……ふわりと花びらが舞った。
驚いて見上げれば、白い花びらが舞い降りてくる。
それは、花吹雪ではなかった。
一人の男の手によるものであることを、総司は知っていた。
「土方さん……」
小さく微笑んだ。
花のような愛らしい笑顔だ。
それに、男は笑いかけると、そっと後ろから抱きすくめた。
江戸から京にのぼり、一年以上の時が経っていた。
さまざまな出来事があった。今や、土方は京でも名だたる新選組の副長であり、総司は同じ新選組の精鋭である一番隊組長だ。
だが、二人の関係は変わらなかった。
土方は、総司が己のものであると周囲に知られることに、まったく頓着しなかった。念者だと公言した訳ではないが、愛らしく美しいこの若者が誰のものであるのか、はっきりと態度で示したのだ。
むろん、その躰に纏いつかせた見えぬ鎖も変わらない。
相変わらず、総司は隊内にもあまり親しい者はいなかったし、一番隊の隊士たちとも仕事上での関係に留まっていた。
当然、気だてもよく綺麗な若者である総司は、皆から好かれた。だが、土方が見えぬ鎖でとらえている限り、誰も近寄ることは出来なかったのだ。
それに、総司は疑問を感じていなかった。愛されているから、土方さんは私を大事に思ってくれているからと、当然のように受け入れていたのだ。
むろん、江戸を発つ時、斉藤に云われた事は忘れてはいなかった。
だが、それでも、土方を一途に愛する以外、何ができるというのだろう?
幼い頃から、彼だけを見つめ続けてきたのだ。憧れ、慕い、愛しつづけてきた男。その彼が自分を恋人として愛してくれている以上、他に何も望むことはないはずだった。
総司は幸せだった。
隊での仕事は時に厳しく辛いこともあり、また、病を得てしまった不安もあったが、それでも土方が傍にいて愛してくれれば、大丈夫だった。
「そろそろ帰ろうか」
土方は総司の手をひきながら、優しい声で云った。
それに、こくりと頷いた。本当はもっといたかったが、土方は忙しいのだ。我儘を云って嫌われたくなかった。
最近、二人きりで出かけられることなど、本当に稀になってしまっている。
恋人として愛してくれているのはわかっているが、それでも、総司は時々、寂しさを覚えていた。土方が祇園や島原で時折遊んでいることも、知っているから尚のことだ。
だが、江戸の頃と変わらず、総司は何も云わなかった。否、江戸にいた頃以上に、云うことが出来なかった。
(だって、土方さんは……)
総司は、ふと、傍を歩いている男の横顔を見上げた。
思わず見とれてしまうほど、綺麗な顔だちだった。形のよい眉に、切れの長い目。黒曜石のような瞳。すうっと通った鼻筋に、優しげな唇。
土方は、綺麗なだけではなかった。その整った顔だちと、すらりとした長身の姿には、えもいわれぬ男の色香が漂うのだ。
その魅力は、江戸の頃よりも磨かれていた。京で新選組副長として振る舞うことで、男としての重みを増したのだ。自信と責務の重さが、土方をよりいい男にしたと云っても過言ではない。
そんな彼に女たちが心奪われぬはずがなかった。花街でもたいそうな人気だと、総司も噂に聞いている。
むろん、そんな噂を耳にすることは悲しくて辛いことだったが、悋気などやけるはずもなかった。総司にすれば、土方が恋人として自分を愛してくれるなら、少々のことは堪えるべきだと、云い聞かせているのだ。
(私は……娘じゃないし、綺麗じゃないし……)
己に引け目ばかりを感じてしまう総司だったが、むろん、それは間違いだった。
華奢な躰つきに、愛らしい顔だち。つぶらな瞳も、桜んぼのような唇も、花のような笑顔も何もかも、小町娘どころか、花魁でさえかなわぬほどの美しさだった。まさに、花のように可憐な若者なのだ。
実際、総司が思っている以上に、否、それどころか、もっと深く激しく狂おしく、土方は総司を愛している。それはもはや、長い年月を経て、執着と独占欲にみちたものであったが、それでも、激しく愛している事は確かだったのだ。
奪われるぐらいなら、殺してしまうほどに――――
「総司」
不意に、呼びかけられ、総司は顔をあげた。
見上げると、土方の濡れたような黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。それに、頬を染めつつ、「はい」と答えた。
「何ですか?」
「いや、最近、躰の調子はどうだ」
「あ……大丈夫です。お医者さまにも、ちゃんと診て頂いていますし」
「そうか、ならいいが」
土方は懐手をしながら、目を細めた。
「無理だけはするなよ。つらい時は俺に云え。隊務のやりくりは、どうとでもなる」
「ありがとうございます……」
総司はこくりと頷いたが、たとえ調子が悪くなっても、告げるつもりはなかった。
土方に心配をかけたくないということもあったが、それ以上に、隊務で役にたたなければ、ますます土方に飽きられてしまうと思っていた。
己が娘でない以上、他に勝ることといえば、隊務だけだ。剣の腕で土方を支えつづける。それだけが総司の拠り所であるのに、失えるわけがないのだ。
総司にとって、土方は世界のすべてだった。喜びも悲しみも、すべて彼がいるからこそなのだ。
「もうすぐ冬だな」
土方は空を見上げながら、云った。
紅葉も終わり、季節は冬にさしかかりつつある。そのことを思ったとたん、総司は先ほどの花びらのことに気がついた。この季節に、花など、高価であるに違いないのに。
「あの、土方さん」
思わず彼の袂を掴んだ。何だとふり返った男に、問いかける。
「さっきの花……高かったのではないですか」
「総司」
土方は苦笑し、総司の細い肩を抱き寄せた。そっと髪に口づけてやりながら、囁きかける。
「そんなもの……おまえが気にする事じゃねぇよ」
「でも」
「俺は、おまえのためなら何でもしてやりたい。本当は、もっと時をさいておまえの傍にいてやりたいが、それも最近は難しい。だから、あんな花の事など、気にするな」
「土方さん……」
「愛しているよ、総司」
土方はかるく身をかがめ、その耳元に囁きかけた。
「俺は、おまえだけを愛している……」
甘く低められた声に、総司は陶然となった。抱き寄せてくれる男の胸もとへ、うっとりと凭れかかる。
愛されていることに、何の不安もなかった。
どんなに、土方が、自分の知らぬ処で女を抱いていたとしても、それでも、彼は自分の傍にいてくれる。自分を誰よりも愛してくれる。
それだけで幸せだと、総司は思っていた。否、信じていたのだ。
ある意味、まだ子どもだったのかもしれない。
土方がつくりあげた美しい檻の中。
そこにいれば、何の不安も恐れもなかった。ただ彼に愛され、その幸せに酔いしれていればいい。彼の云うがまま振る舞い、彼の言葉を自分の意思として信じつづけていればいい。
だが、それが、歪んだ関係なのだということに、総司はまったく気づいていなかった。
土方の手の中にありつづける限り、自分が子どもなのだということも。
静かにゆっくりと、季節は移り変わろうとしていた。
変化が訪れたのは、数日後だった。
隊士募集のため江戸に行っていた近藤が、戻ってきたのだ。
近藤は、一人の男を伴っていた。大勢の弟子たちを連れての入隊となった伊東甲子太郎だった。
顔あわせの時、総司は、伊東のことを怖いと思った。秀麗で優しげだが、なぜか、その鳶色の瞳に真っ直ぐ見つめられると、身が竦むような思いがしたのだ。何もかも、心の底まで見抜かれそうな気がした。
「……」
総司は思わず俯き、視線を落とした。
その様子に気づいているのかいないのか、土方が挨拶の言葉を述べている。その声は冷たく、厳しいものだった。
当然だろう。近藤は土方に何の相談もなく、伊東一派を新選組に迎え入れたのだ。この先、隊内が荒れるのは容易に予測できることだった。
部屋に戻ってからも、土方は不機嫌そうだった。何も口にはしないが、形のよい眉を顰めている。
それを総司は不安に思いつつ、土方の傍にいた。小姓が運んできたお茶を土方の前に置き、身をよりそわせる。
だが、土方は何か物思いに沈んでいるのか、総司を抱き寄せようともしなかった。胡坐をかき、指の背を唇に押しあてて、じっと何事かを考えている。
総司はいつもそんなとき、彼の思考の邪魔をしないよう気をつけた。
よくわかっているのだ。今の新選組を支えているのは、副長の土方だ。その冷徹な手法は非難を浴びることも多かったが、実際、彼の存在なしに新選組はここまで大きくなれなかった。土方の肩には、重責がかかっているのだ。
そんな土方を支えられなくとも、邪魔だけはしたくなかった。自分の存在が、少しでも彼のためにあればいいと、心から願っているのだ。
「……」
黙って寄りそっていると、やがて、土方は片手で総司の肩を抱き寄せた。それに、気持ちがこちらに向いてくれたのかと見上げると、切れの長い目が総司を一瞥する。
心配そうな総司に微かに笑い、そっと頬に口づけた。
「なんて顔をしている」
「土方さん……」
「茶が冷めてしまったな」
土方は手をのばし、湯呑みをとりあげた。微かに眉を寄せる。
その端正な顔を見上げ、総司は躊躇いがちに訊ねた。
「土方さんは……どう思われたのですか」
「何を」
「あの……今度、入ってこられた伊東先生の事、です」
「……」
土方は鋭い瞳を総司にむけた。探るような表情で眺めてから、低い声で問いかける。
「あいつに、興味があるのか」
「え、いえ」
総司は首をふった。きゅっと両手を握りしめる。
「私は、興味があるとかないとかより……なんだか怖くて」
「怖い?」
「えぇ。全部、見透かされそうな気がして。怖いなと思ったのです」
口ごもりつつ答えた総司に、土方はくすっと笑った。総司の絹糸のような髪をもてあそびながら、云った。
「何も怖がることはねぇだろう。それとも、何か。見透かされて困る事でもあるのか」
「違いますけど……」
俯いてしまった総司を、土方はじっと見つめた。やがて、ふと気づいたように笑った。
「俺との仲なら、心配するな。誰にも指一本ささせたりしねぇよ」
「はい」
「何だ、やっぱりそれを心配しているのか」
「違います。あ、でも、そうなのかな……」
「どっちだよ、いったい」
土方は楽しそうに目を細め、笑った。それに、総司はちょっと安堵した。
土方の機嫌がよくなってくれたことが、嬉しかったのだ。
彼との仲を探られるのではと、思った訳ではなかった。
だが、土方の前ではそうしておいた方がいいと、総司は何となくわかっていた。
怖いと思ったのは、やはり、一番初めに云ったとおり、見透かされそうな気がしたからだった。何もかも、だ。
土方の女遊びに対する嫉妬、悲しみ、彼とのつきあいの中での不安、斉藤に云われたことで生じた疑惑。
さまざまなものが、素直で優しい総司の中で、静かに渦巻いているのだ。今も、波打ち続けているのだ。それは、ほんの少しの刺激で外へこぼれ落ちてしまいそうだった。
だからこそ、怖かったのだ。
何もかも見透かしそうな、あの真っ直ぐなまなざしが。
伊東のもつ、静かな瞳が。
(土方さんが炎なら、あの人は水だ)
総司は土方の胸もとに凭れかかりながら、ぼんやりと思った。
(もしも、あの人が呼び水となったら、私は……)
何かが、大きく変わってしまいそうな気がした。
後ろから声をかけられ、ふり返った。
こちらへ歩み寄ってくる友人の姿に、総司は小さく微笑んだ。
「斉藤さん……」
巡察が終わった後なのか、斉藤は隊服姿だった。きりりと鉢巻をまいた姿が涼やかだ。
江戸から京へのぼる時、土方と斉藤の間に、何かあったのは、総司もうすうす感づいていた。それも自分の事がらみだと、わかっている。
だが、何があったにしろ、二人の仲が悪いと知っていても尚、総司にとって、土方は愛する恋人であり、斉藤は大切な友人だった。どちらかとの関係を絶とうとは、思っていない。
「巡察から帰られた処ですか」
「あぁ」
斉藤は縁側を歩きながら、頷いた。それに、総司はにこにこと話しかけた。
「じゃあ、少し休みませんか? おいしいお菓子があるのです」
「菓子? 相変わらずだな」
「斉藤さんもけっこう好きでしょ?」
「そりゃ好きだが……オレ以外の誰かに怒られないか」
斉藤の言葉に、総司は細い眉をひそめた。すぐ誰の事を云っているのか、わかったのだ。だが、ゆるく首をふると、小さく笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。土方さんは甘いもの嫌いだし」
「そういう事じゃないんだけどな」
「じゃあ、どういう事でしょう」
「まぁ……いろいろと」
斉藤は肩をすくめつつ、総司の誘いに従った。断るつもりはさらさらない。何しろ、ずっと想いを寄せている相手からの誘いなのだ。何をおいても、受けるべきだろう。
総司は、軽い身ごなしであちこち動き回り、お茶とお菓子を出してきた。初冬であっても陽射しはあたたかいので、中庭に面した縁側に並んで腰をおろす。
しばらくの間、二人は、最近行った市に京の寺のことなどを話していた。だが、菓子を食べ終わったあたりで、斉藤が話題を変えた。
「おまえ、伊東さんをどう思う」
不意に訊ねてきた斉藤に、総司の目が見開かれた。
「……伊東先生、ですか」
「あぁ。おまえは言葉を交わしたか」
「いいえ。まだ全然……あまりお会いすることもありませんし、それに……」
口ごもった総司に、斉藤は訝しげな視線を向けた。
「それに?」
「あの、えっと、私は……なんというか、伊東先生が怖くて」
「怖い?」
不思議そうに、斉藤は首をかしげた。それに、うまく云えないなぁと自分でも思いつつ、総司は言葉をつづけた。
「お話した事もないのに、失礼だと思いますけど……でも、伊東先生の前では、自分を何一つ偽れない気がするのです。自分の醜さが引きずり出されてしまいそうな」
「おまえがそんな事を思うとは、驚きだな」
斉藤はかるく目を見開き、呟いた。
「おまえに、醜さなんてあるとは思えないけどね」
「ありますよ」
総司は即座に答え、小さく微笑んだ。清らかで愛らしい笑み。
「私にも、いっぱいありますよ。不安や、嫉妬や、怒りや……いろんなものがあります。もう、江戸の頃とは違うのですから」
「確かに江戸の頃とは違うな」
江戸から京へのぼり、さまざまな事があったのだ。芹沢達との争い、誅殺、池田屋事件。そして、総司も病を得てしまった……。
斉藤は少し痛ましげな表情になったが、すぐに柔らかな声音で云った。
「だが、おまえは何も変わっていないよ。おまえは……相変わらず、素直で優しいし、綺麗だ。人を疑うということを知らない。正直な話、いつまでも変わらないでいて欲しいと、オレなんかも願っているよ」
「そんな……」
総司は戸惑いがちに、長い睫毛を伏せた。
自分の事をあまり高く評価していないので、人に褒められると、どう答えていいのか、わからなくなってしまうのだ。
じっと黙り込んでいた総司だったが、突然、縁側に影がさしたのに気づき、顔をあげた。誰かが通りかかったのだ。
土方かと思った総司は、だが、顔をあげたとたん、息を呑んでしまった。
そこに佇んでいたのは、思いもかけぬ男だったのだ。
「……伊東先生」
伊東は、静かな瞳で総司を見おろした。
新連載スタートです。ラストまでおつきあい下さいませね。