ふわふわと花が揺れていた。
 総司は庭先にしゃがみこむと、それを嬉しそうに眺めた。
 以前、土方が持ってきてくれた種を蒔いていたのだが、ようやく花を咲かせたのだ。小さな花だったが、とても愛らしかった。
 そっと指さきでふれ、微笑む。
「可愛い……」
 こんな可愛い花が咲くと、あの男は知っていて買ってきたのだろうか。案外、そうかもしれないと思った。
 土方はいつも、総司が喜びそうなものを選んでくれるのだ。綺麗なもの、可愛らしいもの。
 それを受け取る時の総司の笑顔を見るのが、嬉しいのだと、また臆面もなく云うのだから、いつも頬を染めてしまうのだが。
「ご飯の用意……しなくちゃ」
 総司は小さく呟いてから、立ち上がった。
 今日、土方が訪れてくるのだ。その訪れが夕刻であるという事は、今夜、泊まってくれるのだろうか。
 そう思ったとたん、頬がかっと熱くなった。羞恥心がこみあげてしまう。


 ふたり契りを交わしてから、数日がたっていた。
 あれから土方は隊の仕事で忙しいらしく、全く逢えていなかったのだ。
 それが今朝、急に使いが来て、来るというのだから、あれこれ考えてしまっても無理はない。


「何のご飯にしようかな」
 総司はまず買い物に行こうと、外へ出た。
 のんびりと、道を歩いてゆく。その瞬間、だった。
「総司ッ!」
 突然、後ろから声をかけられた。
 驚きつつ、ふり返る。そのとたん、目の前にせまった男にぎゅーっと抱きしめられ、総司は目を見開いた。


(な、何っ!?)


 幾ら土方と情を交わしたとはいえ、総司は男だ。道ばたで、いきなり男に抱きしめられるなど、信じられない話だった。
「な、何……するの!」
 慌ててもぎ離そうとする総司に、男は全く構わなかった。ぎゅうぎゅう抱きしめ、「よかった!」とか「死んだかと思っていたのに!」とか、感極まった様子で云っている。
「ちょっと、離して!」
 ようやく一歩離れた総司は、目の前の不作法男を睨みつけた。
「急に、何なんですか。あなたはいったい……」
「ご、ごめん」
 怒った総司に、男は我に返ったようだった。
「びっくりして、嬉しくて、つい……すまない、総司」
「……」
 馴れ馴れしく呼びかけてくる男を、総司はまじまじと眺めた。
 若いが、身なりもよい武士だ。ちょっとつり上がった目が印象的で、すっきりした顔だちをしている。とても、変人には見えなかった。
「もしかして、私の知り合い?」
 先日の伊東という男の事もあるのだ。
 記憶を失う前の知り合いかと思い、総司は躊躇いがちに訊ねた。それに、男が「え」と目を見開く。
 総司は仕方なく説明をした。
「私、記憶がないんですよ。比叡の方で倒れていて、名前以外は覚えていないという訳です」
「倒れていた?……って、大丈夫なのか!?」
「大丈夫じゃないから、記憶失ったんです。とにかく、私はあなたの事を知りません。お名前は?」
「……斉藤…一……」
「斉藤さん。あなたは私とどういう関係ですか。いきなり抱きつくなんて、念兄弟か何か?」
「念兄弟ってまさか! そんな事になったら、オレ、土方さんに殺されるよ」
「……土方さん?」
 いきなり出てきた恋人の名前に、総司は息を呑んだ。
「あなた、土方さんを知っているのですか? 知り合いなの?」
「え、そりゃ、土方さんは新撰組の副長だし」
「それは知っています。でも、あなたは?」
「……一応、三番隊組長やっている」
「三番隊? それって、つまり、新撰組の人ってこと?」
「まぁ、そういう事になるけど……って、総司」
 斉藤はため息をつくと、しみじみと総司の愛らしい顔を眺めた。
「本当に、何も覚えてないんだな」
「だーかーら、さっきから何度も云ってるでしょ! とにかく、斉藤さんでしたっけ? 色々聞きたい事もあるし、私の家へ来て下さい」
「いいのか?」
「立ち話じゃ落ち着きません」
 きっぱり断言すると、総司はくるりと踵を返した。
 さっさと歩いて家へ戻り、斉藤を縁側にあげた。座布団を敷いて、お茶を出し、それから、さぁ全部聞かせてもらいましょう!と意気込んで向き直ると、斉藤は妙な表情で総司を眺めていた。
「? 何ですか」
「……いや、変わったなぁと思って」
「変わったって、私が?」
「あぁ」
 頷いた斉藤に、総司は小首をかしげた。
 変わったと云われても、前の自分自身を知らないのだから、どうしようもない。
「とりあえず、教えて下さい。私について、知っていることを全部」
「新撰組一番隊組長、師範代筆頭。それがおまえの地位だ」
「……え」
 総司は目を見開いた。


 幾らかの関係はあると思っていたが、まさか、自分自身が新撰組の隊士だとは思っていなかった。
 何しろ、新撰組は武装集団だ。
 なのに、剣を握った事もない自分が? と、信じられぬ思いだった。


「私、刀なんて使えませんよ」
「おまえは、京でも指折りの剣士だ。このオレでも叶わない」
「……」
「江戸の試衛館という道場で幼少の頃から鍛錬し、そのまま京へのぼり新撰組の一員となった。ちなみに、今の新撰組局長近藤さんは、試衛館の道場主、おまえの師匠だ。土方さんは近藤さんの盟友で、おまえの……兄代りかな」
 妙に言葉を濁した斉藤に、総司はすぐさま気がついた。
 何かあるのだ。
 土方と総司の間には、兄代りなどという言葉では片付けられない何かがあったに違いない。
「斉藤さん」
 総司は膝でにじり寄り、大きな瞳でじっと見つめた。
「正直に教えて下さい。私と土方さんは、どういう関係だったのですか?」
「どういう関係って……」
 戸惑ったように呟いた斉藤は、だが、そこでようやく気づいたようだった。え? と目を見開く。
「ちょっと待て。何で、記憶のないおまえが土方さんの事を知っているんだ?」
「だって、土方さんとは少し前に逢って、それから……その……」
 総司はつい口ごもってしまった。


 何しろ、総司にとって、斉藤は初対面だ。
 その男に、いきなり、彼は恋人なのだと云える訳がない。


 だが、斉藤は勘のいい男だった。
 頬をあからめている総司の様子に、すぐさま、ぴんと来た。
「えっ! 手だされちゃった訳!?」
 いきなり大声で断言され、総司は思わず立ち上がった。顔を真っ赤にして、両手をふり回す。
「て、手だされちゃったって……な、何を云っているんですか!」
「だから、土方さんと契りを結んだって事だろ? 念兄弟の仲に」
「わぁ、そういうこと大声で云わないで下さいっ」
 大慌てで叫んだ総司に、斉藤は口を閉ざした。だが、面白くなさそうな顔になっている。
 むうと腕を組み、唸った。
「なるほどなぁ。土方さん、先手必勝だった訳か。まぁ、今の総司だったら、出したくなる気持ちもわかるよな」
「何ですか、それ」
「だから、前の総司じゃ、到底手を出せなかったって事だよ」
「そんなに……違うんですか」
 総司は不安げな表情で、斉藤を見つめた。それに、斉藤は肩をすくめた。
「全然違うよ。前の総司は……その、なんていうか大人びていたし、冷たくて誇り高くて、いつも人を寄せつけなかった。なんか目に見えない壁がはり巡らされているみたいで、氷の姫君みたいな処があったから」
「氷の姫君……」
「オレも土方さんも、そんなおまえを大切に思っていたけれど、遠くから見守るばかりだった。綺麗で一人戦いつづけていて、でも、その姿がたまらなく痛々しくて……オレは見ていて辛くて堪らなかった。あまりの状況に、いっそ……」
 斉藤は目を伏せ、ほろ苦く笑った。
「土方さんが強引な手段に出て、おまえの心をこじ開けたらいい。そんな事さえ、思っていたんだ」
「でも、そうならなかったのでしょう? 土方さんは何もしなかった。そうじゃないのですか」
「あぁ」
 ため息をつき、斉藤は言葉をつづけた。
「色んな事があって、おまえは土方さんから離れていった。次第に隊の中で対立するようになって、その挙げ句……」
「その挙げ句?」
 何の躊躇いもなく訊ねる総司を、斉藤はまっすぐ見つめた。鳶色の瞳が、どこか哀しげな切ない表情をうかべた。
 しばらくの間、沈黙が落ちた。だが、誤魔化しきれないと思ったのだろう。
 やがて、斉藤は静かな声で云った。
「総司、おまえは」
「……」
「土方さんを拒み……伊東先生のもとへ走ったんだ」













 土方が訪れてきたのは、その日の夕方だった。
 ぼうっと部屋の中で坐り込んでいた総司は、彼の声に、はっと我に返った。何も考えることさえ出来ず、ただ衝動のまま駆け出す。
 框に腰かけ、草履を脱いでいた土方に駆け寄り、その背中に飛びついた。
「! 総司……?」
 常ならぬ様子に、土方は驚き、ふり返った。
「どうした、何かあったのか」
「……土方さん、土方さん……っ」
「総司、本当にどうしたんだ」
 困惑した土方は、躯の向きをかえると、恋人の小柄な躯を両腕で抱きすくめた。すっぽりと包みこむように腕の中へおさめてやり、優しく声をかける。
「俺の訪れが遅くなって、不安だったのか?」
「……うん」
 総司は、こくりと頷いた。


 本当はそうではなかった。
 だが、一因である事も確かだったのだ。
 早く彼に逢いたかった。逢って、確かめたかった。
 自分と彼の関係を。


 斉藤から聞いた話は、総司にとって衝撃だった。
 土方と冷淡な関係だったというだけでも驚きなのに、挙げ句、敵対している人物の元へ走ったというのだ。
 伊東のという名は、総司も覚えていた。先日、町中で声をかけてきた人だ。
 あの時、懐かしいのに、怖いと思ったのは、その土方とのやり取りや対立、もめ事が心のどこかにあったからだろうか。
 総司は伊東と念者の契りを結んではいないようだったが、それでも、周囲から見れば、念兄弟そのものだった。隊の中で、土方との対立が高まっていくのとは逆に、伊東との仲が深まっていったのだという。
 ところが、そんなある日、突然、総司が行方をくらませた。まるで、かき消されるように、隊から姿を消したのだ。
 脱走という事は全く考慮されなかった。書き置きもなかったし、総司がそんな事をするはずがないと、局長の近藤が断言したのだ。
 斬られたか、どこかに拘束されているか。
 すぐさま探索の手があちこちに放たれたが、とうとう見つからなかった。もはや、望みは薄いとさえ云われていたのだ。
 だが、総司は生きていた。
 記憶を失い、京へ再び戻ってきたのだ。


(昔のことなんて聞きたくない……)


 総司は土方の胸もとに身を寄せ、ぎゅっとしがみついた。


 確かめたいのは、今のことなのだ。
 今の自分と彼の関係は、夢や幻ではないと、確かめたかった。
 斉藤に聞いた、信じられぬほど冷たくて酷い関係などより、今の自分たちの関係の方が本当のこと、真実なのだと、感じたかったのだ。
 躯ごと、心ごと、教えてほしかったのだ。
 何よりも、愛する彼自身に。


「総司……すまん」
 だが、そんな総司の気持ちを知る由もない土方は、申し訳なさそうな表情になった。そっと額に口づけを落としてくれる。
「不安にさせて悪かったな。仕事がたてこんで、ようやく抜け出してきたんだ……すまない」
「……ううん」
 総司は小さく首をふった。
「ごめんなさい。私の方こそ、子どもみたいに」
「そういう処が可愛いんだよ」
 土方は切れの長い目で笑ってみせると、総司の細い躯を両腕でたて抱きにした。そのまま部屋の中へ入ってゆく。
 それこそ子どものような扱いに、総司は頬を染めたが、抗いはしなかった。まるで婚儀をあげたばかりの男女のような、甘い蜜の関係。それこそ、今の自分たちでしかありえぬ話だった。なら、その蜜を思いきり味わいたい。
 いつか、奪われる夢かもしれないのだから。


(この人の腕の中にいられるのも、今の私のままいられるのも……)


 胸の奥がきつく痛み、総司は思わずぎゅっと目を閉じた。
 それに、土方が眉を顰め、覗き込んでくる。
「大丈夫か、躯の調子でも悪いんじゃねぇだろうな」
「それはないけど、でも、お腹……すいちゃったかも」
「何だ、晩飯のせいか。まだ食ってねぇのか」
「だって、土方さんと食べたかったから」
 そう素直に答えた総司に、土方は一瞬目を見開いた。それから、ぱっと嬉しそうな笑顔になると、可愛くてたまらないという様子で、総司の頬や首筋に口づけた。
「本当に、おまえは可愛いな。可愛くて可愛くて、どうにかなっちまいそうだ」
「土方さん」
「愛してるよ、総司。おまえが誰よりも大切だ」
 そう心をこめて囁いてくれる土方に、総司は小さく唇を噛んだ。だが、男の肩に顔をうずめると、こくりと頷いてみせる。


 幸せな幸せな総司。
 でも、それはいつまで?
 いつまで続く、幸せなの?


 抱きしめてくれる男の腕の中、総司はひたひたと歩み寄ってくる不安を、確かに感じていた。


















「……記憶、取り戻したくないのです」
 突然、総司がそんな事を云いだしたのは、食事も済ませ、ふたり褥に入ろうとした時のことだった。
 土方は抱きよせようとしていた手をとめ、え? と目を見開いた。それに、総司は褥の上に坐ったまま、大きな瞳で彼を見上げる。
「私の記憶、ずっと戻らない方がいい」
「総司……」
「この頃、そう……思ってしまうのです」
 細い指さきが、ぎゅっと握りしめられた。
「今が一番幸せだから。あなたと逢って……好いてもらって、その、私もあなたを好きになって……本当に幸せだから」
 総司はそのまま長い睫毛を伏せてしまった。
 愛らしい横顔を見せたまま、じっと俯いている。
 その様子に、土方は形のよい眉を顰めた。思わず、探るような視線をむけてしまう。


(急に、こんな事を云い出すなど……)


 やはり、何かあったとしか思えなかった。
 今まで総司は自分に過去の記憶がない事を、あまり大きく考えていないようだった。傍で見ている土方が呆れるほど、その事に関して無頓着だったのだ。
 なのに、突然、記憶の事を云いだした。それだけでもおかしいのに、取り戻したくないなどと、まるで何かを知っているかのようではないか。
 否、総司は知っているのだ。
 過去を。
 二人の関係を。


(まさか……)


 土方は背筋がすっと冷える気がした。























土方さんは総司に記憶を取り戻して欲しくないのです。それは今の総司が可愛いだけでなく、ある理由がありまして……つづき、また読んでやって下さいね。