近藤は深く嘆息した。
ぱちんと音をたてて扇子を閉じながら、目の前に坐る盟友を眺める。
そうして、低い声で云った。
「だから、聞いたのだ。これでいいのか? と」
「……」
近藤の言葉に、土方は押し黙った。
この縁談がもちこまれた時、むろん、近藤は強く薦めた。いつまでも独り身である土方を心配もしていたし、何よりもいい縁談だと思ったからだ。
だが、土方に恋人がいると聞いて、考えが変わった。初めから情人がいる状態で、縁談を薦めることなど到底できないと思ったからだ。なのに、土方は受けると云った。この縁談を俺は受けようと思うと、きっぱり答えたのだ。
それに対し、念押しした近藤の言葉が、先程のものだった。
「いいはずがなかったと、今になって思っているのだろう」
近藤は扇子を帯に挟むと、両腕を組んだ。
「歳、おまえらしくもない」
「……」
「縁談を受けるなら、女と手をきるべきだ。女をとるなら、縁談を断れ」
「……じゃねぇよ」
何か、低い声で土方が呟いた。
それに首をかしげたが、近藤は言葉をつづけた。
「いっそ、その女を妻にしたらどうなのだ。それとも、色町の女故に問題があるのか」
「問題、ね」
くすっと笑った。
「ありすぎだよ、問題が。だいたい、妻になんざ到底できねぇ」
「身分の差でもあるのか」
「そういう事じゃねぇよ。実際問題として、妻に出来ない。だいたい、女じゃねぇんだからな」
「……」
土方の言葉に、近藤は呆気にとられた。
思わず、まじまじと、今までさんざん遊び倒してきた女たらしを眺める。
何を云われたのか、一瞬さっぱりわからなかったのだ。
この水際だった男が恋人として選んだのが、これ程の縁談を断るほどの相手が、女じゃない……?
「……どういう事だ」
「どういう事も何も」
土方は胡座をかいた膝に頬杖をつきながら、苦笑した。
「相手は女じゃねぇから、妻にできない。それだけの事さ」
「それだけの事って……まさか、宮川町の……」
「違う、隊内だ」
「何だと!?」
近藤は思わず仰け反った。
今、とんでもない言葉を聞いた気がした。この厳格で冷徹な男が、隊内の小姓にでも手を出したというのか。
それこそ信じられない話だった。
「いったい誰だ。おまえについている小姓か、それとも」
「違うって、総司だ」
「何だ、総司か」
思わず頷いてしまってから、近藤は、え? と顔をあげた。
続けざまの衝撃に、もはや感覚が鈍くなってしまっているのか。それとも、聴覚がおかしくなったのか。
「そうじ?」
「総司。試衛館からの弟分の沖田総司だ」
「あぁ、総司か。で、えーと、おれたちは今、何の話をしていたっけな」
「だから、俺の恋人の話だよ」
「うむ、そうだった」
「俺には隊内に恋人がいる。それが総司だってことを、今、俺は云ったんだ」
「…………」
長い長い沈黙が落ちた。
近藤は腕を組んだまま、土方を凝視している。
その前で、土方は、はぁっとため息をついた。
「昨日も、縁談の事を云ったら、総司に別れると云われちまってさ。それで逆上して、手込め同然にしちまった訳だ。総司のためにと思って縁談を受ける事にしたが、俺もたいがい駄目だよな。総司しか欲しくねぇんだから」
「手込め同然……」
さらりと、今凄い事を云われた気がした。
手込めとは無理やり、そういう事をしたという話ではないか。なら、この色男は、あの愛らしい総司をとっくの昔に身も心も手に入れたという事なのだ。いったい、いつの間にと、近藤は呆気にとられた。
「歳……おまえ」
おそるおそる訊ねた。
「いったい、いつからなのだ。その、おまえと総司の関係は」
まだまだ理解しがたいことは山ほどあるが、どうにか、理解しなければならない。相手が総司なら、まぁ、ありえる事だろうと無理やり自分を納得させつつ訊ねた近藤に、土方は肩をすくめた。
「再会してから、だな。もっとも、俺はずっと前から、あいつを好いていたが」
「それ…は、まぁ、オレもうすうす勘づいていたが、しかし、対立するようになって気持ちも冷めたと思っていたのだ」
「冷めるどころか、嫉妬と独占欲でますます燃えあがっていたさ」
くすっと笑った土方を、近藤は珍しい動物でも見るような目で眺めた。だが、やがて、はぁっとため息をつくと、云った。
「相手が総司なら、仕方ないな。おまえが、昔から総司に執着しているのを、オレは傍から見ていたし……諦めろとは到底云えん」
「ありがとう、近藤さん」
「だが、それだけ総司が大事なら、どうして縁談など受ける。あいつを泣かせるだけだろうが」
「傷は浅い方がいいだろうと、思ったのさ」
土方は畳の上に手をつくと、身をそらした。天井を眺めながら、呟くように言葉をつづける。
「あいつは今、記憶がない。なのに、俺と念兄弟の仲になっている。その状態で記憶が戻ったら、どうなると思う」
「それは……まぁ、驚くだろうな。混乱もするだろう」
「混乱して驚いて、俺のことを心から憎むさ。屈辱に死にたくなるだろうよ」
「……」
「だが、一方で、総司は優しい。幾ら騙すように念兄弟にされていたと云っても、それを否定すること、俺を拒絶することに、あいつは罪悪感を覚えるはずだ。そうして、総司は、相反する気持ちに苦しむだろう」
「歳……」
「そんな地獄は……味あわせたくねぇんだ」
低い声で呟いた友人の整った顔を、近藤は見つめた。しばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと云った。
「それ程大切に思うなら、おまえは何故逃げるんだ」
「逃げる……?」
「そうだろう。おまえは、すべてから逃げている。記憶を取り戻した時、総司に拒絶されることを恐れ、自ら背を向けようとしているんだ」
「……」
「いずれは、手を離すべきなのかもしれん。総司が記憶を取り戻し、おまえを拒んだ時、おまえを拒むべきかで悩んだ時、別れるべきなのかもしれん。だが、それは総司と共に決めることだ。おまえだけで決められることじゃない」
近藤の言葉に、土方は目を見開いた。
確かに、彼の云うとおりだった。
過去はどうあれ、二人は今、恋人同士なのだ。ならば、記憶を取り戻した時、別れるか別れないかも、二人で決めるべきことだった。土方だけで決めるなど、総司の気持ちを全く考えていない行為だ。
「……謝ってくる」
そう云って立ち上がった土方を、近藤は笑みをうかべながら見上げた。珍しく焦っている男の姿に、からかうような口調で問いかける。
「で? 縁談の方はどうする」
「断っておいてくれ」
「おまえ、本当に勝手な男だなぁ」
嘆息する近藤に「悪い」と手をあげ、土方はするりと部屋を抜け出ていった。足早に去ってゆく気配に、近藤はやれやれと肩をすくめた。
正直な話、驚きと衝撃にみちた会話だったが、不思議と気分は清々しい。おさまるべき処におさまったと、思えるからだろうか。
「ま、うまくやれよ」
近藤は扇子をぱちりと鳴らすと、小さく笑ったのだった。
いい縁談だという噂だった。
隊士たちのたまり場で聞いた話に、総司はそっと唇を噛んだ。
あの日、目を覚ますと、土方は気まずげな表情ながら傍にいてくれた。だが、そこでまた、別れる別れないの喧嘩になってしまったのだ。
もう、どうしていいのかわからなかった。
妾のような立場になど、なれるはずもない。絶対に我慢できない。
だが、彼は自分を手放さないと云う。そんな身勝手な話があるだろうかと思ったが、それでも、好きだと思ってしまう自分に目眩がした。どこまで好きなのかと、呆れてしまう。
土方が総司を愛してくれているのは、よくわかっていた。だが、ならば、どうして縁談など受けるのか。
そう疑問に思っていたが、縁談の内容を聞いて、仕方がないと思った。
文句のつけ処のない縁談だった。
相手は老舗大店のお嬢さんで、育ちもよく、美しい小町娘だという話だった。その上、気だても良いと評判で、何一つ不足がないのだ。
そんな完璧な相手に、総司が叶うはずもなかった。妾どころか、彼女を娶ったとたん、土方は総司に見向きもしなくなるだろう。それがよくよくわかっているのに、どうして、彼の傍にいられるのか。
惨めすぎると思った。
やりきれない話ではないか。
「……今、捨ててくれた方がいいのに」
ぽつりと呟いた。
もしかしてと期待させて待たせて、その挙げ句に捨てられるなど、想像するだけで、切なく泣いてしまいそうだ。そうなるのなら、いっそ今、切り捨てられてしまいたかった。別れを告げて欲しかった。
「……」
総司はため息をつくと、踵を返した。
これ以上、隊士たちの噂話を聞いているのは、辛かったのだ。
自分の部屋にさしかかった処で、ふと顔をあげた。とたん、大きく目を見開いた。
「……ひ、土方さん」
思わず後ずさってしまう。
その怯えた様子に眉を顰めたが、土方は何も云わなかった。黙ったまま、総司を見つめている。
やがて、嘆息すると、低い声で訊ねた。
「部屋に入ってもいいか……?」
「……」
総司はきゅっと唇を噛んだ。
この間のことを思い出してしまったのだ。彼に抱かれた事は後悔していない。総司だって求めたのだから、当然のことだった。だが、うやむやにされてしまい、挙げ句、情事の後も口論になったことが、総司の気持ちに影を落としていた。
それを知ったのか、土方は穏やかな声音でつづけた。
「この間みたいな事はしない。約束する」
「……」
「だから、頼む。俺を怖がらないでくれ」
「……怖がって……なんか」
総司はふるりと首をふった。
だが、そう口にしたことで、自分の感情を理解した。
怖がっているのだ。
土方に何かされるとかそういう事ではなく、別れを告げられるのを恐れている。あんなに、今切り捨てられてしまいたいと思ったはずなのに、いざ別れを告げられるとなると、こんなにも怖いなんて。
(私は、なんて身勝手なの……)
目を伏せてしまった総司に、土方は痛ましげな表情になった。歩み寄ると、身をかがめ、その愛らしい顔を覗き込んだ。
瞳をあわせ、子どもに云い聞かせるように、言葉をかける。
「話があるんだ」
「……」
「酷い事は決してしない。だから……部屋に入れてくれねぇか」
「……はい」
長い沈黙の後、ようやく頷いた総司に、土方は安堵したようだった。ほっと息を吐き、微かに笑ってみせる。
その綺麗な笑顔にどぎまぎしながら、総司は障子を開いた。中へ入ると、土方はあの時と同じように腰をおろした。それを見ながら、そっと障子を閉める。
彼から少し離れた処に坐り、総司は長い睫毛を伏せた。じっと俯き、膝上に置いた手を見つめている。
しばらく黙っていた土方が、やがて、低い声で云った。
「……すまなかった」
「え?」
顔をあげた総司を、土方は切れの長い目で見つめた。形のよい唇で、はっきりと言葉をつづける。
「あんな事を云ってすまなかった。縁談は断ることにした」
「……断る?」
総司の目が見開かれた。それに、土方は頷いた。
「あぁ。さっき、断ってきた」
「どうして」
思わず叫んだ。
あんないい縁談を、どうして断るのか。それこそ理解できない行動だった。
捨てられたくないと思った。別れたくないと。
だが、その気持ちは別として、理性では、土方の立場も地位も何もかもよく理解している。この縁談は、今後の彼にとっても大切なものであるはずだった。
それを断るなど。
「断るなんて、どうして。そんな事したら、あなたの立場がなくなるでしょう?」
「おまえが心配する事じゃねぇよ」
土方は苦笑した。
「だいたい、今までだって何度も縁談断ってきているんだ。それこそ、又かと思われるだけさ」
「でも」
総司は大きな瞳で彼を見つめた。
「あなた、云ったじゃないですか。所帯をもつと。だから、私は別れる決心をしたのに、なのに……」
「俺はおまえと別れたくない。だいたい、縁談を受けようと思ったのも、おまえが……いつか俺を拒むかもしれないと思ったからなんだ。俺の弱さ故、だな」
「弱さ……?」
思ってもみない言葉を告げられ、総司は目を見開いた。
それに、土方は手をのばし、そのなめらかな頬にそっとふれた。指さきで包みこみ、優しく撫でながら目を細める。
「おまえに拒絶されるのが、別れを告げられるのが怖くて、不安で……そのくせ、おまえのためだと偽り、先に手放そうとした。出来るはずもねぇのにな」
「何…で、私があなたを拒絶するの。別れを告げるの……?」
呆然と訊ねた総司に、土方は目を伏せた。その端正な顔に、翳りが落ちる。
しばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりとした口調で云った。
「おまえは記憶がない」
「……」
「前に云っただろう? おまえと俺は、以前、対立していた。今のような関係でなく、それどころか……酷く他所他所しい冷え切った関係だった」
「土方さん、あの……」
何か云いかけた総司に構わず、土方は言葉をつづけた。
「そのおまえが、今の俺たちの関係を受け入れられると思うか? ましてや、男同士だ。あの矜持が高い総司が男に抱かれるなど、到底受け入れられるはずもない。屈辱に死にたくなるだろう」
「……」
「だから、俺はおまえを先に手放そうと思った。今、別れてしまえば、もしも記憶を取り戻した時、今までのことを思い出したとしても、まだ救われる。俺と念兄弟でいつづける必要もない。だから、俺は……」
「土方さん」
はっきりとした声音で、総司は彼を呼んだ。
そして、膝をすすめると、大きな瞳できっと土方を見据えた。
「どうして、一人で決めるの」
「……総司」
「これは、あなたと私の問題でしょう? なのに、どうして、全部あなたが決めちゃうの。ましてや、私の気持ちまで勝手に決めつけて……そんなの、わからないでしょう? 私が以前、土方さんをどんなふうに思っていたか、そんなの全然知らないのに、記憶を取り戻した時、どんなふうに思うかなんてわからないのに」
「……」
「昔から、あなたはそう。いつだって、全部一人で抱え込んで、全部一人で決めて。だから、私はあなたがわからなくなってしまうのです。あなたが何を考えているのか、わからなくて、どう接すればいいのかわからなくて……」
「……」
総司の言葉を、土方は僅かに目を伏せながら聞いていた。彼にしては珍しく、どこか気弱げな傷ついた表情だ。形のよい眉を微かに顰め、唇を噛みしめている。
その様子に気づいた総司は、はっと我に返った。
彼を傷つけるつもりはなかったのに。
あの頃、独り戦いつづける彼を見つめているのが辛かったからといって、それを支えるどころか裏切った自分に、何を云う資格もない。彼を責めることなど、到底できないはずなのに。
「……ごめん、なさい」
突然、小さな声で謝った総司に、土方は訝しげに顔をあげた。
しばらく探るような瞳で見つめた後、問いかける。
「何を謝る」
「だって……勝手な事ばかりを云いました。わかろうとしないのは、私なのに」
「それは違う。俺がおまえの気持ちを推し量り、勝手に事を終らせようとしたからだ。俺自身がおまえに気持ちを明かさなかった。今も、……昔も」
土方はため息をつくと、総司に手をのばした。どこか躊躇いがちな仕草だ。
気づいた総司は、自ら彼の方へ身を寄せた。それにほっとしつつ、土方は従順に凭れかかる細い躯を抱き寄せた。髪に、頬に、口づける。
想いの丈をこめ、囁いた。
「愛している……」
「土方さん……」
「総司、おまえだけを愛しているんだ。だから……もう、俺はおまえを手放さない。何があっても、決して、自分からおまえを手放すような事はしない」
「……それは」
総司は男の胸に凭れかかったまま、目をあげた。間近にある男の端正な顔を見つめる。
「私が望めば……手を離すという事?」
「……」
土方は目を伏せ、唇を噛みしめた。