土方は、思わず総司を見つめた。
取り戻したくないどころか、もはや、記憶を取り戻してしまったのではないだろうか。
今、ここにいる総司は、数日前、土方が抱いた愛らしく素直な恋人ではない。
あの頃の冷たい氷のような若者なのではないのか。
彼の罪も、その所業もすべて知っている───
「……総司」
喉が酷く乾いた。
そのため、呼びかける声も掠れてしまう。
それ程、己は恐れているのかと自嘲しつつ、土方は総司の名を呼んだ。
だが、そんな彼の様子が、逆に総司の気持ちをひいたようだった。はっとしたように顔をあげると、急に、瞳を潤ませる。
え? と思った時には、総司は土方の膝もとに縋りつくように、抱きついていた。彼の腰に両手をまわしてしがみつき、その熱くて細い躯を擦りよせてくる。
「ごめんなさいっ」
いきなり謝られ、いくら鋭敏な土方でもついていけなかった。戸惑ったまま、総司を見下ろす。
総司はふるふると首をふった。
「ごめんなさい。あなたにそんな顔させて……でも、大丈夫だから」
「?」
「あなたを好きってこと。記憶を取り戻しても、そうでなくても、ずっとずっと、土方さんだけが好き。それは絶対に変わらないから」
「……」
「だから、お願い。そんな心配そうな顔をしないで。ね? 土方さん」
一途に彼だけを見つめ、愛らしく云ってくれる総司に、思わず安堵の吐息がもれた。
(まだ大丈夫という訳か……)
彼の罪はまだ、暴かれないのだ。
いつかは、断罪されるだろう。裁きの日が訪れぬはずはないのだ。
だが、できることなら、少しでも遠くありたかった。
身勝手な話だとわかってはいるが、それでも、この腕の中にいる総司を、少しでも長く抱きしめていたい。
この幸せな一時を失いたくない。
(俺も……情けねぇな)
新撰組副長として畏怖される彼のこんな様を、人が見れば驚くだろう。
だが、それも総司だけにだった。総司だけが彼の心をこんなにも強く揺さぶるのだ。
しばらくの間、物思いにふけっていたらしい。
気がつけば、総司が不安そうに見上げていた。
「土方さん……?」
「……あぁ」
総司には気づかれたくなかった。自分の想いのすべて。愛しているということだけを、今は信じてほしいのだ。
男の身勝手さと思いつつ、土方は表情をあらため、総司の方へ向きなおった。そっと小柄な躯を膝上に抱きあげてやりながら、笑いかける。
「俺も同じだ」
なめらかな白い頬に口づけをおとし、囁きかけた。
「おまえが記憶を取り戻しても、取り戻さなくても……愛している。おまえだけを、誰よりも愛しているよ」
「土方さん……」
「それに、まぁ……取り戻したくねぇなら、無理に思い出さなくていい。どのみち、俺はおまえの傍にいる」
「でも……」
思わず口ごもってしまった。
土方は、自分の過去と関わりのある男なのだ。むろん、あの斉藤の話を信じるならだが。
総司は完全には、斉藤の言葉を信じていなかった。
何しろ、全く見知らぬ男からの話なのだ。いきなり信じろという方が無理だった。ただ、一方で完全に否定できないことも確かなのだ。
土方の態度、言葉、あの伊東という男。
総司をとりまく様々なことが、過去を呼び覚まそうとしていた。
「あの、ね。土方さん」
いっそ話してしまおうかと思った。斉藤という男から聞いたすべてを。
だが、こちらを見つめる深く澄んだ黒い瞳にあったとたん、何も云えなくなってしまった。
(土方さんは、何かを恐れている……)
そう強く感じた。
何かが変わってしまう。今、ここで斉藤の事を告げるのは、こんなにも愛してくれる優しい彼への裏切りだと。罪深いことなのだと、そう強く感じたのだ。
「……」
総司は黙ったまま男の胸もとに凭れかかった。肩口に頭を凭せかけ、そっと目を伏せる。
そんな総司に、土方も何も云わなかった。ただ黙ったまま優しく抱き寄せ、頬を髪をしなやかな指さきで撫でてくれる。
(土方さん、私を離さないで)
男のぬくもりを感じながら、総司はそっと目を閉じた。
斉藤が再び訪ねてきたのは、その数日後のことだった。
近くにきたついでと云いながら、総司を心配してのことだとよくわかっていた。きっと、余程親しい友人だったのだろう。
だが、だからといって、彼の言葉をすべて信じた訳ではなかった。
「つまり、信じられないということか?」
斉藤はちょっと切なそうな表情で、云った。
それに、総司はお土産の水菓子を口にはこびながら、頷いた。
「私にとって、あなたは見知らぬ人なんですよ。なのに、いきなり信じろなんて云われても」
「じゃあ、全部嘘だと思っている訳?」
「そうじゃありませんけど。でも、私が新撰組隊士ということ自体、正直な話、信じられないし……土方さんと私が仲違いしたりなんて、本当に?って思っちゃうし」
「……全部嘘だと思っているんじゃないか」
「違いますってば。でもね、斉藤さんが話す私の性格も全然違うでしょ。そこからして……」
「けど、おまえは総司だ。それは間違いない事だろう?」
「はぁ」
気の抜けるような返事をした総司は、縁側から青空を見上げた。青い空に、ぽっかりと白い雲がうかんでいる。
それをしばらく眺めていたが、やがて、小さな声で云った。
「このままじゃ、駄目なんですか?」
「え?」
「このまま、こうして何も思い出さず暮らしていくこと……それは、許されないの?」
「それ、は……」
斉藤は言葉を詰まらせてしまった。
確かに、そうなのだ。
今の総司を見ると、いかに前の総司が無理をしていたか、よくわかる。
いつも凜と美しく、誰よりも誇り高かった総司。
だが、本当は、そんな冷たく美しい若者の奥に、純真で脆い、子どものような総司がかくれていたのだ。
それが記憶を失ったことで自由になり、今、こうして明るく素直に笑っている。土方がそっとしておこうとしたのも、当然だと思った。
(だが……それで、本当にいいのか?)
斉藤は視線をおとし、唇を噛みしめた。
このままであれば、いい。だが、いつか記憶を取り戻したら?
そう。記憶を取り戻した時、総司は今の状況に納得するだろうか。あの誇り高い総司が、仲違いしたはずの土方と睦みあうなど、そんな事を許すはずもない。
ただ、あの頃の総司自身の気持ちは、わからなかった。
友人として傍にはあったが、総司が誰を想っていたのか、また、何を考えていたのか、その心の奥底までは掴めていなかった。
総司は山南を頼り、相談していたようだった。だからこそ、山南の脱走の時、総司にしては珍しく感情を露にしていた。随分と近藤や土方に、山南の助命を懇願したようだ。
だが、それも虚しく切腹となってしまった後は、ひどく冷たい瞳ですべてを眺めるようになった。
あの頃から、総司は変わっていった。それまでは笑みをみせる事もあったのに、その綺麗な顔から表情は失われた。
公の場で土方にも逆らうようになり、口論をくり返し、挙げ句、伊東の元へ走った。
伊東と念兄弟の関係であったとは思わない。伊東も年下の友人として総司を遇していたし、総司も同じくだった。
何故、伊東なのかと斉藤が一度訊ねた事がある。
その時、総司は微かな笑みをうかべ、答えたのだ。
「土方さ……副長と敵対しているから、ですね」
「副長と?」
聞き返した斉藤に、ゆっくりと頷いた。
「そう。副長の右隣には二度と立ちたくなかった。だから、それを周囲にも自分にも思い知らせるために、伊東先生のもとへ来たのです」
「おまえ、そんなに副長のやり方が嫌なのか? 確かに、あの人は厳しい。けど、それは隊のためだと、おまえだってよくわかっていたはずなのに」
「わかっていた?」
総司の声音が冷えた。
「私が何をわかっていたと? 土方さんはいつでも、私を都合のいい駒として扱っていた。自分の思うがままになる駒としてね。それでも、私はあの人に従い続けたのです。理解してくれていると思っていたから。私の辛さも悲しみも、わかっていてくれるはず……そう信じていたから」
「……」
「でも、そんなの偽りだった。あの人は私のことなど、考えた事もない。私が泣いても、傷ついても、見向きもしないのです。当然だとわかっています。私など、あの人にとっては隊士の一人、駒の一つにしか過ぎない。でも、私は……私は違うのに……!」
珍しく激した総司に、斉藤は息を呑んだ。
一瞬、いつも冷たく覆われた総司の心の奥底にある何かに、ふれた気がした。だが、それは一瞬のことだった。
総司は目を伏せると、唇を噛んだ。激した己を恥じているようだった。
そのまま踵を返し、歩み去ろうとする。
「総司」
思わず、斉藤は総司の腕を掴んだ。ふり返った総司が、冷たく澄んだ瞳で彼を見上げる。
それに息づまるようなものを感じつつ、斉藤は言葉をつづけた。
「伊東先生は、いつか隊を割るぞ。その時、おまえはついてゆくのか」
「さぁ……」
総司は僅かに小首をかしげた。
「わかりません。でも、伊東先生が出ていかれるなら……」
「総司」
「先のことなど、わからないでしょう?」
そう聞き返した総司は、斉藤の手を丁寧にのけ、歩み去っていった。遠ざかる細い背を、斉藤はただ見つめるより他なかったのだ。
結局、伊東が隊を割る前に、総司は行方をくらましたのだが……
「斉藤さん?」
「!」
不意にかけられた声に、斉藤は我に返った。
はっとして見まわせば、そこは穏やかな昼下がり。庭先で可愛い花が揺れる、総司の家の縁側だ。
視線を戻すと、総司が大きな瞳で不思議そうに彼を見つめていた。
「? どうしたのです」
「い、いや」
「ぼーっとして。私の云った言葉で、そんなに深く考えこんじゃったんですか。真面目な人ですねー」
「……」
誰のせいだ、誰のっ! と叫びたい気持ちを呑み込み、斉藤は訊ねた。
「土方さんは、やっぱりここによく来ているのか」
「はい」
総司はちょっと頬を染めた。
「最近はお仕事忙しいみたいだけど、でも、よく来てくれますよ。この間は泊まっていってくれましたし」
「何しろ念者だものなぁ」
「だから! そういうこと云わないで下さいってば」
ぷんっと頬をふくらませた総司は、水菓子をまた口にはこんだ。それから、ちょっと考え込む。
「どうした」
「あなたの話が本当なら、どうして、土方さんは私を好きになってくれたんだろうと思って」
「それは、たぶん、以前から好きだったという事じゃないのか」
「何、云っているんですか」
総司は呆れたように、斉藤を見た。
「冷たくて酷い関係だったと云ったのは、斉藤さんでしょ」
「そうだけど、でも、あの頃からオレは思っていたよ。土方さんは、総司……おまえのことを好きだったんじゃないかって。だから、強引にこじあけて欲しいとさえ、思ったし」
「強引にこじあけていたら……どうなっていたでしょうね」
「わからないよ。総司の気持ちも、よくわからないしな」
「私の気持ち? 私は……」
総司は言葉を途切れさせた。
彼と別の場所で、別の形で出逢っていたら?
子どもの頃から知っていたという、人。
兄弟のようだった関係。
私は……あの人に恋していたのだろうか?
その時、初めて思った。
知りたいと。記憶を取り戻したいと思ったのだ。
辛いだろうとは思う。土方との冷え切った関係を思い出せば、今の幸せが壊れてしまうかもしれない。
それでも、これ以上色々と推測したり、考えても仕方のない事で思い悩んだりするのは、いやだった。
土方に対しても、素直な気持ちで接することが出来なくなるかもしれない。げんに、もう土方に対して、どうして愛してくれたの? と、疑問をもち始めている。
このまま曖昧に終らせた方が楽だから、そうしようと思っていたが、それじゃいけない気がした。
でなければ、土方はずっと、あんな切ない瞳をするだろうし、自分も彼を偽りつづけなければならない。
だったら、全部思い出して、真っ正面から彼に向ってみたいと思った。
今の自分なら、出来るはずだから。
「今の私になら……」
そう呟いた総司に、斉藤は首をかしげた。
「今の?」
「そう。今の私は、前の私と違うから。ずっと……強いもの」
「……」
意味がわからないらしく、斉藤は何も答えなかった。
それは、そうだろう。
斉藤の話によると、新撰組の沖田総司は誇り高く、強く、いつも凜と美しかった。
なのに、今の明るく素直な子どものような総司の方が強いと云うのだ。ずっと総司を見てきた斉藤にすれば、納得できるはずもない。
だが、総司は、自分自身の事だからか、わかる気がした。
誇り高くて、一人戦いつづけ、冷たく美しくて。
でも、本当は……誰よりも淋しがり屋で、恋しい人に好きと告げることもできない、臆病で怖がりな子どもだったのだ。
意地っぱりで、優しくされても気づけなくて、そのくせ、他の誰よりも愛されることを求めていた。
愛されたかったのだ。
あの人に。
「斉藤さん」
あらたまった調子で呼びかけた総司に、斉藤が「何だ」と目を瞠った。
それに、しっかりした声音で云う。
「やっぱり、私、記憶を取り戻したいと思います。でないと、駄目だと思うのです。手伝ってくれますか?」
「……いいのか、本当に」
「はい。でなきゃ、土方さんも私も苦しむばかりです。こんな曖昧なままで、幸せになれるはずがない」
「……」
やはり、総司だと思った。
甘くて可愛く、子どもっぽく見えても、凜としたこの表情は総司だった。いつも戦いつづけていた総司なのだ。
「手伝うよ」
斉藤は静かに云った。
「おまえがそう心から望むなら、オレは手伝う。オレも、おまえが幸せになって欲しいから」
「私だけじゃないの。土方さんも、です」
「あ、それは別。オレ、恋敵の幸せまで願うほど、人が出来ていないから」
云ってのけた斉藤に、総司は目を見開いた。それから、「ふうん」と頷く。
あっさり流されてしまったことに、ちょっとがっくりきたが、斉藤はある提案をする事にした。
「まずは、屯所へ来てみないか?」
「え」
「おまえが住んでいた場所だ。何か思い出すかもしれないだろう?」
「……」
総司はしばらく黙った後、こくりと小さく頷いた。
いよいよ新選組屯所へ行きます。もちろん、土方さんには内緒で……さて?