障子越しに、柔らかな光が射し込んでいた。
まだ初夏の日射しだ。
それを感じながら、総司は寝返りをうった。畳の上だ。
昼日中から、先程まで自堕落に戯れていた男は、もう知らぬ顔で文机に向っている。見上げた端正な横顔は冷静で、熱の名残もまるで感じさせず、総司は狡いと唇を尖らせた。
ころころと畳の上を転がり、土方の膝もとへ近づいた。そのまま彼の手を強引にとり、指さきに噛みつく。
「……つっ……」
さすがに痛かったらしい。
見上げてみれば、土方は形のよい眉を顰めていた。
「何で、俺が噛みつかれなきゃならねぇんだ」
「冷たい土方さんに、お仕置き?」
「俺に聞くな、俺に」
そう云ってから、土方は噛まれた指さきを煽情的な仕草でぺろりと舐め、小さく苦笑いしてみせた。
「お仕置きされたのは、おまえの方だろう」
「え、あれってお仕置きだったの?」
「……まぁ、途中から、ご褒美になっちまったが」
土方は口をにごし、視線をそらせた。ため息をつく。
実際、この部屋へ引っ張り込んだ時は、かなり怒っていたのだ。お仕置きしてやろうなんて甘さどころか、静かに怒っていた。
嫉妬と怒りで、どうにかなってしまいそうだった。
なのに、総司が大きな瞳を潤ませ、「ごめんなさい」と小さな声で云ってきた時点で、何かが違う方向へ走り出してしまったのだ。気がつけば、畳の上で二人抱きあっていた。そのまま脱ぎ捨てた着物に埋もれるようにして躯を重ね、昼間、それも屯所の中だというのに、めちゃくちゃ感じてしまったのだ。
さすがに最後まではしなかったが、土方も総司もかなり気持ちのよい甘い一時を過した。そのため、本当は土方が追究したかった事も何もかも、うやむやになってしまっている。むろん、今更とがめ立てするのも、馬鹿馬鹿しかった。完全に気が抜けてしまっている。
(……何だかな)
ほだされまくっているとしみじみ実感しつつ、土方は総司の細い腰にゆるく腕をまわした。抱き寄せ、なめらかな頬に口づけを落とす。
男の優しい口づけに、総司は嬉しそうに笑った。内心、ほっと安堵の息もついている。
ごそごそと身動きして、男の腕の中におさまった。そっと凭れかかると、優しく抱きしめてくれる。彼のぬくもりが何よりも心地よくて、目を閉じた。
副長室へ連れこまれた時は、どうなるかと思った。
お仕置きでも何でも、されても構わない。だが、拒絶されるのだけは怖かった。
もう、おまえなどいらない。傍に寄るなと云われるのが、一番辛い。
愛されなくても、それどころか、忌み嫌われていても、傍において貰えるだけでいいから。それしか望まないから。
(……土方さん……)
こうして恋人のふりをしてくれる土方に、申し訳ないと思っていた。
記憶を取り戻した当初は、酷いと思った。隊のためとはいえ、自分を騙すなんて酷いと。
だが、よくよく考えてみれば、土方を騙し、酷い事を強いているのは自分なのだ。何しろ、自分は男だった。どんなに華奢であっても、男だ。
江戸でも京でもさんざん女遊びをくり返してきた土方が、男の自分など好むはずもなかった。それどころか、本来は、性愛の対象ですらない。抱くのなら、当然、女がいいに決っていた。なのに、土方は今も嫌悪の表情ひとつ見せる事もなく、優しい恋人を演じてくれる。
その上、相手は、反抗的で生意気な態度を取りつづけた存在だ。いやでいやで仕方がないはずだった。それを思うと申し訳なくなる一方、でも、やっぱり彼を放したくないと思う。
ずっとずっと傍にいて。
そんな事さえ願ってしまいそうで、総司は、己の願望の際限なさに唇を噛んだ。
ほんの一つの切っ掛けで、彼の気持ちは変わってしまうかもしれないのだ。自分が役にたたない存在になり下がれば、傍に置いてもらえなくなる。土方は恋人のふりなどやめてしまうに違いない。
その日が来るのを、総司は何よりも恐れていた。怖くて怖くて、たまらなかった。
だからこそ、土方の気持ちを害したくない。伊東と会うなと云うなら、会わない。言葉も交わさない。それが土方の意思であるのなら、何にだって従う。
総司は心にそう固く誓っていた。
「土方さん」
身を起こし、彼の端正な顔を覗き込んだ。
大きな瞳でまっすぐ見つめ、告げる。
「ごめんなさい」
「……?」
土方は訝しげに小首をかしげた。いくら明敏な彼でも、何を謝られているのか、わからなかったのだろう。
「指を噛んだことか」
しばらく黙ってから訊ねた土方に、総司はちょっと吹き出した。だが、すぐ真顔になると、きちんと端座して頭を下げる。
「伊東先生と話したこと、ごめんなさい。近づかないって約束したのに」
「あっちから近づいて来たんだろう」
「はい。でも、応じたのは私だから、私が悪いのです」
謝ったつもりだったが、とたん、土方の機嫌が急降下するのを感じた。びっくりして顔をあげると、土方は不機嫌そうに眉を顰め、こちらを見つめている。
「?」
先程の彼のように小首をかしげると、ため息をつかれた。顔を背け、低い声で呟くように云った。
「……庇うな」
「え」
「あいつを、伊東を庇うな。いい気がしねぇよ」
「庇ったつもりじゃないけど……でも」
総司は口ごもり、それから、そっと彼の膝に手をかけた。
「私は、あなたに嫌われるのが一番怖いから。非を認めないと、あなたは私を軽蔑するでしょう? 嫌ってしまうでしょう? だから、それが怖くて」
「おまえを俺が嫌う?」
驚いたように、土方は聞き返した。手をのばし、総司の細い肩を掴んだ。
「そんな事、あるはずねぇだろう。俺がおまえを嫌うとか、軽蔑するとか、何があってもありゃしねぇよ」
「じゃあ……好き?」
総司は小さな声で訊ねた。
普段どおりのあどけない表情で。だが、その実、胸の鼓動は酷く速くて。
どきどきしながら、問いかけた。
「私のこと、愛してる……?」
無邪気とも思える問いかけに、土方は苦笑した。総司を引き寄せ、その額に口づけてやりながら答える。
「あぁ、好きだ。誰よりも愛しているよ」
「私が莫迦な事をしても? どんな酷い事をしても?」
「おまえがする酷い事って、想像もつかねぇけどな」
土方は肩をすくめた。
「俺はおまえ愛している。何があっても、最後の最後できっと許しちまうんだ。たとえ……」
土方は目を細めた。
「おまえが……俺を殺してもな」
「……そんな」
総司は目を瞠った。
「殺すなんて、するはずないでしょう?」
「わからねぇよ。この世の中、妻が夫を害するなんて、ある事だろうが」
「痴話喧嘩の果てで? それは……うーん、あるかもしれませんね」
「ほら、みろ」
冗談にまぎらせた総司に、土方も笑ってくれた。
それに、安堵しつつ、頭の隅で考える。
あなたの命を奪う。
そんなこと出来るはずもないけれど。
でも、私はもっと酷い事をしているのだ。
殺すより、もっともっと酷いこと。
彼の自由を奪い、束縛を強いて、生きている間、永遠の枷を嵌めつづける。
これより酷い事なんて、あるの?
「……ごめんなさい」
小さな声は、土方に届かなかったようだ。
不思議そうに顔を覗き込まれる。
それに、小さく笑い返しながら、総司は胸の奥が痛むのを感じた。
「わぁ、きれい……!」
山の峠の途中。
崖の先まで走り寄った総司は、広がる光景に歓声をあげた。
隣を歩いていた土方も、編み笠の先をあげる。愛しい恋人が寄りそってくるのに、小さく笑いかけた。
大坂への旅路の途中だった。
突然、大坂への出張が決った土方は、総司を誘ったのだ。それも二人きりの旅である事に、総司は色々と考え込んでしまったが、土方は「来れば楽しいぞ」と強引に誘ってきた。
「あちこち連れていってやるから、一緒に来いよ」
「でも」
「京とは違う菓子もあるし、色々と見所がある。おまえと共に旅をできるなら、楽しいと思うけどな」
「そりゃ楽しいとは思いますけど……土方さん、お仕事で行くのでしょう? いいの?」
総司は思わず訊ねてしまった。上目遣いで、自分にとびきり甘い恋人を見る。
「いいって何が」
「だから、私同伴なんて近藤先生に怒られません?」
「目的がばれてねぇんだから、怒られるものか。護衛って事で連れていくさ」
あっさり云いきり、笑ってみせた土方に、総司はため息をついた。
この男の笑顔は、本当にくせものだ。いつもは冷たいほどの表情で、怜悧な雰囲気を漂わせているくせに、総司に対する時、悪戯っぽい少年のような笑顔になる。こうして覗き込み、「な、いいだろ?」と、甘い声で囁きかけながら笑いかけられて、逆らう事ができるだろうか。
結局の処、総司は土方の笑顔に丸め込まれた形で、二人大坂への旅路に発った。むろん、愛しい男との二人旅だ。楽しくないはずがない。
土方は総司を連れての旅路だったため、あまり急がなかった。淀で一泊するつもりでいる。
その宿まであと少しという処だった。
突然、感じた殺気に、身構えた。瞬時に視線を走らせるが、どこからのものかわからない。
傍らの総司も感じたようだった。油断なく身構え、鯉口を切っている。
「──ッ!!」
奇声が町中に響いた。
ふり返れば、刀を抜いた浪士が殺到してくる処だった。幾人もいる。土方は咄嗟に抜いた刀で、傍を抜けようとする敵を横凪ぎに払った。ざぁっと鮮血が飛び散る。
町中での斬り合いに、場は騒然となった。
多勢相手の戦いだ。だが、土方は自分の腕も、総司も信じていた。
軽々と跳躍し、総司は刀を振り上げた。一刀のもとに斬り下ろし、着地すると、そのまま次の敵へと向ってゆく。まさに、鬼神のような戦いぶりだった。護衛という名目で連れてきたが、それが本当になったようだ。
土方は血濡れた刀を引っさげ、身をひるがえした。男たちは最早浮き足立ってしまっている。あと少しだと思った。
その時、だった。
「! 土方さんッ!」
鋭い声と共に、土方の躯が突き飛ばされた。
次の瞬間、銃声が鳴り響く。
ふり返った土方の目に、地へ倒れこむ総司の姿が映った。
「総司ッ!」
叫び、その小柄な躯を抱え起した。それに浪士が斬りかかってきたが、片手で薙ぐように払った。鮮血がふりかかる。
這々の体で、浪士たちが逃げ始めた。怪我人も置いたまま、逃げ去ってゆく。
それを追うべきなのはわかっていた。新撰組副長であるのなら、当然だろう。だが、今の土方にそんな事できるはずもなかった。
震える手で総司を抱きしめ、その青ざめた顔を覗き込んだ。
「総司……っ」
情けないと思うが、声が震えた。己の顔もきっとまっ青だろうと思った。
「しっかりしろ! 総司……」
「……土方、さん」
総司はちょっと顔をしかめつつ、小さな声で彼の名を呼んだ。
「大丈夫です、私は。それより……追わなきゃ」
「そんなもの、どうだっていい」
「土方さん……」
困ったように笑う総司の細い肩は、血で濡れていた。銃弾が掠ったのだ。それが誰のせいなのか、土方にはよくわかっていた。
「とにかく、手当だ。宿まで連れていく」
そう云うなり、総司の腰と膝裏に手をまわした。軽々と抱きあげる土方に、総司は絶句した。
耳まで真っ赤になってしまう。
「お、下ろして下さい!」
何しろ、ここは往来のど真ん中なのだ。先程の騒ぎで、人も集まっている。その中で、武士が若者を抱き上げるなど、とんでもない話だった。
だが、慌てる総司に対し、土方は平然とした態度だ。
「怪我人なんだ、当然だろう」
「だって……っ」
「おとなしくしろ。これ以上暴れるなら、この場で犯すぞ」
耳もとに唇を寄せ、とんでもない脅しをかける土方に、総司はぴたりと抵抗をやめた。本気? と、おそるおそる目で問えば、無言のまま、にっこり笑い返されるのが怖い。
おとなしくなった総司に、土方は満足げに笑った。そっと、小柄な躯を抱きなおす。
その腕に抱くと、血の匂いが強まった。見た目より傷は深いのかもしれない。先程までは総司も気がたっていたため、痛みを感じていなかったのだろう。だが、今は、細い眉を顰め、彼の胸もとに小さな頭を凭せかけている。
その仕草に、表情に、胸が痛くなった。
「……どうして」
足をとめ、総司の躯を強くかき抱いた。
思わず、低く呻いた。
「どうして……俺を庇ったりするんだ」
「……土方さん……?」
「何で、どうして、俺なんかを庇う。死んでいたかもしれないのに、あんな……鉄砲の前に身を投げ出すなど」
「だって……」
総司は微かに笑った。手をのばし、彼の頬にふれた。
掠れた声で、囁きかける。
「あなたが大事だから……好きだから」
「総司……」
「好きな人を庇うのは、そんなに不思議なこと……?」
「! 総司……っ」
熱いものがこみあげた。
息がとまるほど、総司が愛しかった。
彼に向けられた真っ直ぐな、穢れ一つない愛情が、泣き出したくなるほど嬉しい。
己のために命まで投げ出してくれた総司が、誰よりも何よりも愛しかった。
こんな罪深い男のために。
黙ったまま抱きしめた土方の腕の中、総司は静かに目を閉じた。
その夜、総司は高熱を出した。
傷から悪い風が入ってしまったのか、酷い熱が出てしまったのだ。
傍らで土方が心配そうに医者と話しているのが聞こえたが、何も云う元気さえなかった。心配しないでと告げたかったが、朦朧として唇も震えるだけだ。
何度も、恐ろしい夢を見た。
様々な夢を見たが、何よりも怖かったのは、土方に捨てられる夢だった。
おまえなどもういらないと、冷たいまなざしで告げられ、背を向けられる。
冷えた声音に、侮蔑するようなまなざしに、躯中が震えた。
泣いて叫んで、縋りついて。
それでも捨てられてしまう自分は、なんて惨めなのか。なんて辛いのか。
あなたがいなければ、生きてゆけないのに。
お願い、私からあなたを奪わないで。
「……っ」
目が覚めた。だが、瞼は開かない。
躯中が重くて、息が苦しかった。頭は燃えるように熱いのに、指さきは冷えている。
その指さきが誰かの手に包みこまれた。ぎゅっと固く握りしめられる。
誰か──土方だ。
何度も繋いだ手だからこそか、愛する男だからなのか。見えないのに、どうしてだかわかった。彼がそこにいて、自分の手を握りしめてくれている。
ずっと……傍にいてくれた?
ふわっと胸が熱くなった。
総司が意識のある時なら、優しくされる理由はわかる。恋人のふりをしているのだから、ある意味、当然だ。
だが、今は違った。総司は高熱で意識がないのだ。なのに、彼は傍にいてくれた。あまつさえ手を握りしめてくれているのだ。その優しさが、たまらなく嬉しかった。
その優しさに応えたいと思った。だが、躯が動かない。指さき一つにさえ、力が入らず、もどかしかった。
土方は総司を見つめているようだった。時折、握っていない方の手で髪をかきあげ、汗を拭いてくれる。
「……総司」
低い声が囁きかけたことで、尚更、彼なのだと実感した。むろん、違う誰かだと思っていた訳ではないが。
だが、男の声が酷く掠れている事に気づき、不安になった。
いったい、どうしたのだろう。
もしかして、彼も怪我を負っていたとか……?
ぎくりとするような想像に、目を開きたいと思った。彼を見て、確かめたいと。だが、躯中が重くて重くて、瞼もあがらない。このまま布団に沈み込んでいってしまいそうだ。
そんな総司の手を握りしめたまま、じっと黙っていた土方が不意に呟いた。
「どうして、俺を庇ったりするんだ……」
あの時も云われた言葉だ。
それに総司はちゃんと答えたはずなのに、まだ問いかける土方に、もしかして自分の想いが伝わっていなかったのかと思った。だが、違うようだった。
「おまえは、俺が好きだから、大事だから庇ったと云ってくれたが、俺は……」
言葉が途切れた。
総司の手が、彼の額に押しつけられるのを感じる。
「俺なんか……おまえに庇われる資格なんてねぇよ」
吐き捨てるような声音だった。
苦しげで切ない声。まるで罪人のような声音はどこか弱々しく、普段の彼からは想像もつかぬ程だ。
「おまえを騙しているのに、おまえから記憶を奪ったのは、俺自身なのに。おまえが欲しくて、おまえが誰かのものになるのが許せなくて、挙げ句、記憶を奪ったんだ。嫉妬で狂って、おまえに薬を盛って……呆れた話だよな」
土方は、己を自嘲するように笑った。
「おまえと再会してから、何度も、真実を告げようと思った。だが、駄目だった。おまえに拒絶されるのが、怖かったんだ。おまえの傍にいられる幸せを失うのが怖くて、何も云えなくなった。記憶を奪ったのは、おまえからすべてを奪ったのは、この俺なのに……っ」
ぎりっと奥歯を食いしばる気配がした。
不意に、総司の細い身体が男の両腕に抱きしめられた。包みこむように、だが、激しく抱きしめられる。
「……愛しているんだ……!」
掠れた声が耳もとで囁いた。
「おまえだけを愛している。ずっと……初めて逢った時から、愛してきたんだ。総司、おまえだけを……っ」
泣いている気配がした。
慟哭のような彼の声に、総司の身の内が大きく震えた。