新撰組へ総司を戻すにあたり、近藤や幹部たちには詳細を話したようだった。
むろん、記憶を奪ったことは伏せたようだが、それでも、総司が記憶喪失であり、そのため暫く様子を見ていたのだと云ったらしい。
確かに間違ってはいなかった。
だが、真実は、より狂おしいものなのだ。
総司はそんな事を考えながら、鉢巻きを解いた。
巡察から帰ったばかりだった。
しばらく離れていたため、感覚が戻るまでに時がかかるだろうが、すぐ馴染むと自分でもわかっていた。何しろ、皆は記憶がないと思っているが、その実、すべてを覚えているのだ。時折、それが出てしまいそうになり、総司はその度に己を抑えた。
土方のためだけではない。
これは、自分を守るためでもあるのだ。
記憶がないとなれば、過去のしがらみや関係に囚われなくて済んだ。
新たな関係を築くことが出来るのだ。
総司は今、すべてから自由だった。何も知らぬからという顔で、無邪気に振る舞い、心のまま動くことが出来る。
それは、とても快いことだった。昔はどれ程、自分を抑制していたか、様々なものに縛られていたのか、今更ながらよくわかる。
あの頃は、苦しさに息絶えそうだった。
一縷の望みもない恋に気も狂わんばかりになり、彼を見つめては、嫉妬と情念の炎に身を焦がしつづけた。
苦しくて切なくて、幾度、叫び出しそうになった事か。
自分の意思とは裏腹に、隊内での地位が高まり、負わされる責任も大きくなった。むろん、それは構わなかった。彼のために戦う事が出来るならと思った。
だが、どんなに尽くしても、血を吐くほどの苦しみの果てに戦い抜いても、土方は決してふり返ってくれなかった。
その冷たい瞳に映る自分はただの駒でしかありえぬのだと、そう思い知らされた時の絶望は今も忘れない。
まるで子どもの八つ当たりのように、土方を非難し、なじり、そうして逃げ出した。それも彼が敵対する男のもとへ逃げ込み、すべてから耳を塞ぎ蹲ったのだ。
だが、今、その記憶はない。否、ないという事にされている。
だからこそ、総司は心のまま無邪気に振る舞えた。皆が驚いているのはわかっていたが、それでも、勝手気ままに行動しつづけている。
それを、土方も許していた。彼にとっても、その方が都合がいいのだろう。以前のように暗く沈んだ表情ばかりで、ほとんど口もきかず、挙げ句、彼を裏切る駒など、不要に決っている。
総司自身も望む今のかたちが、土方にとって都合のいい結果を生んでいた。ならば、元に戻してはいけない。
彼の傍にいるためなら、何でも出来るのだから。
総司は着替えを終えると、副長室へ向った。巡察の報告のためだ。
「土方さん」
障子を勝手に開けて呼ぶと、土方が眉を顰めてふり返った。呆れたように、ため息をつく。
「それ、やめろと云っているだろ」
「何? 断りなく障子を開けること? 土方さんって呼ぶこと?」
「どちらもだ」
「でも、どっちも嫌だもの」
総司はあどけなく云うと、土方の傍に寄った。すぐ近くに坐りこみ、彼の肩に凭れかかる。
「恋人の部屋に入るのに断り入れるのもおかしいし、土方さんを副長と呼ぶなんて出来ないし」
「前はやっていた事だ」
「そんなの知りません。だって、私、何も覚えてないし」
桜色の唇を尖らせた総司に、土方は、やれやれとばかりに肩をすくめた。筆を置くと、総司の方へ向き直り、「ほら」と手をさし出してくれる。
それに、くすくす笑いながら、総司は彼の膝によじのぼった。男の膝上に坐り込み、その広い胸もとに凭れかかる。
「副長なんて呼んで、こんな事できるはずないでしょ」
「だが、皆の前ではそう呼べよ。でないと、示しがつかん」
「うーん、善処します」
「信用できねぇな」
苦笑いする土方に、総司も小さく笑った。そのまま凭れかかっていると、優しく髪を撫でられる。心地よいぬくもりに、うっとりとなった。
隊に戻ってからも、土方は総司に優しかった。少なくとも、二人きりの時は甘い恋人でいてくれる。たとえ、それが偽りであっても、総司は構わなかった。こうして彼を感じ、彼を独占できるなら、それでいいのだ。
時折、胸を刺す痛みからは目をそらしていた。幸せだと自分に云いきかせることで、気持ちをたてていこうと思っていたのだ。
「土方さん、あのね」
彼の手をとり、それに指を絡めたり歯をたてたりしながら、総司は甘えるように云った。
「あなたが云っていた人に、会ったんですけど」
「云ってた人?」
「伊東先生、です」
とたん、総司を抱いている男の腕が強ばるのを感じた。息をつめ、総司の言葉のつづきを待っている。
それを強く感じ取りながら、総司は彼の肩に小さな頭を押しつけた。
「あまり話はしないようにしましたが、伊東先生も私の記憶がないという事で、少し引いたみたいです」
「……」
「たぶん、もうお話しする事もないと思います。だから、あまり心配しないで下さいね」
「……あぁ」
土方の声は掠れていた。
見上げてみると、宙に視線を投げ、微かに唇を噛みしめている。何か別の事を考えているようだった。おそらく、様々な思惑をめぐらせているのだろう。
総司は、端正な横顔にうかんだ冷たい表情から、視線をそらした。土方にとって、伊東と総司の事は、あくまで隊の派閥争いに関することであり、そこには甘い恋愛沙汰など全く存在せぬのだ。それを、目前に突きつけられた気がした。
愛されぬ淋しさに胸が痛くなるのは、こういう時だ。
「土方さん」
気をとりなおし、話を変えようとした。その時だった。
廊下で人の気配がたち、障子越しに「副長」とひそやかな声がかけられる。
総司は慌てて土方の膝上から降りた。記憶を失ってから冷淡な関係ではなくなっているが、それでも、念兄弟である事までは明かしていない。醜聞沙汰は土方のためにも避けなければならなかった。
着物を整えながら、部屋の片隅に下がる総司を見ながら、土方は「入れ」と云った。
するりと障子を開き、斉藤が入ってくる。とたん、そこにいる総司の姿に、目を見開いた。
「……総司」
「あ、ごめんなさい」
総司は慌てて腰を浮かせた。
「大切な話なら、私、邪魔ですよね。すぐ席外しますから」
「いや、別にただの報告だから、いいって」
「私はもう用事終りましたから」
全く巡察の報告も何もしていなかったが、気まずさを感じ、総司は足早に部屋を出た。ぱたぱたと軽い足音が遠ざかってゆく。
それを見送り、斉藤はため息をついた。ちらりと視線をあげ、笑う。
「お邪魔でしたか」
「あぁ、邪魔だ」
きっぱり云いきった土方は、文机に向き直った。
あんまりな男の態度に、やれやれと思いつつ、斉藤は云った。
「総司を屯所に戻して良かったみたいですね」
「良かったかどうか、まだわからねぇよ」
「伊東ですか」
ちょっと伺うような表情の斉藤に、土方は肩をすくめた。ぱらぱらと手許の書類を捲る。
「やはり、近づいているみたいだ。伊東もかなり総司に執着していたからな」
「一度めは許したそれを、許す気はないと」
「当然だろう。だいたい、一度目も許したつもりはねぇよ。だからこそ……」
記憶を奪ったのだと云いかけ、言葉を途切れさせた。
斉藤は、薄々ながら土方の想いを察していたようだが、彼が総司に何をしたのかまでは知らないのだ。ずっと総司に片思いしている斉藤だ。真相を知れば、さぞかし怒ることだろう。なんて酷い事をするのだと。
確かに、酷い事だと思った。
人から記憶を奪うという事は、その者の人生を奪う事になるのだ。今まで生きてきたすべて、友人も、家族も、喜びも愛も悲しみも何もかも、無にしてしまう。
己の罪深さを、土方はよく自覚していた。
何も知らない総司から微笑いかけられるたび、心の奥が鋭く疼く。だが、一方で、歪んだ話だが、総司の記憶を奪ったのが己である事に、奇妙な愉悦を覚えているのも確かだった。
他の誰にも渡さない。
あれは、俺のものだ。
己自身でも信じられぬほどの、狂気じみた執着と独占欲に愕然となったのは、遠い昔だ。
今はもう、狂気と正気の境目など、とうの昔に越えてしまった。総司が手に入るなら、何をしても構わぬのだ。どんな汚い事、酷い事でも平然とやってのけられるだろう己自身を、土方はよくわかっていた。
誰を欺く事とて、躊躇い一つ覚えない。
総司の瞳が己を見つめ、愛しつづけてくれるなら、それだけで何もいらないのだ。
「だからこそ、何ですか」
気が付けば、斉藤が不思議そうに問いかけていた。
それに、いや……と首をふってから、土方はふと思い出した。
「おまえ、報告とは何だ」
「あぁ、その伊東の事です。この間、会合がありまして……」
「……」
斉藤の報告に、土方は形のよい眉を顰めた。
総司が行方を眩ましていたこの半年で、土方と伊東の対立はより強くなっていた。だが、それはまだ水面下の動きに留まっている。
しばらく黙ってから、土方は文机に頬杖をついた。ゆっくりとした口調で、呼びかけた。
「斉藤」
「はい」
「今後、おまえは俺に接触するな」
「……わかりました」
鋭敏な斉藤は、土方の言葉からすぐ察した。
本格的に間者として潜り込み、土方自身とは関係を絶てと云われているのだ。その段階に入ったという事なのだろう。斉藤は気持ちを引き締めつつ、土方を見た。
「土方さん、一つ聞きたい事があります」
「何だ」
「総司が……もし伊東に近づいたら、どうしましょう。止めますか、それとも放置しますか」
「……」
土方は切れの長い目で斉藤を見据えた。短い沈黙の後、喉奥で低く嗤った。
「……そんな事を、この俺が許すと思うか」
「土方さん」
「総司は俺のものだ。おまえは一切手出しするな」
「わかりました」
土方の凄まじいまでの執着を見た気がして、斉藤は背筋がぞくりと冷えるのを感じた。
以前は、まだ二人の関係が深くなかったからこそ、見逃されたのだ。土方自身、総司の行動に口だしできる立場ではなかった。だが、今は違う。土方は総司の恋人なのだ。
その状況の中で、総司が伊東に近づけば、いったいどうなるか。
「……」
斉藤は唇を噛みしめた。
「……総司」
後ろからの声に、総司は足をとめた。
だが、ふり返る事ができない。何も答えられぬまま、そっと瞼を閉ざした。
聞き慣れた声だった。
あの頃、自分を救ってくれた人。だが、今は切り捨てなければならない人。
それがどれ程利己的な行為か、よくわかっていた。
だが、それでも尚、総司は、何よりも土方が大事だった。
彼の傍にいたい、彼の恋人でいたい。
そのためには、どんな残酷なことでも出来るのだ。
「伊東先生」
自分を落ちつけてから、ゆっくりとふり返った。
大きな瞳で、まっすぐ伊東を見つめる。それに、伊東は微かに目を細めた。
しばらく総司の様子を眺めてから、彼にしては低い声で云った。
「少し話をさせて貰えませんか」
「今、でしょうか」
「出来れば」
「……わかりました」
承知した総司に、ほっと安堵の息をつき、伊東は傍らの小部屋に入った。他意はないという事を示すためか、障子は開け放ったままだ。
腰を下ろした伊東の前に、総司もひっそりと端座した。
先日、話がついた訳ではなかった。土方にはあぁ云ったが、伊東が納得していない事は明らかだったのだ。
固い表情の総司に、伊東は微かに笑った。
「そんなに緊張しないで欲しいですね。隊の事ではないのですから」
「私事でしたら、余計に緊張します。私は……何も覚えてないのですから」
「それは先日も聞きましたし、隊の中でもそう噂されている。きみは……私のことも何も覚えてないのですね」
「はい」
こくりと頷いた総司に、伊東はため息をついた。
「私はきみの友人でした……いや、そのつもりだった。だからこそ、町で会った時も、思わず追いかけてしまったのです」
「伊東先生……」
「記憶を失う前、きみは私の傍にいた」
静かに呟いた伊東は、鳶色の瞳で、総司を見つめた。
「だが、戻ってきたきみは、土方君の傍にいつづける。何があったか知らないが……もう、私の手をとる事は二度とないのですか?」
真摯な声で問いかけてくる伊東に、総司は息を呑んだ。
あの頃もそうだった。
伊東はいつも総司の心に寄りそい、受けとめてくれたのだ。
今も、こんなにも真剣に自分を案じてくれている。
その彼を騙す事に、罪悪感を覚えないはずがなかった。
総司は俯いた。膝上の手をきつく握りしめ、掠れた声で答えた。
「……申し訳ありません」
「総司……」
「私は、土方さんを傷つけたくないのです」
総司は顔をあげ、澄んだ瞳で伊東を見つめた。
「あの人のためにだけ、戦いたい。今、私が伊東先生の手を再びとることは、土方さんへの裏切りになります。だから、それだけは……出来ません」
毅然とした表情で云いきった総司を、しばらくの間、伊東は見つめていた。無言のまま、じっと視線をあてている。
やがて、ゆっくりと視線を外した。
「……私はきみを失った」
「伊東先生」
「だが、これで良かったのだと思います。今のきみはとても生き生きしている。そんなきみを見ることが出来ただけで、私は満足です」
そう云って微笑んだ伊東に、総司は泣き出しそうになった。
こんなにも、自分を想ってくれる人。
大切にしてくれる人。
なのに、どうして、この人を愛することが出来なかったのだろう──?
愛して、愛されて。
この人となら、きっと幸せになれたはずなのに。心穏やかに日々をおくってゆけたはずなのに。
「……ごめんなさい」
思わず謝ってしまった総司を、伊東は見つめた。それから、ふっと笑った。
手をのばし、そのなめらかな頬に柔らかくふれる。
「そんな顔をしないで。きみが罪悪感を覚えることはないのです。ただ……私は、きみが幸せであればいい」
「でも! 私は、伊東先生にたくさん迷惑をかけて、なのに……っ」
「総司」
伊東は微かに眉を顰めると、総司の唇に指をあてた。何かを知っている、勘づいている男の瞳が、総司の顔を覗き込む。
低い声が囁いた。
「きみが何をしようとしているのか、何故そんな事をしているのか、追究しません。ですが、私の前でも……気をつけなさい」
「……あ」
総司は目を見開いた。
伊東は、総司が記憶を取り戻している事に、勘づいているのだ。だが、それでも、黙っていてくれる。総司がそれを望むならと、何も云わないでいてくれる伊東に、気持ちが揺れた。
思わず伊東の肩に縋りつき、目を閉じる。それを、伊東はそっと抱き返してくれた。
ぬくもりが心地よい。だが、それが愛しい男のものでない事もよくわかっていた。静かに躯を起した総司に、伊東は微笑んだ。
黙ったまま去ってゆく伊東の姿に、吐息をもらす。
(土方さんとは違うけれど……)
心を許した相手だったのだ。
愛することが出来たらと、思った相手でもあった。
だが、土方を愛しつづけるために、切り捨てなければならない。そんな残酷で身勝手な自分を、穏やかに許してくれた伊東の優しさが身にしみた。
「……」
総司は己の部屋へ行こうと、廊下を歩き出す。
その時だった。
背中に感じた鋭い視線に、心の臓が跳ね上がった。慌ててふり返ってみれば、中庭の向こう。縁側に立った男がこちらを真っ直ぐ見据えている。
思わず息を呑んだ。
「……土方…さん……っ」
凜と背筋をのばし、黒い着物を着流しにした男がそこに佇んでいた。
端正な顔には、感情が全く感じられない。
鋭い瞳でこちらを見据える土方に、総司は呆然となった。
見られた。
彼に、全部見られていたのだ。
伊東と馴れあっている処も、全部。
ごめんなさいと、すぐさま謝ってしまいたくなった。悪い事をした訳ではないけれど、それでも。
「……」
無意識のうちに、その言葉は唇から零れていたのだろう。
一瞬、それを認めた土方の目が見開かれる。憮然とした表情になると、総司を眺め、そして、ため息をつきながら視線をそらせた。
そのまま立ち去るかと思ったが、懐手をしたままじっと佇んでいる。その男の姿に、総司はようやく気がついた。
「……あ」
彼は待っているのだ。
総司が自分の処へ来るのを、辛抱強く待ってくれている。
慌てて踵を返すと、渡り廊下に足を踏み入れた。
次、大きく展開します。大坂へ出張することになった土方さんですが……