「……失礼」
 穏やかな声音で、伊東は云った。
 小さく微笑みかける。
「邪魔をしてしまったようですね」
「いえ、あの……っ」
 総司はあわてて立ち上がった。挨拶しなければと思ったのだ。
「わ、私、一番隊組長を務めています沖田総司です。宜しくお願い申し上げます」
 頭を下げた総司に、伊東はくすっと笑った。
 顔をあげると、綺麗に澄んだ鳶色の瞳とあい、どきりと心の臓が跳ね上がる。
「こちらこそ、良しなに」
 伊東は斉藤にも目礼すると、柔らかな口調で総司に話しかけた。
「きみとは、そのうち言葉を交わしたいと思っていました。剣術の腕前も隊随一だとか。近藤先生からお聞きしています」
「いえ、そんな……」
 総司は俯いてしまった。
 伊東は、北辰一刀流の免許皆伝の腕前であり、伊東道場の主でもあった男なのだ。その彼から褒められても、気後れするばかりだった。
「一度、手合せ願いたいものです」
「はい」
「では、また」
 伊東はかるく頷いてみせると、歩み去っていった。それを見送り、総司は、ほっと躰の力を抜いた。妙に緊張していた自分を、今頃になって自覚する。
 それを、傍らから斉藤が珍しそうに眺めた。


 確かに、総司は、土方に囲い込まれるように育てられたこともあって、人見知りなところもあったが、人づきあいが悪い方ではない。
 むしろ、無意識のうちに反発しているのか、土方以外の者と言葉をかわしたりするのが、好きな方なのだ。なのに、ここまで緊張した面持ちになるとは、逆に、総司が伊東を特別に意識しているとしか思えなかった。
 何か、惹かれるものを感じたのかもしれないし、逆に、拒否感が出ているのか。


「随分と緊張しているんだな」
 思わず云った斉藤に、総司は、はっとしたようにふり返った。少しぎこちない笑みをうかべる。
「そう、ですか? 初めて言葉をかわしたから、かもしれませんけど」
「伊東さんは、おまえに興味をもっているよ。以前も、おまえのことを聞かれた事があったしな」
「私に?」
 不思議そうな顔で、総司は小首をかしげた。
「私になんて、どうして」
「どうしてって、当然だろう。おまえは土方さんの腹心で、近藤先生の一番弟子。その上、新選組精鋭の一番隊組長だ。この新選組で派をたてようとする伊東さんが興味をもって、当然だと思うけどね」
「派をたてる……」
 小さく呟いた総司の前で、斉藤は立ち上がった。
「いずれ、伊東さんと土方さんが対立する事になるのは、明らかだ。一つの群れに、頭は二つもいらないからな」
「でも、近藤先生がいらっしゃいます。近藤先生が伊東先生に入隊をお勧めしたと聞いているのに」
「だから、余計にもめるんだよ。土方さんには何の相談もなかった。それがいきなり、参謀長だ。ここまで新選組を大きくしてきた土方さんにすれば、面白くないに決まっているだろう」
「斉藤さんは……」
 総司は、綺麗に澄んだ瞳で、じっと斉藤を見つめた。桜色の唇が、微かに震える。
「斉藤さんは、もしも伊東先生と土方さんが対立したら……どうするのですか?」
「わからないね」
 斉藤は肩をすくめた。
「実際、そうなってみないと、わからない。総司だって、そうだろう?」
「私? 私はもちろん……」


 土方さんについてゆきます。


 そう、口にだしかけて、総司は言葉を途切れさせてしまった。
 江戸を出る時、斉藤とかわした会話を思い出してしまったのだ。
 今もまだ、自分の意思をもっていないと思われるのではないかと、相変わらず、土方の云いなりだと侮蔑されるのではと、黙り込んでしまう。
「……」
 そんな総司に、斉藤は何か云いかけたが、すぐに口を閉ざした。


 正直な話、心情的には土方の側につきたくない。
 総司が知らない、土方の狂った本性を一番よくわかっているのは斉藤であったし、総司を間に挟んで何度もやりあった関係だ。
 土方のためになる事など、したいはずもなかった。
 だが、思想的なものになると、話はまた別だ。
 仕事として割り切るなら、土方の側につくべきなのは当然の事だった。


(オレも、いろいろと複雑だよな)


 苦笑交じりにそう思った斉藤は、冬の空を見上げた。












 それ自体が運命だったのかもしれない。
 屯所で逢ってから、さして日を置かぬうちに、総司は伊東と顔をあわせる事になった。
 それも、京の北山の方にある小さな神社である。
 京に来てから、散策の途中に見つけたその神社が、総司にとってお気にいりの場所だった。人気も少なく静かだが、綺麗に掃き清められた砂地も、包みこむような大きな樹木も、総司の心を落ち着かせるのだ。
 誰にも教えていない、総司だけの秘密の場所だった。土方にさえ、云った事はない。
 ある意味、無意識のうちに、総司は土方の懐から少しでも抜け出そうとしているのかもしれなかった。
 きつい束縛と独占を、総司自身は気づいてないようで、心の奥底ではそれを息苦しく感じているのかもしれないのだ。だからこそ、時折、こうして屯所を一人抜け出し、神社へやって来て時を過ごす。
 だが、その日、総司は一人ではなかった。鳥居をくぐったところで、神社の前で手をあわせている武士に気づいたのだ。
「……あ」
 思わず小さく声をあげてしまった総司に、男はふり返った。彼も驚いたようで、鳶色の瞳を見開いている。
「沖田君」
「伊東先生……」
 どうしてと戸惑っていると、伊東は僅かに小首をかしげた。
「きみは、どうしてここに?」
「え、あの」
 総司は躊躇いがちに、答えた。
「私は……以前、散策の途中にここを見つけて、それで……よく訪れるようになったのです。伊東先生は……」
「同じようなものですよ」
 伊東はくすっと笑った。
「ここは、私の故郷にある神社の元にあたるのです。それで、京に来たついでに詣でておこうと思った次第です」
「そうなのですか」
 総司はこくりと頷き、歩をすすめた。伊東とならび、あらためて手をあわせる。
 社にむかって一礼した総司に、伊東が柔らかな声音で訊ねた。
「何を願っていたのです? むろん、聞いてよければ……ですが」
「いつも同じことをです。私の大切な人たちが、健やかであるようにと」
「きみは?」
 伊東は小首をかしげた。
「きみの健やかさはいいのですか」
「私は……病もちですから。今更、祈っても仕方がありません」
 長い睫毛を伏せてしまった総司に、伊東はかるく眉を顰めた。しばらく黙った後、静かに、総司の肩に手をおく。
「仕方がないなどと、云ってはいけませんよ。きみの病が治るように、少しでも健やかになれるように、願うべきだと思いますが」
「そうでしょうか」
「きみの周囲の人たちも皆、そう願っているのではありませんか」
 静かな声で諭され、総司はきゅっと唇を噛んだ。
 確かに、池田屋で血を吐き、労咳だと知らされてから、半ば諦めに似た心境になっていた事は確かだった。投げやりとまではいかないが、自分の躰に無頓着になっていた事は否めない。
「自分を大事にしなさい。それがきみにとって、とても大切な事だと思いますよ」
「伊東先生は……」
 総司は不思議そうに、伊東を見上げた。
「どうして、そんなにわかるのですか? 私とまだ逢って間もないのに、なぜ」
 そう問いかけかけて、総司は、はっと顔をこわばらせた。


 もともと、伊東を怖いと思っていたはずなのだ。
 何もかも見透かされてしまいそうで、だからこそ、避けようとしていた。
 なのに、今、伊東にやすやすと、自分の弱さを見抜かれ、指摘されてしまった。やはり、彼とはあまり関わらない方がいいのだろうか。


 じっと黙り込んでしまった総司を、伊東は鳶色の瞳でじっと見つめた。少し身をかがめると、低い声で囁きかける。
「私の前では、何一つ偽れない。そうではないのですか……?」
「え」
 総司は息を呑んだ。
 あの時、自分が斉藤の前で口にした言葉だった。伊東の前では何一つ偽れない気がすると、云ったのだ。それをまさか、聞かれていたとは。
 驚きと不安に目を見開いている総司を、伊東は可笑しそうに眺めた。やがて、くすくすと声をあげて笑いだす。
「きみの顔。まるで、子どものような表情ですね」
「伊東先生」
「怒らせたなら、申し訳ない。けれど、あんな処で話していたら、丸聞こえですよ」
「……すみません」
 総司は思わず謝ってしまった。伊東のことを、あれこれ云っていたのは確かなのだ。とても失礼な事だと、申し訳なくなった。
「よく知らないのに、あんなことを云って……」
「きみは、私が怖いですか?」
 伊東は境内を歩きだしながら、訊ねた。それを追いながら、総司は慌てて首をふる。
「今は、そう思いません。ただ……」
「ただ?」
「伊東先生の前では何も偽れない……と感じることは、変わりません」
 素直に答えた総司に、伊東は小さく笑った。
「きみは、本当に正直ですね」
「すみません」
「いや、いいのです。そこがきみのいい処だと思いますから」
 伊東は境内を出る前に、ふと気づいたようにふり返った。じっと総司を見下ろしてから、静かな声で問いかける。
「時々、こうして逢って貰えませんか」
「え……」
「屯所で逢うのは難しいでしょう。なら、ここで時折、きみと言葉を交わしたいのです」
「それは、あの」
 総司は躊躇いがちに、伊東を見上げた。
「私が……土方さんの腹心だから、ですか。一番隊組長だからですか」
「それもあります。ですが、それ以上に、私はきみに好意をもちました。きみと話していると楽しい。日頃のしがらみや憂さを忘れられるのです」
「伊東先生って……」
 大きな瞳で伊東を見つめた。
「意外と、率直なんですね」
「もっと含みのある話し方をすると思っていましたか」
 可笑しそうに、伊東は肩をすくめた。
「きみの前で、そんなことをする必要がないでしょう。きみは私にとても素直に接してくれる。ならば、私もきみに率直に接しようと思った迄です。それで……逢ってくれますか? 私と」
「あ……はい」
 総司は反射的に頷いた。それに、伊東が微笑む。
 その柔らかな笑顔を見つめながら、総司は、胸奥に小さな棘が刺さったような感覚に、唇を噛んだ。












 伊東との逢瀬は、幾度かくり返された。
 それは、秘密の逢瀬だった。誰にも知られる訳にはいかなかった。
 初めに伊東が云ったように、屯所で逢う訳にはいかなかった。総司が土方の腹心である以上、伊東と親しくなることは、隊内に波風をたてる事になるのだ。
 だが、総司は伊東という新しい知人に、興味が惹かれていた。実際、話してみると、伊東はとても穏やかで話しやすかったのだ。
 それに、総司は、ずっと土方の手の中に包み込まれるようにして育てられ、新選組にあってもそうであるため、親しく話せる相手が極端に少なかった。斉藤と、近藤、試衛館の仲間からである原田や永倉、山南、藤堂ぐらいだったのだ。
 総司にとって、伊東は、新しい世界への入り口だった。
 今まで周囲にいた誰とも、伊東は違っていた。まったく違う世界で生きてきた男だった。総司は、伊東からさまざまなことを学んだ。ものの考え方から学問、思想、剣術。伊東の話は多岐にわたり、総司をまったく飽きさせなかった。
 ある意味、伊東は、総司を初めて一人の大人として接してくれた相手だったのだ。
 土方はいつも、総司に何も知らせようとしなかった。汚い事、つらいこと、恐ろしい事に一切ふれさせず、総司を真綿で包むように愛してきたのだ。
 むろん、土方が総司のためにつくり出した世界は、美しかった。優しい花園だった。
 だが、人はいつまでも子どもでいられないのだ。
 頭の切れる土方は当然、それは承知しているはずだった。だが、それでも尚、狂気じみた執着ゆえに、土方は総司を花園にとどめておこうとしていた。鎖を纏いつかせ、愛することで、総司のすべてを独占しつづけていた。
 当然、京にのぼってから、幾度も総司は誘惑や危険に晒された。だが、その度、土方は排除し、愛しい若者を腕の中に抱きすくめてきたのだ。
 総司は、彼の手の中でだけ、花開いていればよかった。他の誰かのために咲くなど、許せるはずがないのだ。
 その狂気じみた執着に、総司は気づいていなかったが、伊東との逢瀬を、土方にだけは知られてならないことはわかっていた。小動物が身を守る術を本能的に知っているように、理解していたのだ。






「最近、外出が多いな」
 昼下がりの副長室だった。
 文机の上に広げられた書類をめくりながら、そう云った土方に、総司は「え?」と小首をかしげた。
 それに、土方は唇の端をあげた。
「外出が多いなと云ったのさ。誰かと出かけているのか」
「いえ、そうではなく、前からと同じ散策です。一人であちこち歩き回るのが好きで」
「そうか」
「でも、土方さんが一緒なら……もっと嬉しいですけど」
 少し甘えをふくんだ声で云った総司に、土方はふり返った。手をのばし、そのなめらかな白い頬にふれる。
「俺と出かけられなくて、つまらねぇか」
「はい……」
 こくりと頷いてから、総司は、そっと吐息をもらした。
「土方さんのお仕事が忙しいこと、よくわかっているから、我慢しようと思うのです。でも、時々、淋しくて……あ」
 思わず口をおさえた。あわてて謝る。
「ご、ごめんなさい。我儘を云って」
「我儘じゃねぇよ。俺にとっては、嬉しい事さ」
 土方は総司の頬や髪をなでながら、呟いた。
「おまえは俺に甘えねぇからな。京にのぼってからは、尚のことだ」
「それは……私も、仕事をもった訳ですし。いつまでも、土方さんに甘えている訳には」
「いかないか。だが、恋人として甘えるぐらいはいいだろう」
 悪戯っぽく笑いかける土方に、総司はなめらかな頬を染めた。恥ずかしそうに長い睫毛を伏せつつ、「はい」と頷く。
 そうして、抱きよせてくれる男の胸もとに凭れかかりながら、総司は幾度も思ったことを反芻した。


 こんなにも優しくていい男である彼が、私の恋人なんて信じられない……。


 歳三さんとして憧れていた時はもとより、京にのぼってからも、恋人として総司だけを愛してくれていた。
 だが、土方も昔の彼とは違うのだ。地位も名誉もあり、一角の人物だ。いい縁談もふるようにあるだろうし、自分など相手にせずとも、もっと美しい女を傍におけるはずだった。
 なのに、土方はそんな素振りをまったく見せない。むろん、遊んでいる事は確かだが、ただそれだけなのだ。
 それが、総司には信じられない事だった。
 どうして、と思うと同時に、不安になってしまうのだ。


(こんな幸せがいつまで続くの……?)


 江戸の頃からの癖で、総司は、いつか土方に飽きられると思い込んでいるところがあった。
 土方の気持ちが変わり、切り捨てられてしまうのだと。
 総司は、土方の本性を知らない。その狂気じみた執着も独占欲、その冷酷さを知らぬからこそ、素直に彼を愛していることが出来た。
 そうして、彼が総司を捨てることなどありえぬと知らぬまま、一途に想いつづけている。
「……」
 黙ったまま、土方の背に両手をまわした。縋るようにしがみつく。
 それに、土方が目を細めた。
 昏い光を湛えた瞳が、腕の中の恋人を見つめた。

















土方さんが、総司の行動に気づいてないはずがないのです。