木の葉の擦れる音が心地よかった。
料亭の離れの庭は、もう秋も深まっている。紅葉は今が盛りで、艶やかに美しく輝いていた。
それを、総司は縁側に腰かけ、ぼんやりと眺めていた。
土方との逢瀬のためだった。
だが、総司の気持ちは重く沈んでいた。むろん、斉藤から聞いた話のためだ。
正直な話、信じられなかった。否、信じたくなかった。だが、一方で、今まで疑問に思っていた事が、皆、理解できてしまったのだ。
そして、その話が本当ならば、この先、土方が伊東にとる行動は一つしかありえなかった……。
「――土方さん」
背後で襖の開く気配に、総司はふり返った。歩みよってくる男を、大きな瞳で見上げる。
「遅くなっちまって、悪かったな」
土方は優しく笑いかけてくれた。だが、総司は笑みさえうかべられない。緊張のあまり、叫びだしそうだった。
そんな様子にすぐさま気づいたのだろう。微かに眉を顰めると、土方は総司のすぐ傍に腰をおろした。
「どうした、何かあったのか」
「……土方さんは」
総司は、こくりと喉を鳴らした。そして、思い切って訊ねた。
「伊東先生を……誅殺するつもりなのですか?」
「……」
土方が驚いたように目を見開いた。
「誅殺?」
「そうです。土方さんにとって、伊東先生は邪魔である以上に、私を奪った憎い男であるはずです。だから」
「公私混同はしねぇよ。隊のためにだけ行動するさ」
「でも、なら……新見さんは? 新見さんはどうして殺されたの?」
「――」
とたん、土方の顔から表情が消えた。
それを総司は息をつめるようにして、見据えた。ぎゅっと両手を握りしめる。
沈黙の後、低い声が答えた。
「あれは新見の意思だ。新見は芹沢に疎まれ、切腹を……」
「切腹であっても、あなたが追い詰めたのでしょう? 詰め腹を無理やりきらせた、そうではないのですか」
「仮にそうだったとしても、おまえに何の関係がある。新見は芹沢の右腕だった。近藤さんと局長とするためには、どうしても消さなければならなかった」
「それはわかっています。でも、私にとって、新見さんがどういう人だったか、あなたも知っていたはずだ」
思わず叫んだ総司を、土方は冷たく澄んだ瞳で見つめた。しばらくの間、黙っていたが、やがて、微かな笑みを浮かべた。
「……そうだな。知っていたよ、おまえにとって、今の伊東のような存在だったのだろう」
「わかっていたなら、どうして……!」
そう云いかけた総司は、土方の表情から、それが無意味である事を知った。
なぜなら、土方は、あの時、総司にとって新見が大切な存在だとわかっていたからこそ、誅殺したのだ。
当時、総司は新見と親しかった。
荒れくれ者の多い芹沢派の中で、新見は穏やかで考え深く、総司に対しても丁寧に接してくれる男だった。子どもだと莫迦にされがちな総司を庇い、何くれと相談にのってくれたのだ。
総司は新見に傾倒していった。それは、傍にいた斉藤から見ても、少し危ういほどだった。むろん、そこに恋愛感情などは全くなかった。ただ、総司が心を許しただけの事だったのだ。
だが、それは土方を苛立たせた。
幾度か、注意された事を覚えてはいる。あまり親しくなるなと釘も刺されたが、総司は受け入れようとしなかった。少しでも多くの人と逢って話し、知識を吸収したかったのだ。土方もそれを認めてくれるはず、そう無邪気に信じていた。
だが、その関係は早々と絶たれた。突然、新見は亡くなったのだ。
あの衝撃は今も覚えている。運ばれてきた新見の亡骸に縋ることも許されず、ただ茫然と見ていることしかできなかったのだ。
その死がまさか自分に関係のあるものだとは、思ってもいなかった。新見は芹沢のやり方に無力感を感じ、切腹したのだと思っていたのだ。斉藤から真実を聞かされるまでは。
「切腹する前、土方さんと新見さんの間で、激しいやり取りがあったそうですね。隊の問題だけじゃない、私のことも……話に出ていたと」
そう云った総司に、土方は無言だった。
視線を庭の方へ向けたまま、押し黙っている。その端正な横顔は美しく、だが、ぞっとするほど冷たかった。
「私に近づく者を排除するあなたのやり方は、間違っていると、新見さんが云ったと聞きました。それは本当なのですか?」
「……おまえが聞いているのは、どちらだ」
「どちらもです」
土方は形のよい唇の端をあげた。ふっと微かに笑う。
「なら、答えは決まっている。どちらも応だ」
「土方…さん……」
呆然と彼の名を呼ぶ総司の前で、土方はゆっくりとふり返った。切れの長い目に愛しい若者を写し、静かに微笑んでみせる。
それは、美しくありながら、どこか狂った男の表情だった。
総司は思わず身をすくませた。無意識のうちに体をすらし、男から離れようとする。
それを追う事もなく、土方は冷たく澄んだ瞳で見つめた。しばらく黙ってから、問いかける。
「……俺が怖いか?」
「……」
「確かに、斉藤の話どおりさ。俺は、おまえに近づく者をすべて排除してきた。ましてや、おまえを傷つけようとした輩など、云うまでもない事だ」
「私を傷つけようとした……」
「昔、おまえを暴行しようとした侍がいただろう。あの男、今どうしているか、知っているか?」
「……知りません」
総司は首をふった。そこまで詳しく斉藤も話していなかったので知らなかったし、知りたくもなかったのだ。知るのが怖かった。これ以上、土方の恐ろしい本性を見せられることが、怖くてたまらなかった。
だが、土方は淡々とした口調で、あっさり言葉をつづけた。
「半身不随らしい。死ぬまで寝たきりだそうだ」
「まさか……土方さん……っ」
声が喉にからんだ。体中が震えだし、何も言えなくなる。
そんな総司の前で、土方は不思議そうに小首をかしげた。くすっと笑う。
「何をそんなに驚いているんだ。おまえだって、あの時、恐ろしかっただろう? よかったじゃねぇか」
「よくなんか……っ」
総司は心優しい若者だった。
素直に優しく、大切に育てられてきたのだ。それも、この土方自身の手で。
なのに、その彼がこんなにも恐ろしい事をやってのけ、平然としているなど、到底受け入れられる話ではなかった。
「いや……こんなの、いや……」
何度も首を振り、総司は畳を這うようにして後ずさった。彼から少しでも離れたかったのだ。
だが、今度は、土方もそれを許さなかった。素早く手を伸ばすと、総司の細い足首を掴み、一気に引きずり戻す。
「いやあ!」
恐ろしさに抗い叫ぶ総司を、土方は軽々と抑え込んだ。のしかかり、その愛らしい顔を覗き込んで笑いかける。
「何が嫌なんだ?」
なめらかで低い、きれいな声だった。まるで睦言を囁くような。
「俺はいつも、おまえだけを愛してきただろう? ずっと、おまえを守りつづけてきたじゃねぇか。なのに、何がいやなんだ?」
「いや……お願い、もう許して。堪忍して」
目前に全ての罪が迫ってくる気がした。
大勢の人の血で手を汚しながら、総司を抱いていたこの男のことを思うと、凄まじいまでの罪悪感と後悔、恐ろしさが、体を竦ませた。
何も知らなかったのだ。
何も知らず、ただ愛されている喜びだけにひたっていた、その無知ゆえの罪だと思った。
彼のことも自分自身の立場も知ろうとせず、甘えて逃げてきた罰が、たった今あたえられたのだ。
のろのろと両手で顔をおおった。土方の体の下で身を丸め、嗚咽をあげて泣き出す。
子供のように泣きじゃくる総司に、土方は少し困惑したようだった。すっぽりと両腕の中におさめると、優しい声で話しかける。
「泣くな……おまえが怖がる事じゃねぇよ」
「……っ、ぅ……っ」
「俺が傍にいるよ。これからも、ずっとおまえを愛し、守りつづけてやる。だから、もう泣くな」
今までにも、幾度も囁かれた言葉だった。
そのたびに総司は癒され、不安も消え、愛される喜びを感じることが出来たのだ。だが、今は違った。その言葉の裏にある本当の意味を知った今、とても頷けなかった。
男の言葉は、狂気の毒を孕んでいた。これからも、彼は総司を愛してくれるだろう。そして、その為に、多くの者を排除し、殺し、傷つけてゆくに違いない。
「……やめて」
弱弱しい声で、総司は云った。涙をいっぱいためた瞳で男を見上げ、懇願する。
「私のために……もう人を傷つけないで。お願い……もう、やめて」
「総司」
土方は僅かに目を見開いた。驚いたように訊ねる。
「おまえは、俺がおまえのために人を傷つけるのが、そんなに嫌なのか? やめてほしいのか?」
「やめてほしいです」
総司は一縷の望みに縋りついた。
「もう二度と……そんな事してほしくない。お願いだから、私のために誰かを傷つけたりしないで」
「なら、おまえも」
土方は、ゆっくりと微笑った。
「俺に、理由をあたえねぇ事だな」
「え……」
「俺が人を殺したくなる、排除したくなる理由を、おまえ自身がつくらなきゃいいのさ」
「――」
総司の目が見開かれた。
一瞬にして、言葉の意味が理解できたのだ。
「私があなたから逃げれば、伊東先生を殺すということ……?」
「……」
土方は黙ったまま、薄く嗤った。小さな動物を嬲るような愉悦の色が、その黒い瞳にうかんでいる。
それを間近で感じ、総司は呆然となった。
この人は楽しんでいるのだ。
私が彼の罠に嵌ったことに満足し、もがき抗う様を見て楽しんでいる……!
「愛しているよ、総司」
柔らかな口調で、土方が囁きかけた。冷たい指さきが、なめらかな頬や髪を撫でる。
小さく震える総司に気づいているのか、いないのか。
澄んだ黒い瞳が、腕の中の恋人を見つめた。
「俺には、おまえだけだ。可愛い総司……愛しているよ」
「土方…さん……っ」
甘く優しい囁き。
以前なら、無邪気に喜びを感じただろう言葉。
だが、総司はもう、それを信じることなど出来はしなかった……。
「おまえはそれで満足なのか」
鋭い口調だった。
彼にしては鋭く、容赦ない詰問だ。
それに、土方は僅かに目を伏せた。
黒谷屋敷からの帰りだった。話があると休息所へ誘った近藤は、妾を遠ざけたうえで、話を切り出したのだ。
むろん、総司の事についてだった。最近、総司の様子がおかしいため、問い詰める事にしたのだ。
あらかたの事情を土方から聞き出すと、近藤は思わず問いかけた。
「おまえはそれで満足なのか」
「……」
土方は黙ったまま、目を伏せた。短い沈黙の後、微かな苦笑をうかべる。
「別に……満足でも何でもねぇよ」
「どういう意味だ」
「俺は、ただ、自分のものを取り戻した。それだけの事さ」
「総司は物ではないぞ。それに、取り戻したのは体だけだろう。心は逆に失ってしまったのではないか」
近藤の指摘に、土方は口元を引き結んだ。苛立っている証なのか、指の背を唇に押しあてている。
それを見据えつつ、近藤は言葉をつづけた。
「おまえは総司を本当の意味で失ったんだ。取り返しのつかない事をしたのだと、まだわからないのか?」
「わかっているさ」
「なら、何故そんな事をした。今更悔いても仕方がないが、他にやりようもあっただろう」
「あるはずねぇよ」
土方は鋭い瞳で、近藤を見据えた。
「一度は、総司を奪われたんだぞ。それを取り返すためなら、俺は何だってしただろうさ。綺麗事ならいくらでも云える。だが、俺は何を捨てても総司を取り戻したかった。総司だけが欲しかったんだ」
「歳、おまえは間違っている」
きっぱりと、近藤は云いきった。
「体だけ取り戻しても、虚しいだけではないか。だからこそ、おまえも今、苛立っているのだろう。そんな事をして何になるんだ」
「じゃあ、何か? あんたは、総司をまた手放せと云うのか?」
思わずとも云うように、土方の声が激した。
「伊東のもとへやっちまえとでも、云うのかよ」
「そうは云わん。ただ、取り戻すなら心も取り戻せと云いたいのだ。今のままでは、おまえも総司も地獄だ」
「地獄……?」
不思議そうに、土方は問い返した。だが、すぐに、くっくっと喉を鳴らして嗤い出す。
「地獄ね。確かに、生き地獄だよ。今や、あいつは俺を恐れ、憎み、忌み嫌っている。俺がふれようとすると悲鳴をあげ、嫌がるおかげで、情事は毎回、手込め同然さ。そんなあいつに、俺は、今まであんなにも愛してきてやったのにと苛立だち、より酷くあたっちまう。まったく終わりのない……地獄さ」
自嘲する声音は常軌を逸していた。
否、昔から、総司のことになると、この男は半ば狂気じみていたのだ。
だが、それはとりもなおさず、彼の総司への愛情の深さ、激しさを表していた。
土方は、総司が思っている以上に、深く激しく愛しているのだ。総司のためなら、わが身さえも犠牲にできてしまう程に。
それらすべてを理解している近藤からすれば、今の土方は、痛々しいほどだった。
「……歳」
近藤は手をのばし、そっと友の肩に手を置いた。土方は片手で顔をおおい、じっと俯いている。
こんな憔悴した彼を見るのは、初めてのことだった。
「いつか、総司もおまえの気持ちを理解してくれる」
「……」
「総司の心も……おまえの元に戻るだろう。おれはそう信じているよ」
静かにそう云った近藤に、土方は何も答えなかった。
総司は息を呑んだ。
玄関口で、土方と行きあったのだ。視線が絡み合う。
数日ぶりのことだった。この間、顔をあわせたのは、屯所の一角だった。小部屋に連れ込まれ、無理やり抱かれたのだ。
否、あれは犯されたと云った方が正しい。総司は最後まで嫌がり、抗いつづけたのだから。
その証に、土方の肩には噛み痕が残っているはずだった。血の味までしたのだから、相当ひどい痕になっただろう。
「……」
総司は静かに身をすらせ、目礼した。その前を、土方は無表情のまま通り過ぎていく。一瞥さえくれなかった。
むろん、ここで言葉をかわす訳にはいかなかった。
今、総司は微妙な立場にいた。土方とも、伊東とも、距離をとりつつある総司を、皆が奇異の目で眺めている。
だが、今の総司には、それ以外手段がなかった。
土方のもとに戻るつもりはない。かといって、伊東の身の安全が危惧される以上、彼のもとへいく訳にもいかなかったのだ。
「――」
総司は、こんな状態へ追いこんだ男の広い背を、不安に揺れる瞳で見つめた。
ラストまであと3話です。おつきあいくださいませね。