……伊東…先生」
「私には話せないことですか? それとも、話したくない? ならば、聞きはしませんが、もし話す気持ちがあるのなら……」
「土方さんは、伊東先生を誅殺するつもりなのです」
いきなり叫ぶように告げた総司に、伊東は目を見開いた。一瞬、素早く周囲に視線を走らせる。
それは己のためではなく、総司の身の上を案じたがゆえの行動だった。
むろん、周囲に人気はない。障子が開け放たれてあるため、どこにも隠れる場所はなかった。庭先も広々と見渡すことができる。もっとも、土方の手のものが聞いているとしても、今更どうしようもない事だったが。
押し黙った伊東に、総司は先日の土方との会話をすべて話した。
話さずにはいられなかったのだ。これも甘えだとわかっていた。土方のかわりに、伊東に助けを求めてしまっているのだと。
だが、どうしようもなかった。自分でもどうすればいいのか、まったくわからないのだ。
しかし、やはり、心優しい総司の言葉だった。どうしても土方への非難は消え、ただ恐れのみとなった。
だが、伊東は話の真実を違うことはなかった。
「……成程」
話が終わると、伊東は腕を組みながら薄く笑った。
「誅殺、ね。しかし、土方君はもともと、私を消すつもりでいるに違いありませんよ。きみの事があろうとなかろうと」
「わかっています。土方さんにとって、私など些末事にすぎないと。でも……今までの事を思うと、たまらなくて」
「今までの事とは、きみを暴行しようとした男を、半身不随にしたことですか。新見君を誅殺したことですか」
「はい」
「どちらの場合も……私が同じ立場にあったなら、やはり手を下したでしょうね」
淡々と云われた言葉に、総司は驚いて顔をあげた。
一瞬、何を云われたかわからなかったのだ。だが、まさかと思わず唇を震わせてしまう。
それに、伊東はくすっと笑った。
「そんなに驚く事ではありませんよ。愛する者を害するものを許さない、それは男として当然の考えだと思いますが」
「でも、なら、新見先生は。あの人は私を傷つけた訳じゃありません。今の伊東先生のように受け入れて下さっただけです。なのに……っ」
「そう、受け入れてくれただけ。しかし、そこに隊内の思惑も働いていたはずです。いや、新見君自身が意識せずとも、きみと親しくなることは新選組に大きな影響を与えた。それを、あの土方君が見過ごすと思いますか? 私でも見過ごしませんね。邪魔になることが明らかである以上、排除するしかない。きみを奪おうとしている事も確かに一つの理由かもしれないが、しかし、隊内の事情が絡んできたからこそ、始末したのでしょう」
「伊東先生も……同じことをすると?」
おそるおそる訊ねた総司を、伊東は鳶色の瞳で見つめた。微かに苦笑しながら、ゆっくりと頷く。
呆然としている総司に、静かな口調でつづけた。
「彼の行動すべてを肯定しようとは思いませんよ。非道な事実もあるでしょう。ですが、きみを愛しながら、この新選組で戦っていく以上、私にそれを非難する資格はない」
「――」
はっとしたように、総司は顔をあげた。伊東から愛を告げられた事に、驚いたのだ。
それに、伊東はゆっくりと目を細めた。手をのばし、なめらかな頬にふれる。
「私はきみを愛しています。そして、きみが私のものになるならば、土方君と全力で戦うでしょう。私にとって、きみを得ることは心から望むことなのです」
「全力で戦う? じゃあ、対立はやっぱり避けられないのですか?」
今更と思いつつ、総司は訊ねた。土方と伊東の対立は、明らかなものになっていた。ここ最近、その対立はより深まっていたのだ。
伊東は視線を庭の方へやった。
「そうですね、とても避けられないでしょう。私と土方君の考えは、あまりに違いすぎる。相容れることは決してありえぬのですよ」
「斬りあい、になるのですか」
総司の言葉に、伊東は肩をすくめた。
「まさか、そこまで直接的な争いはないでしょう。ただ、誅殺、謀殺は、お互いありえますが。どちらが先に仕掛けるかですね」
「……」
思わず絶句した。
そこまで対立が深まっているとは、思っていなかったのだ。だが、もはや引き戻せない処まで、来てしまっている。
なら、この争いの中で、自分はいったいどうすればいいのか。
土方を選ぶのか、伊東を選ぶのか。
(どうすればいいの……?)
総司は己自身の心を守るように、固く瞼を閉ざした。
「……っ、ぁ……」
甘い声がもれた。
副長室でのことだった。
報告に訪れた総司を、土方が引きとめ、抱きしめてきたのだ。あっと思った時には男の膝上に抱きあげられていた。
慌てて逃げ出そうとしたが、後ろ髪を掴まれ、深く唇を重ねられる。
「……ぅ、んっ、はぁ……っ」
頭の中が、ぼうっと甘く霞んだ。
いつでもこうだった。彼との口づけは、まるで上質の酒に酔わされるようだ。腰奥が甘く痺れ、思わず男の背に縋りついてしまう。
そうすれば、土方は唇を重ねたまま薄く嗤い、より深く唇を重ねてくれるのだ。
口づけが終わった後も、総司は男の膝上に抱かれていた。
拒まなければと思うのに、こうして優しくされたとたん、固かった気持ちがぐずぐずと溶けていってしまうのだ。そんな自分が情けなく、だが、恋とはこんなに脆いものなのかとも思った。
(私は、この人に恋しているのだろうか……?)
それは無意味な問いかけだった。
もはや、そんな生易しい事ではないのだ。憎しみと愛と恐れ、複雑に絡み合った感情が、総司を揺り動かしつづけている。
土方への感情が何か? と聞かれても、到底答えられなかった。
あの日、真実を聞かされた時から、総司は、半ば憎しみに近い感情を土方に抱いていた。自分のために人を傷つけ、新見を殺し、その狂気の世界へ自分を引きずりこんだ彼を、今までのように愛せるはずがなかった。
ずっと優しい人だと信じていたのだ。なのに、彼の中にあった真実は、常軌を逸していた。
まさに、狂気だった。
狂気の愛で守られていた。
その事実が総司を激しく打ちのめした。自分が愛してきた人が、こんな男だったなんて。信じたくないと思うと同時に、裏切られたと叫びたくなったのだ。
私を騙していたの? と。
自分の前で見せていた優しさは、すべて偽りだったのかと。
何もかも、信じられなかった。今まで、こうだと信じていた世界すべてが、崩れ落ちてゆくような感覚だった。
総司は素直で優しく、そして、心のきれいな若者だった。愛するということを、とても純粋で清らかなものだと捉えていたのだ。
だが、土方が目の前に掴みだしてみせた愛は、そんな生易しいものではなかった。
総司のすべてを奪い去ってしまう狂暴な愛だったのだ……。
柔らかく抱きよせられ、総司は目を閉じた。男の胸もとに頭を凭せかけると、昔と同じように優しく髪を撫でてくれる。
それを感じながら、揺れ動く心に戸惑っていると、不意に訊ねられた。
「……もう心を決めたのか」
「え」
はっとして見上げれば、濡れたような黒い瞳がこちらを見下ろしていた。それに、どきりとする。
「何を……ですか」
「俺と共にくるか、伊東と共に行くかだ」
「……」
一瞬、唇を噛んだ。だが、すぐに答える。
「選択肢が私にない以上、無意味な問いだと思いますが」
きつい口調で云い返した総司に、土方は低く嗤った。最近、総司の前でもよく見せるようになった、冷たく酷薄な笑いだ。
それを見るたび、総司は胸に痛みを感じた。泣き出しそうになってしまう。
「……」
視線をそらせた総司に、土方は眉を顰めた。短く舌打ちすると、その細い顎を掴む。
「こっちを見ろ。そんなに俺を見るのが嫌なのかよ、えぇ?」
「嫌です」
はっきりとした口調で、総司は云った。頑強に視線をそらしたまま、言葉をつづけた。
「あなたなんて、見たくない。話したくない」
「……」
「私を好きなだけ捕えればいい。戒めればいい。でも、何があっても、心はあなたのものにならない」
そう口にした瞬間、また胸奥がちくりと痛んだ。だが、それを無視し、総司は目を閉じた。人形のように、土方の腕に抱かれている。
すると、突然、乱暴に畳の上へ突き倒された。ふり返ると、土方が冷然とした表情でこちらを見下ろしていた。
まるで、他人を見るような表情だ。否、二人は他人なのだ。恋人でもなんでもないのだから。
唇を噛みしめる総司に、冷ややかな声音が命じた。
「報告は終わっただろう。退室しろ」
「……」
「聞こえなかったのか」
副長そのものの冷徹な口調に、総司はのろのろと身を起こした。一礼してから、部屋を出てゆく。
障子を締め切った瞬間、涙がこぼれそうになった。だが、すぐそこには、彼がいるのだ。自分が泣いているなど、絶対に知られたくなかった。
総司はきつく両手を握りしめると、歩き出していった。
冬も深まると、伊東は隊を空ける事が多くなった。
近藤と同行しての出張が、かなり増えていた。それに、総司も「行きますか?」と求められたが、首をふった。
行きたくとも行ける話ではなかった。何があっても、いずれ、土方は伊東を誅殺するだろう。だが、それを早めることも、決定づけることも、総司はしたくなかった。
ある意味、自分は狡いのかもしれないと思った。
罪の意識をもちたくないのだ。それらの暗い負い目から逃れてしまいたいのだ。
土方が自分のために手を汚したと聞いた時、総司は体が震えるほどの恐れを抱いた。浪士たちを大勢斬ってきたはずなのに、総司の中で、土方の行為は狂気の沙汰にしかも思えなかったのだ。
一方で、土方との情事は続いていた。
気まぐれのように、時折、土方は総司を抱くのだ。無理やり副長室で抱かれた事もあるし、料亭に誘われたこともあった。
そのいつでも、総司は甘い快楽に泣いたが、決して心を許した訳ではなかった。その証に、笑顔はなく、彼の名を呼ぼうともしなかった。
そんなある日の事だった。
「……総司」
屯所に戻ってきた総司は、門傍で突然声をかけられ、ふり返った。
見れば、降りしきる雪の中、傘を片手にひっそりと佇んでいる。思わず目を見開いた。
「伊東……先生!」
ぱっと顔を輝かせ、駆け寄った。
「どうして? 広島だったはずじゃ」
「きみの事が気になって、帰ってきました。またすぐ行かなければなりませんが」
「そう、ですか」
たちまち表情を沈ませてしまった総司に、伊東は小首をかしげた。鳶色の瞳で見つめ、そっと頬を指さきで撫でる。
「きみはまた……痩せたようだ」
「大丈夫、です」
「ここでの日々は辛いですか。土方君とは、相変わらずなのですか」
「わかりません。私自身、辛いのかどうなのかさえ、もう……」
俯き、唇を噛んでしまった総司を、伊東は痛ましげに見つめた。傘をさしかけ、その胸もとに華奢な躰を引き込む。
総司の目が見開かれた。
「い、伊東先生……っ」
幾ら他に人気がないと云っても、戸外の事なのだ。いつ、誰が通りかかるかわからない。
ましてや、それが彼であったなら……
「危険な行為ですね。ですが、こうせずにはいられなかった。あまりにも、きみが儚くて消えてしまいそうで」
「伊東先生……」
「私と共に来ますか。近藤さんには後で許可をとればいい。局長許可となれば、土方君も手出し出来ないでしょう」
「でも、そんな」
総司は伊東の胸に手をあて、見上げた。
「そんな事をしたら、後で……」
「何が起こるかわかりませんか。が、それは覚悟の上です。云ったでしょう? きみのためなら全力で戦うと」
きっぱりと云いきった伊東に、涙があふれそうになった。
この人を愛せていたら、良かったのに……。
それはとりもなおさず、伊東を敬愛はしていても、愛してはいないという事を意味していた。
むろん、ならば、土方を愛しているのか? と聞かれれば、答えられない。
今の総司の、土方に抱く感情はあまりにも複雑で、容易には表せなかったのだ。
しばらく黙った後、総司は伊東を真っ直ぐ見上げた。
澄んだ瞳で、答える。
「……行きます」
「総司」
「伊東先生と共に行きます。連れていって下さい」
決意の上だった。
己自身の手で逃げ道を断ち切る行為だと、わかっている。殺されるかもしれない、と。
だが、それでも、総司は行きたかった。今、この場から、土方のもとから、今度こそ逃げたいと心から望んだのだ。
「……っ」
黙ったまま俯き、唇を噛みしめた。そんな若者を、伊東は静かに抱きしめる。
総司も素直に身をゆだねた。目を閉じる。
そして、もう一度、囁くようにくり返した。男の腕の中で。
「連れていって下さい……伊東先生」
柔らかな雪が京の町の瓦屋根に降り舞う、冬の日のことだった。
伊東先生と逃げる事にした総司。その逃亡を知った土方さんは……