総司はそっと周囲を見回した。
裏木戸から入ったため、人気はない。樹木の陰で、斉藤が「早く」と合図しており、総司は慌てて庭を横切った。
広い屯所だった。
西本願寺を借りていると聞いていたが、来たことはなかったので、これ程広いとは思わなかった。なるほど、これならこっそり入ってしまってもばれない。むろん、それには手引きする者、それも幹部がいてこその話だった。
斉藤の話では、幹部しか知らない裏口らしいのだ。それもごく少数に限られている。むろん、総司も前は知っていたのだろうが、今の記憶には全くない。
総司は屯所の中へ無事入り込むと、物珍しげに周囲を見回した。
大勢の隊士たちがいるはずだが、辺りに人気はなかった。斉藤に聞くと、皆、稽古や巡察に出ているらしい。
斉藤に案内され、総司は自分が使っていたという部屋へ向った。中庭に面した個室だった。
「ここが?」
入った総司は、ちょっと驚いた。
部屋の中はきちんと整えられていた。誰かが使っている気配はないが、空き部屋という感じもしない。文机の上には埃一つなく、行灯の油もきちんと足されてあった。
「副長が整えさせているみたいだ」
「え、土方さんが?」
「おまえがいつ戻ってきてもいいようにと、思っているんじゃないかな」
「……」
斉藤の言葉に、総司は黙り込んでしまった。
土方は、総司をどう思っていたのだろう。
彼にとって、総司はいったいどんな存在だったのか。
(あの人にとって私は……そして、私にとって土方さんは……)
記憶を取り戻さない限り、とけない謎だと思った。
そのためにも、危険を顧みず、ここへ来たのだから。実際、土方に見つかった時のことを考えると、身が竦んだ。いつも自分には優しい彼だが、独占欲は異常なほど強いのだ。こんな勝手な行動、怒らないはずがない。
それに、屯所などで逢えば、記憶が戻っていてもいなくても、冷たい関係に戻ってしまう気がした。それが何よりも怖い。
斉藤は急用が出来たらしく、「ここを絶対に出るなよ」と云って、総司を部屋に残し出ていった。それを見送り、唇を噛みしめる。
何も思い出さなかった。この部屋自体も、懐かしいとさえ思わない。
あまり部屋にいなかったからなのか、それとも、やはり自分がここにいたというのは嘘なのか。
「斉藤さんが嘘ついているとは思わないけど、でも、信じられないってのも、本当なんだもの」
はぁっとため息をつき、総司は障子をそっと開いた。
とたん、どきりとした。
庭をはさんだ向こう側の廊下を、土方が歩いてゆく処だったのだ。傍らの隊士らしい男と会話をかわしている。
だが、その端正な顔にある冷徹な表情に、息を呑んだ。
相手を見据える鋭い瞳。
総司が聞かされた事もない、冷ややかな低い声。
そこにいるのは、京中で恐れられる新撰組副長だった。
いつも、総司を愛してくれる恋人ではない。
(……土方さん)
総司は目を見開いた。
自分に逢いに来る時、土方はいつも優しく微笑んでいた。包みこむように総司を甘やかし、愛してくれる。
なのに、今そこで隊士と言葉を交わしている彼は、まるで別人だった。恋どころか、感情さえないように見えてしまう。
それとも、自分の元へ来ている時の彼こそが、偽りなのだろうか。総司を手にいれるため、優しく振る舞っているのか。
「……違うもの」
総司はふるりと首をふった。
自分を愛してくれる、彼の言葉。彼の笑顔。
それが偽りなんて、思いたくもなかった。そんなことを考えるなど、彼に対して酷すぎる。
でも、なら、土方さんの本当はどこにあるの?
本当の土方さんは、いったい……
突然、怖くなった。
真実を知ることが、怖くなってしまったのだ。
今なら未だ間にあうはずだった。ここから逃げ出して、あの家へ帰ってしまえばいい。そうして、また訪れてきてくれる土方を、何もなかったように迎え、優しく愛される日々を過せばいいのだ。
そうすれば、土方の真実も知らないで済む。
臆病だと思った。ちゃんと知ろうと思ったはずなのに、愛する男の冷たい表情を見ただけで、こんなにも不安になってしまうなんて。
だが、それはもしかしたら、失った記憶に起因しているのかもしれなかった。土方の冷たい表情は、自分の中にある何かを呼び覚ますのだ。不安でたまらなくなってしまうのだ。
体中が震えた。
早く、早く。
ここから逃げなくちゃ。
そんな衝動に駆られ、総司は部屋から抜け出した。辺りに人気はない。
それを確かめながら廊下を音を忍ばせ小走りに行った。だが、あと少しという処だった。前方から人が来るのを感じる。
「!」
慌てて傍の部屋に滑り込んだ。幸い、空き部屋だ。
障子を閉め、息をひそめていると、足音はすぐ傍を通りすぎた。だが、後ろから声をかけられ、立ち止まる。
「歳!」
親しげな男の声だった。
男はそう呼び、誰かを呼びとめたようだ。それに、相手が答えた。
「何だ、近藤さん」
「……」
総司の心の臓がどきりと跳ねあがった。
紛れもなく、土方の声だった。
少し冷たい響きはあるが、それでも、だい好きな彼の声だ。聞き間違うはずがない。
近藤と呼ばれた男が訊ねた。
「歳、おまえ、探索を打ち切ったと聞いたが、本当か」
「探索?」
二人は部屋の前で話を始めた。
どうしようと、総司が身を竦ませているのに、むろんのこと気づかない。
「総司のことだ」
だが、不意に出た自分の名前に、びくりとした。
「総司を捜すのをやめたと聞いたのだ。いったい、どうして」
「皆、忙しいからな」
「しかし、総司のことだぞ。江戸からも知らせはない。脱走など考えられぬ以上、何かあったと考えるのが妥当だろう」
「もし、何かあったとしても、捨て置く他あるまい。これだけ探しても見つからないのだ。どのみち死んでいるなら、無駄なことだと思うが」
冷たい声だった。
総司のことなど関心もないと、思い知らせるような。
「歳!」
近藤は思わず激した。
「無駄なこととは何だ! おまえが総司と仲が悪かったのは知っている。だが、子どもの頃からのつきあいだろう。昔は弟のように可愛がっていたではないか。なのに」
「……昔と今は違うさ」
自嘲するような口調で、土方は呟いた。障子ごしに、彼が喉奥で低く笑ったのがわかる。
「まぁ、仕方ねぇ。近藤さんの命に従って、もう少し探させるよ」
「歳」
「それでいいだろう? 話はこれで終わりだ。あんたも今から黒谷だろう? こんな処で無駄話をしていていいのか」
「……」
近藤はまだ何か云いたげだったが、仕方ないと嘆息し、踵を返した。歩み去ってゆく。
その遠ざかる足音を聞きながら、総司はのろのろと両手で口をおおった。
(今のは、何……?)
いったい、今の会話は何だったのか。
土方の冷たい声音。
総司にむけられた、明らかな侮蔑と嘲笑。
とても愛しいものにむける言葉ではなかった。探すのが無駄だとか、どのみち死んでいるとか、信じられない言葉ばかりを並べ立てられたのだ。
斉藤の云うとおりだと思った。
自分は土方と対立していたのだ。否、対立どころか、憎まれていた。
(そう。私は土方さんに憎まれて……)
そこまで考えた時だった。
不意に、すっと障子が開かれたのだ。はっと我に返った総司は見上げたとたん、息を呑んだ。
佇んでいたのは、土方だった。
冷たい瞳がこちらを見下ろしている。
「……ぁ……」
何か云おうと思うのに、声が喉にからんだ。
怖くて、どうしたらいいかわからなくて、体中が細かく震え出す。
怯えきった表情で彼を見上げる総司に、土方は唇の端をつりあげた。
「こんな処にいるとはな……油断も隙もねぇ」
「土方…さん……」
後ろ手に障子を閉め、ゆっくりと歩み寄ってくる土方に、総司はいやいやと首をふった。必死になって手探りで、坐りこんだまま後ずさりする。そんな総司に、土方は悠然と近づくと、目の前に跪いた。
手をあげた土方に、叩かれる!と、総司は思わず両腕で己を庇ってしまった。
「……」
土方は思わず苦笑した。
小動物のように身を震わせ、ぎゅっと目を閉じている様は可憐で、妙に男の嗜虐心と庇護欲をかきたてる。相反する感情は男の欲と繋がっていた。今すぐ貪るように抱いてしまいたくなる。
この場で小柄な躯を開かせ、己のものを受け入れさせたら、どれ程の快楽だろう?
しばらく黙って見つめた後、土方は短く息を吐いた。そのまま総司の頬にふれ、するりと首筋へ指さきをすべらせる。
「……っ」
首を絞められるとでも思ったのか、喘ぎ、身を捩る総司に目を細め、耳もとに唇を寄せた。低い声で囁きかける。
「……あまり俺を煽るな」
「土方…さん」
「おまえが抵抗すれば、その分だけ俺は獣になっちまう。総司……おまえを壊したくねぇんだ」
「……」
目を開いた総司が、怯えたように彼を見上げた。桜色の唇が震え、その瞳は微かに潤んでいる。
その表情こそが男を煽るのだと知らぬ幼い色香に、土方は短く舌打ちした。男の怒りを煽ったと思ったのか、びくりと身を竦める総司が可愛い。
土方はたまらず総司の細い躯を両腕に抱きあげた。
今、自分たちがいる部屋は空き部屋とはいえ、廊下に面している。いつ誰が通りかかるか、わからなかった。そんな処で総司を抱けるはずもない。
奥の襖を開き、幾つかの部屋を通り抜けた。
むろん、土方の頭の中には、この屯所の間取りはしっかり入っている。何度か廊下も通ったが、幸いにして人と逢わぬまま副長の公務室に辿りついた。ここならば、滅多なことでは人も訪れず、また、付近に人がいる事もない。
土方は総司を部屋の中へ入れると、障子を閉めた。まだ怯えた様子で彼を見上げる総司を、障子を背にしたまま見下ろす。
何故、ここに来たのかと思った。
いったい誰の手引きで、ここへ忍びこむことが出来たのか。
それを先に追究するべきだと理性ではわかっていたが、感情が先にたった。腹の底から、熱い衝動が突き上げる。
……抱きたい。
おまえを抱いてしまいたい。
ゆっくりと手をのばし、総司の細い躯を引き寄せた。腕の中に引き込み、きつく抱きしめる。
頬にふれるなめらかな感触に、手のひらに感じる体温の高さ、華奢な肢体に、欲情した。思わず喉を鳴らしてしまう。
それに、総司がびくんと身を震わせた。小さな声で問いかけてくる。
「土方…さん……?」
「……」
「怒ってる? こんな処に来て……怒っていますよね。ごめんなさい」
可愛らしく謝ってくる総司がいとけなく、また、愛おしかった。それに、まだこれは自分のものだと思う。まだ、この手の中にいてくれる、素直で可愛い恋人なのだ。
俺の罪など知らない、無邪気な総司。
「愛しているよ」
いきなりそう囁いた土方に、総司は目を見開いた。だが、彼の怒りがとけたと思ったのか、ほっとしたように笑う。
こくりと頷き、男の背に両手をまわした。
「私も……私も、愛しています」
「総司」
「だから、ね? 許して……ごめんなさい」
「許さないと云ったら?」
どこか揶揄するような口調で云ってやると、総司は困惑したようだった。きゅっと唇を噛みしめ、瞳を潤ませている。
それに、土方はくすっと笑い、総司の躯をゆっくりと畳の上に横たわらせた。のしかかってきた土方に、驚いたように息を呑む総司が可愛い。
「な…に……?」
「お仕置きだ」
「えっ?」
「こんな処へ勝手に忍び込んだおまえへの、お仕置きだよ。きっちり躾けてやる」
「い、いや……っ」
男の声音が獣じみた欲を孕んでいるのを感じたのか、総司が怯えた表情になった。
こんな処で抱かれるなど、思ってもみなかったのだろう。必死に逃れようと上へずりあがる。だが、それをすぐさま乱暴に引き戻した。
土方は抗いかけた細い両手首を一纏めにして掴み、軽々と押え込んだ。
完成された大人の男である土方に対し、総司は未だ少年のように華奢で小柄な躯つきだ。体格の差は歴然としていた。
総司は首をふり、涙を目にうかべた。
「やだ! やめて……土方さん」
「云っただろ? 仕置きだ、躾けだって」
「だ、だって……こんな処で、やだ。怖い……っ」
「怖い?」
土方は口角をあげた。顔を近づけ、深々と瞳を覗き込む。総司の綺麗な瞳に己を映るのを確かめながら、訊ねかけた。
「俺が……怖いのか?」
「……っ」
総司は一瞬、息を呑んだ。
怖い。
だが、それは今ここにいる土方の冷たさ故だった。何も怒られたからではない。新撰組という場所で副長として振る舞う土方が、どうしようもなく怖かったのだ。
その鋭いまなざしも、厳しい口調も、威圧感も、何もかもが違う男のようで、総司はぶるりと体を震わせた。
とたん、頭の中で警鐘が鳴った。
彼はだめ。危険だから。
早く早く、ここから逃げ出して。
「いや……!」
総司は叫び、必死に抵抗した。
無我夢中で暴れ、掴まれた手で爪をたて、男の体を膝で何度も蹴ってやる。あまつさえ、上半身を起こし、彼の着物や肌に噛みついた。
その暴れように、さすがの土方も驚いたようだった。まさか、ここまで抵抗されると思っていなかったのだろう。
「ちょっ……総司」
「やだ! 離してっ、いやあ!」
「総司、総司、落ちつけ」
その手を離した土方は、すぐさま起き上がろうとした総司を両腕で抱きすくめた。だが、それは先程までと違い、やんわりとした抱擁だ。それだけでなく、土方は総司の耳もとに唇を寄せると、優しい声で囁きかけた。
「すまん」
「や! ぃ、や……っ」
「総司、怖がらせてすまなかった。悪かった」
なめらかな低い声で何度も囁きかけられ、背を柔らかく撫でられた。額に、頬に、甘い口づけが降らされる。
それに、男の腕の中で暴れていた総司の動きがとまった。はぁっはぁっと息をして、まだ不安に躯を震わせているが、それでも、突っ張っていた手足から力が抜ける。
まるで、人になかなか懐かない仔猫のようだと思いつつ、土方はぎゅっと抱きしめた。
「本当に、ごめんな。総司……酷い事をした。もうあんな事はしねぇよ」
「……土方…さ……っ」
「あぁ、怖かったな。びっくりしたな。おまえを怖がらせた俺が悪かった……総司、許してくれ」
「……」
動悸がまだおさまっていなかったが、総司は何度も囁きかけてくれる男に、おずおずと顔をあげた。興奮に頬が火照り、視界も霞んでいる。だが、男の顔はちゃんと見えた。そこいるのは、いつもの彼だった。
誰よりも総司を愛してくれる、だい好きな恋人だ。
「……土方…さん……!」
安堵の吐息とともに、総司は土方の躯に抱きついた。両手を背にまわし、ぎゅっとしがみつく。それに、土方もほっとしたようだった。優しく抱きとめ、髪に口づけてくれる。
「総司、愛しているよ」
「うん……」
「いい子だ、総司……可愛いな」
いつもの彼となんら変わらない囁きを聞きながら、総司は目を閉じた。そっと彼の胸もとで躯を丸める。それに、土方がくすっと笑った気配がした。優しく抱きしめられ、愛しているよと何度も囁きかけてくれる。
それが心地よくて、幸せで。
だが、一方で、わかっていた。
頭の中で鳴りつづける警鐘。
彼の真を見てしまった、恐れ。
それから目をそらしつづけることは、もう出来ないのだ。
限界まで、来てしまっているのかもしれない。
(土方さん……)
愛する男が、世界中の誰よりも恐ろしい。
その紛れもない事実に、総司はそっと唇を噛みしめた。
次、お褥シーンがあります。苦手な方は避けてやって下さいね。