目を覚ますと、土方はもう起きていた。
 朝の光の中、手早く着物を纏っていく姿は妙に色っぽい。着流した小袖に帯を締め、最後に懐紙を差し込んだところで、こちらに気づいたようだった。
 視線があうと、柔らかく微笑みかける。
「おはよう」
 彼の笑顔がどきどきするほど綺麗で、総司は一瞬、見惚れてしまった。だが、不思議そうに小首をかしげる土方に、慌てて言葉を返す。
「お、おはようございます」
 起き上がろうとしたが、腰の痛みに思わず顔をしかめた。すると、土方はすぐさま傍に跪き、総司を優しく抱き起してくれた。
「すまない、ちょっと無理させすぎたな」
「……ちょっとですか、あれが」
「いや、かなりか」
 くすっと笑った土方に、総司は唇を尖らせたが、すぐに仕方ないなぁと思った。煽ったのは自分なのだから、あまり怒ることもできない。
 男の広い胸もとに凭れかかり、甘えるように頬をすり寄せた。土方の背に手をまわし、ぎゅっとしがみつく。
 それが痛み故と思ったのか、土方はもう一度謝った。
「本当にすまない。夢中になってしまった」
「夢中に……なったの?」
「あぁ。おまえの躯が気持ちよすぎて、何度もやりたくてたまらなくて……」
「ひ、土方さん!」
 慌てて遮った。耳朶まで真っ赤になっている。
「そういう事、云わなくていいんです!」
「? おまえが聞いたから答えたまでだが。けど……まぁ、恥ずかしいなら云わないよ」
 肩をすくめ、土方は総司の小柄な躯を膝上にそっと抱きあげた。優しい手つきで髪を撫で、頬に口づけを落としてくれる。
「あとで着替えをしような。その後、朝飯を一緒にとろう」
「はい」
「躯が辛いなら、全部俺がやってやるから」
「い、いいです」
「俺がやりたいんだよ」
 くすくす笑いながら、土方は総司の躯を抱きなおした。
 有言実行。
 その言葉どおり、結局、土方は総司の着替えから食事まで、あれこれと手伝った。まるで綺麗な人形でも扱うように、丁寧に優しく手伝い、それをしかも嬉しそうにやってのけるのだから、総司とすれば頬を赤らめているより他ない。
 綺麗に着物を着付けた後は、抱きあげられ、膳の前に坐らされた。隣に坐った土方が自分の食事もそっちのけで、あれやこれやと、総司の世話をしてくる。人目があれば恥ずかしいことこの上ないが、ここには二人以外誰もいない。
 そのため、初めは躊躇っていた総司も、土方に甘やかされることに身をゆだねた。すると、土方は嬉しそうに笑い、より総司を甘やかしてくる。話しかける声は優しく、総司を見つめる瞳もとろけそうに甘い。
 新撰組で見た、副長としての土方とはまるで別人だ。あそこにいた人々が、もしも今の彼を見たならびっくり仰天するだろう。
 それだけ愛されているという事なのだと、くすぐったい思いだったが、同時に、心の奥底に不安があるのを否めなかった。
 冷たく厳しい土方もまた、本当の彼なのだと、よくわかっていたからだ。
 むろん、仕事上で厳しく冷たいのはわかる。だが、総司ともあぁした態度で接していたのなら、冷淡な関係になって当然だった。総司自身、到底心を開くことが出来なかっただろうし、何よりも、土方自身が拒絶している。
 否、総司も土方を拒絶していたのだろう。何故なら、斉藤の言葉によれば、総司はいつも冷たく孤高を守り、人を寄せ付けぬ態度だったらしいではないか。
 なら、あんな冷たく厳しい土方と、そうして己の殻にこもっている総司では、心が通いあうはずもなかった。
 今の土方から信じられぬ話だが、新撰組での彼を見た以上、信じる他なかった。


(なら、どうして、土方さんは今、私を愛してくれるの……?)


 それは当然の疑問だった。
 記憶を失う前、それ程冷たく接していた土方が、今の総司の前では、初めから優しかった。とろけそうなほど甘やかし、抱きしめ、悪戯っぽい少年のような笑顔で、総司の心をとらえたのだ。
 土方は初めから、総司が「新撰組の沖田総司」であることを、知っていた。わかっていて近づき、記憶を失っている事を知っても、離れようとしなかった。責める事もなく、ただ傍にいてくれた。それどころか、総司を包みこむように愛してくれた。
 それは、いったい何故なのか。
 どうして、彼は自分を愛してくれるのだろう──?


「……土方さん」
 食事の後、そっと呼びかけた総司に、土方は「何だ」と小首をかしげた。黙り込んでいると、苦笑し、抱きよせてくれる。
「どうした、何かおねだりか?」
 覗き込むようにして訊ねてくる土方を、総司は大きな瞳で見上げた。
「あのね……」
「何だ」
「土方さんは、私を……可愛いと思っている?」
「は?」
 土方は驚いたようだった。目を見開き、呆気にとられた表情で総司を見つめている。その前で、総司は頬を赤らめつつも、口早に云った。
「私のこと、愛してる? 好き? 可愛いと思っているから、こうして優しくしてくれるの?」
「……今更」
 ため息をつき、土方は苦笑した。総司の頬を撫でてやりながら、笑いかける。
「全部、当然のことだろうが。俺はおまえを愛しているし、好きだ。可愛いと思っている。だから、こうして傍にもいるし、強引に恋人にもした。その俺の気持ちを、おまえは疑っているのか?」
「疑っている訳じゃないけど、でも……」
「屯所で俺が云った事なら、否定しただろう。俺は隊内では立場というものがある。だが、おまえの前ではそんなしがらみも何もかも忘れ去って、心からくつろぐことが出来るんだ。おまえだけが俺の宝物だ。おまえがいなければ、俺はもう生きてゆけない……」
「……」
 土方の言葉に、総司は大きく目を見開いた。
 まさか、そこまで真摯な言葉を告げてもらえるとは思ってもいなかったのだ。喜びが胸にこみあげ、ふわっと躯があたたかくなる。
「土方さん……」
 思わず、ぎゅっと抱きついた総司に、土方は嬉しそうに笑った。腕の中の小柄な躯を抱きしめ、その髪に頬に口づけを落とす。
「愛しているよ、総司。おまえは俺の宝物だ」


 それは、真実だった。
 土方にとって、昔から、総司は掌中の珠だったのだ。
 だが、以前は、手の届かぬ遠い存在だった。あまりの誇り高さ、冷たい美しさ故に、遠くから見ている他ない存在だった。けれど、今は違う。あの頃の冷たい拒絶もなく、総司は素のままの優しく愛らしい存在だった。
 むろん、記憶があってもなくても、総司は総司だ。どちらの総司も愛おしい。優しさも、素直さも、そして、その奥にある凜とした強さも。総司の本質自体は変わらない以上、土方が総司を愛しつづけるのは当然のことだった。
 ただ、以前の総司が、その愛を受け入れなかった事は確かだ。もしも、今この瞬間にも記憶を取り戻せば、たちまち総司はその愛らしい顔に拒絶の色をうかべるだろう。
 総司が自分を受け入れてくれたのは、僥倖だと思っていた。
 別に、手練手管で総司に優しくした訳ではないのだ。素直で愛らしい総司が可愛くてたまらず、今まで全く出来なかった分、さんざん甘やかした。
 嬉しそうに笑う総司を見るたび、もっと優しくしてやりたくなった。とろけそうなほど甘やかし、幸せにうもれさせたいと願ったのだ。
 その結果、総司は彼を好いてくれた。愛してくれた。
 それは、土方に切ないほどの罪悪感を覚えさえせたが、それでも、総司が己を愛してくれたという狂おしいほどの歓喜がすべてを凌駕した。
 この愛を、この恋人を、失わぬためなら、何でもできると思ってしまうほどに……。


「土方…さん……?」
 知らず知らずのうちに、きつく抱きしめてしまっていたのだろう。
 まるで束縛するような抱擁に、総司は吐息をもらした。それに気づき、土方は慌てて腕の力を緩めた。
 総司は確かに一流の剣士だが、その躯はとても華奢で病弱なのだ。丁寧に扱ってやらなければ、壊れてしまいそうな気がする。
「すまん」
 謝る土方に、総司は小さく笑った。
「そんな謝られる事じゃないですけど。抱きしめられるの、好きだし」
「好き……?」
「はい。だって、土方さんの腕の中って、とっても居心地いいんだもの。だい好き」
 可愛らしい事を云ってくれる総司に、思わず口許をおおってしまった。
 何というか、無邪気なだけに始末におけない。この愛らしい生き物は、どこまで男を翻弄するのか。
 危うく褥に連れ戻してしまいそうになったが、この後、自分は屯所へ急ぎ戻らなければならないのだ。仕事が山積みになっている。
 それを思い、立ち上がりかけた土方は、その行為によりある事に気がついた。じっと彼を従順に見上げている可愛い恋人を、見下ろし、唇を噛みしめる。
「土方さん?」
 不思議そうに問いかける総司に、土方は吐息をもらした。
 気がすすまない。だが、避けて通れる問題ではないのだ。
「おまえ……この先どうする?」
「え?」
 総司は小首をかしげた。それに、言葉を重ねる。
「この先のことだ。おまえ自身、新撰組隊士だと知ったのだ。このまま俺と一緒に屯所へ戻るか、それとも、今の家へ戻るか。どうする……?」
「……」
 しばらくの間、総司は黙り込んでいた。じっと視線をひざ元におとし、考えこんでいる。
 やがて、顔をあげると、大きな瞳で土方を見つめた。そして、云った。
「……土方さんは、どうして欲しいの?」
「総司」
「私は土方さんのものです。だから、土方さんが望むようにしたいのです」
「俺は……」
 一瞬、躊躇った。だが、総司を見つめ返し、きっぱりと云い切る。
「今のままでいてくれ」
「……」
「男の身勝手だとわかっているが……今のままでいて欲しいんだ」
「……わかりました」
 総司はこくりと頷いた。それから、微かに眉を顰めている男に、微笑みかける。
「大丈夫。私もその方がいいと思っていましたから。こんな……何も覚えていない状態で、新撰組に戻っても、あなたの足手まといになってしまうだけだし」
「足手まといだなどと、思うものか」
「あなたはそうでも、他の人もたくさんいるし。それに、やっぱり、怖い……かな。逃げているみたいで情けないけど、でも」
 総司はぎゅっと両手を握りしめた。それに、土方は手をのばし、優しく肩を抱いてやった。そっと背を撫で、抱き寄せる。
「情けなくなんかねぇよ。怖くて当たり前だ。記憶がない以上、あそこはおまえにとって全く見知らぬ場所なんだからな」
「土方さん……」
「だが、俺がいる。いつでも、おまえの傍には俺がいるよ」
 優しく抱きしめてくれる男の腕の中、総司は身を寄せた。彼の鼓動、ぬくもりを感じる。
 それを何よりも愛しく感じながら、総司はそっと目を閉じたのだった。












 穏やかな日々が過ぎていった。
 寺子屋で生計をたて、慎ましく暮らしてゆく。時折、訪ねてきてくれる土方を待ち、彼が来てくれた日は身も心も愛される幸せな日々。
 本当に、これでいいのかという内からの声はあったが、それに、総司は耳を塞いだ。
 幸せでいたかったのだ。
 それに、新撰組で見たことは、総司に暗い影を落としていた。何よりも、まるで別人のようだった土方が怖かったのだ。
 偽りだと思いたかった。今、こうして自分を愛してくれる優しい彼こそが、本当の姿なのだと信じたかったのだ。
 冷たさも、残酷さも、厳しさも。
 何一つ感じさせぬ恋人。
 冗談を云ったり、甘い睦言を囁いたり、抱き寄せ、口づけて。蜜のように甘い一時を過させてくれる。そんな彼を、誰よりも愛していた。
 悪戯っぽい少年のような笑顔も柔らかな光をうかべる黒い瞳も。すべてから守るように総司を抱きしめてくれる、力強い腕も。
 土方が今の総司を失いたくないと願うように、総司もまた、今の彼を失いたくなかったのだ。
 それは、つかの間の幸せに過ぎなかったのだけれど……。













 その日、総司は久しぶりの外出をした。
 寺子屋でつかう墨を買うため、少し遠出をしたのだ。その帰りの事だった。
「……あ、お祭り?」
 総司は小首をかしげ、神社の境内を覗いた。賑やかな祭り囃子が鳴っている。
 ずらりと並んだ出店に、行き交う人々。子どもが歓声をあげて、総司の傍を走り抜けていった。それを何げなく目で追った総司は、ふと眉を顰めた。
「……え?」
 初めて訪れた場所であるはずだった。
 なのに、この光景に見覚えがあったのだ。その時も、自分の傍を子どもたちが駆け抜けていった。先にあるのは神社の本殿と、大きな樫の木。
 祭り囃子が鳴り響き、店先で風車がくるくる回った。





『あれが欲しいのか』


 不意に、男の声が耳奥に響いた。
 それに答える総司の声も。


『風車など……私は、子どもではありません』
『なら、何が欲しい』
『欲しいものなど……』
『何もないと云うのか』
 喉奥で低く笑った気配がした。それに嘲笑の色を見つけ、唇を噛んだ。
 そうして、問いかける。
『副長は? あなたは欲しいものがないのですか』
『俺か』
 突然の言葉に、戸惑ったようだった。だが、すぐ、男は目を伏せ、呟くように答えた。
『……あるさ』
『欲しいものが?』
『あぁ、確かにある。だが、それは決して手に入らないものだ。どんなに願っても、渇望しても……永遠に得られない』
『それは……?』
 何なのかと、聞きたかった。だが、ゆっくりと顔をあげ、自分を見つめた黒い瞳に、声を呑んでしまう。
 深く澄んだ、きれいな瞳だった。
 いつもの拒絶も冷徹さもない、ただ、彼の心を映し出すような瞳。
 そこにあるのは、切なさだった。胸が苦しくなってしまうほどの、切なく悲しい瞳。
 だが、その意味を、自分は永遠に理解することが出来ないのだ。それどころか、彼の心に近づくことさえ許されない。
 そんな立場にある自分がたまらなく悲しかった。
 総司は目を閉じると、顔を背けた。そして、そのまま踵を返すと、土方から離れるように足早に歩き出す。
 彼も追おうとはしなかった。
『……っ』
 唇を噛みしめたが、嗚咽がもれた。
 気がつけば、頬を涙がぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。それを手の甲で拭いながら、総司はほとんど駆け出すようにしてその場を離れた。
 一刻も、早くその場から離れてしまいたかった。
 この世でただ一人。
 最愛の男のもとから、早く……






「……逃げ、なくちゃ」
 そう呟いた総司は、はっと我に返った。
 逃げるとは、いったい誰から?
 否、誰かなどわかりきっている。
 ずっとずっと、子どもの頃から憧れ、求め、愛しつづけてきた唯一人の男。
 最愛の……


「土方、さん」


 声が掠れた。
 すべてが怒濤のように押し寄せてきた。
 あの日のように祭り囃子が鳴り響く。子どもの歓声、青い空、風にまわる風車の音。
 それらが一斉に総司の躯の奥まで押し寄せ、激しく揺さぶった。封じ込められていた記憶を、絶望を、慟哭を、一つ一つ呼び覚ますために。
 総司はその場に立ちつくしたまま、目を見開いた。
「……ぁ……」
 記憶の中から、最後のそれが浮かび上がってきたのだ。
 総司が覚えている、たった一つの。最後の記憶。
 それは、最愛の男だった。
 記憶を失う最後の瞬間、総司と共にいたのは、彼だったのだ。
 そして。


 静かな表情だった。
 己の腕の中へ倒れ込む総司を見ても、眉一つ顰めなかった。ただ、静かな表情で見下ろしているだけだ。
 それを飲ませた以上、こうなる事はわかっていたのだと。
 ぼんやり霞んだ視界の中、ひらりと男が手をひらめかせた。深く澄んだ黒い瞳が総司を見つめる。


『……忘れろ』


 低い声が囁いた。
 まるで、呪文のように。否、それこそ、まさに呪文だったのだ。
 あの薬も、囁きも、何もかも。



『すべて……忘れろ』


 男は、総司の記憶を奪った。
 名だけを残し、そのすべてを奪い去ったのだ。
 容赦なく、残酷に。




 総司はかたかたと躯中が震え出すのを感じた。
 信じられぬ、だが、突きつけられた酷い真実に、叫びだしそうになる。
 男は、彼だった。
 この世でただ一人、子どもの頃から愛しつづけてきた男。その愛する彼こそが、すべての記憶を奪ったのだ。
 総司はふらふらと歩き出し、神社の物陰で坐り込んだ。もう立っている事さえ出来なかったのだ。その場に蹲り、両手で己の肩を抱きしめる。
 信じられない、信じたくない。こんなこと、思い出したくなかった。
 最愛の男からの裏切りなど……!


「……土方さん、土方さん……土方…さん……っ」


 縋るように、助けを求めるように呼びつづける総司の声は、やがて、風の中にとけ消えた。
























とうとう総司が記憶を取り戻しました。どんどん展開していきます。お遊び妄想なので、薬のことはかるーくスルーしてやって下さいませね。