障子越しに射し込む光は、淡い茜色だった。
 もう夕暮れ時なのだ。そろそろ屯所へ戻るべきだったが、土方はまだ総司を腕にかき抱いていた。目覚めるまでは傍にいてやりたい。それが彼の気持ちであると同時に、不安が残っているのも確かだった。
 いったい何があったのか。
 土方は、腕の中の総司を見つめながら、考えていた。
 先程までの激しい情事のため、総司は半ば気を失うように寝入ってしまっている。艶やかな黒髪が褥に流れ、そうして眠っている様は、まさに花のような愛らしさだった。
 今でも信じられないのだ。この総司が自分を受け入れ、愛してくれたなど。だが、実際、彼と総司は恋人同士だった。それも、こうして何度も躯を重ねるほどの深い関係だ。
 だが、それが、危うい均衡の上に保たれた関係であることも、土方はよく理解していた。いつ、総司が記憶を取り戻すか、わからないのだ。記憶が戻れば、この甘い夢は終る。
 決して許されぬ罪故に、彼は裁かれ断罪されるのだ。


(俺は、総司の記憶を奪った)


 今でも、どうしてあんな事をしたのかわからない。
 あの頃の彼は、半ば気が狂ってしまっていたのだ。冷静であれば、あんな事をするはずがなかった。恐らく、その話を持ち込まれても、一笑にふし、行動に移す事など考えもしなかっただろう。
 だが、あの頃、彼は追い詰められていた。
 総司を失う、奪われてしまうという恐怖に、日々、苦悶していたのだ。愛する者を奪われる恐怖。
 それは、矜持の高い彼をして、縋りつき懇願したい程の恐怖だった。
 ただ一人、愛した存在だったのだ。
 昔から、土方は誰を愛した事もなかった。己の容姿だけですり寄ってくる周囲に、辟易していた。男も女も、彼の見た目だけで判断し、遊びの相手としか扱わなかった。そんな周囲に、土方は次第に心を閉ざしていった。やがて、彼は、どんな女も遊んでは平気で切り捨てる冷たい男となったのだ。
 そんな土方の前に現われたのが、宗次郎だった。
 何一つ穢れのない、清らかさ。綺麗に澄んだ瞳で見つめられた時、土方は秘かに己を恥じた。この瞳に映る己が、少しでも良くあればいと願った。そんな事は初めてだった。誰にどう思われても平気だった彼が、宗次郎だけには嫌われたくなかったのだ。
 大切な存在だった。
 京にのぼってからも、土方は総司を影ながら見守り、愛しつづけた。まさに掌中の珠。告げる事がないだけに、よりその愛情は深まった。狂おしいほどの激しさとなり、だが、その激しさが総司を傷つける事を恐れ、土方は懸命に己の情愛を押し殺した。
 その結果が、総司の離反だった。
 総司は土方と敵対し、挙げ句、公然の敵である伊東のもとへ走ったのだ。その庇護を受け、土方には見せた事もない笑顔をむけた。それを見た瞬間、土方は気が狂うかと思った。
 嫉妬と憤怒で、叫びだしそうだった。だが、土方には総司を責める資格などなかった。総司が誰を選ぼうと、ただ見ている事しか出来ない。それが明らかだけに、土方の怒りと絶望はより深まった。
 どうすればいい。
 どうすれば、総司を手許に引き留められる。
 土方の頭の中は、その考えだけに占められた。
 そんな或る日だったのだ。偶然、彼が一つの薬を手に入れたのは。


 人の記憶を奪う薬。


 そう、告げられた。
 初めは、まさかと笑った。
 そんな物あるはずがないと、一笑にふしたのだ。
 だが、気がつけば、土方はそれを手に入れていた。
 一瞬、毒かもしれぬと思ったが、もしそうであったとして、それがどうだと云うのだろう。
 他の男に奪われるぐらいなら、いっそ殺してしまえばいい。
 嫉妬に狂い、そんな危険な考えさえ抱いていた土方にとって、その薬が毒であっても、全く構わなかった。総司が死ねば、己もすぐ後を追う。それでいいのだと、絶望の中で心を決めていたのだ。
 だが、今ならばわかる。
 それは酷く身勝手な考えだった。
 自分の恋人でもない総司の人生を、勝手に断ちきろうとしたのだ。大切に思っているのなら、どうして、総司を己の醜い情念から解放してやらなかったのか。例え、総司を失った瞬間、己の息が絶えても、気が狂っても、総司が幸せであるのならと。
 むろん、一方ではわかっていた。
 もし再び、あの頃に戻ったとしても、自分は同じことをくり返すだろう。同じ過ちを犯し、総司から記憶を奪い取るに違いない。
 土方にとって、総司はすべてだった。
 喜びも悲しみも何もかも、総司故なのだ。
 総司がいるからこそ、自分は生きてゆける。逆を云えば、総司がいなければ、自分は生きる甲斐もないのだ。


(俺は罪深い男だ)


 土方は総司の髪をすくいあげ、口づけながら思った。
 記憶を奪った挙げ句、こうして再び出逢った総司を、己のものとしてしまっている。人が聞けば、誰もが彼を非難するだろう。否、誰よりも総司自身が彼を許さぬに違いない。侮蔑の瞳で冷ややかに彼を見据える総司が、目にうかぶようだった。
 あの夜、土方は総司に薬を飲ませた後、部屋を出た。薬を飲ませたとたん倒れ込んでしまった総司に驚いたが、その息づかいや鼓動を確かめ、安堵した。ただ寝入っているだけなのだ。
 明日の朝、目覚めた時、記憶を失っているかどうかはわからないが、それでも、一晩中、総司の部屋にいる訳にはいかなかった。今、こうしていても、いつ誰が土方を探しにくるかわからぬのだ。
 土方は、総司に心を残しつつ、部屋を抜け出た。
 そうして、翌朝、屯所のどこにも総司の姿がない事を、息せき切って走ってきた斉藤によって知らされたのだ。
 愕然とした。
 記憶を失ったのかどうかは、わからない。ただ、総司が行方を眩ました事だけは確かだった。
 土方は必死に総司を捜した。記憶がそのままであるのならまだいい。だが、記憶を失った状態でふらふら歩いていれば、どんな危険がふりかかるともしれぬ。今の京は危険極まりなく、何よりも、総司は新撰組の一番隊組長なのだ。土方と同じく、浪士たちに狙われている身。早く保護しなければならないと、土方は懸命に探した。
 そして、その半年後、思いがけぬ形で再会したのだ。


(俺たちは恋人となった。だが、それは仮初めの形だ。今だけの夢なのだ)


 土方は苦い気持ちと共に、総司の細い躯をそっと抱きすくめた。目覚めが近いのか、総司が微かに睫毛を震わせる。
「……ん……」
 もぞもぞと寝返りを打とうとする総司を、土方は柔らかく抱きとめた。耳もとに唇を寄せ、優しく呼びかける。
「総司……」
「……ぅ、ん……」
「そろそろ起きてくれないか。総司?」
「……」
 ゆっくりと、総司の目が開かれた。
 まだ寝ぼけているらしく、ぼんやりと土方を見上げている。
「土方……さん?」
「他に誰がいると云うんだ。もう夕方だぞ」
「え」
 完全に目が覚めた総司は、がばっと身を起した。慌てて着物を整えながら、土方を見て云う。
「な、何しているんですか。早く戻らないと、夕方なんて……」
「いきなりだな」
 まだ褥に片肘をつき、のんびり寝たままだった土方は、喉奥で笑った。
「さっきまで俺の腕の中で眠っていたのに、起きたら、俺を追い出すのか? 冷たい恋人だ」
「そ、そんな追い出すなんて……でも」
 総司は頬を赤らめつつ、不安そうに云った。
「あまりここにいたら、土方さんが困るでしょう? お仕事、忙しいはずだし」
「確かに忙しいさ。けど、たまには息抜きも大事だろ?」
「じゃあ、今夜は一緒にいてくれる?」
 思わずそう問いかけてしまってから、困ったような顔をした土方に、慌てて首をふった。
「ごめんなさい。我儘を云って……」
「我儘じゃねぇよ」
 土方は身を起し、褥の上に胡座をかいた。片手で煩わしげに前髪をかきあげる仕草が、情事の名残を感じさせ、総司の目を惹きつける。
「おまえが俺と一緒にいたいと思ってくれるんだ、こんな嬉しい事はないさ」
「土方さん……」
「けど、今日は妙に積極的だな。本当に、何かあったのか」
 どこか探るようなまなざしを向けてくる土方に、総司はどきりとした。慌てて、笑顔をつくってみせる。
「何でもありません……よ。少し、人恋しくなっただけ」
「こんな処で一人住まいしているからな。もっと俺が度々来られればいいんだが」
「無理しないで。それに……私」
 総司は一瞬、躊躇った。
 だが、思い浮かんだ事は、総司の願いだった。記憶を取り戻してから、そうしなければならないと思っていたのだ。恐れている場合ではない。
 彼を失う。
 その事より、怖い事はないのだから。
 むろん、今よりもっと、彼を縛る事になってしまうだろう。それでも尚、望まなければならなかった。
 今より一歩を踏み出すためにも。
「総司?」
 訝しげに眉を顰める土方を、総司は見つめた。
 そして。
 静かな声で、云ったのだった。


「私、新撰組に戻ろうと思います」












 広げた着物を丁寧に畳んだ。
 葛籠に移してから視線をあげれば、縁側の向こうに青い空が広がっている。
 総司は荷造りの手をとめ、ぼんやりと空を見上げた。


(……土方さん)


 あの日、総司が告げた言葉に、土方は何も云わなかった。
 ただ驚きと困惑の表情で、総司を見つめるばかりだったのだ。だが、その黒い瞳に強い苦痛の色をみとめ、息が苦しくなった。
 縛りつけるだけではない。
 私は、この人を傷つけてしまった……?
 その事が躊躇いを呼び、総司は黙ったまま俯いてしまった。そんな総司に、土方が静かな声で云った。
「新撰組に戻りたいとは……本当の気持ちなのか?」
「……はい」
 こくりと頷いた総司に、土方は視線を彷徨わせた。何と言葉をつづければいいのか、思い悩んでいるようだ。
 それを感じとり、自分から口火を切った。
「こうして、土方さんの訪れを待って……でも、そんなに逢えなくて。私はそれが淋しいのです。もっと、あなたの傍にいたいのです」
「……俺の?」
 土方は驚いたようだった。
「俺の傍にいたいから、隊へ戻るというのか」
「はい」
「だが、隊に戻れば、俺にもおまえにも立場というものがある。今までのようにはいかないぞ」
「わかっています。でも、あなたの傍にいれば、土方さんを支えられるでしょう? それは……もちろん、記憶がないのだから、全然駄目だと思うけど、でも、ほんの少しでいい、あなたの役にたちたいから。必要とされたいから……」
「総司……」
 男の瞳の色が和らいだ。
 自然と身を寄せ合い、抱きしめあう。
 土方は総司の細い躯を両腕に抱きすくめ、優しく髪を撫でてくれた。あちこちに口づけながら、囁く。
「俺は幸せものだな。おまえに……そんなにも思ってもらって、本当に幸せだ」
「土方さん……」
「だが、俺もおまえが大切なんだ。隊に戻れば辛い事も沢山ある。それでも、おまえは俺の傍にいたいと願ってくれるのか」
「はい」
 こくりと頷いた総司を、しばらくの間、土方はじっと見つめていた。濡れたような黒い瞳に見つめられ、思わず頬が上気する。そんな愛らしい総司の様子に、土方は微笑んだ。頬に口づけてやりながら、云った。
「もし本当に隊へ戻るなら、幾つか話しておきたい事がある」
「……何?」
 思わず身構えた。


 記憶を奪ったこと、それが邪魔だったからということ。
 だから、おまえを愛していないのだと、そう告げられるかもしれない。


 恐怖に、総司は躯を固くした。怖くて不安で、土方の逞しい胸もとに縋りつく。
 そんな総司に、土方は苦笑した。
「怯えるな。何も怖い事なんざ、云わねぇよ」
「でも……っ」
「俺とおまえの関係なんだ」
 びくりと身を竦めた総司を宥めるように抱きしめ、言葉をつづけた。
「斉藤から聞いているかもしれねぇが、俺とおまえは仲が悪かった。ある幹部の死を切っ掛けに仲違いし、おまえは俺の敵対する男と親しくなったんだ」
「土方さんの敵対する男……?」
「おまえも先日逢っただろう。伊東甲子太郎だ」
「……」
「伊東とおまえの関係がどんなものだったか、俺は知らない。だが、おまえとこうなった以上、俺はおまえを手放すつもりはないし、むろん、伊東に奪われる気もない。だから、俺からの頼みは一つだけだ。伊東に近づかないでくれ」
「……土方さん」
 総司は目を見開いた。呆気にとられ、土方を見上げる。
 そんな総司に微かに笑いかけると、土方はそっと総司の躯を引き寄せた。その細い肩に額を押しあて、掠れた声で懇願する。
「頼む……総司。あいつにだけは近づかないと、約束してくれ。俺はおまえを失いたくない。おまえが伊東といるのを見るだけで、気が狂いそうになるんだ」
「……」
 総司は黙ったまま、抱きしめる土方の腕の力を感じていた。
 記憶を取り戻す前なら、喜びを感じただろう言葉。嫉妬してくれるのだと、その独占欲じみた言葉にも、頬を染めただろう。
 だが、今は違った。
 すべてを思い出してしまっているのだ。


(この人は……)


 新撰組に戻れば、総司も、否応なく隊内の抗争に巻き込まれる。
 おそらく再び、伊東は総司を手に入れようとしてくるだろう。実際、伊東とは友人としての関係だったが、それでも、総司が心を許した事は確かだ。その思想に傾きかけていたことも、事実だった。
 再び、伊東の派閥に入るとも限らない。
 だからこそ、土方は先手を打ってきたのだ。
 恋人という立場を利用して。
 それを卑怯だとは思わなかった。土方は冷徹な策士だ。隊のためなら、我が身を投げ出す事さえ厭わないだろう。土方にとって何よりも大切なのは、新撰組なのだ。そのためには、何を犠牲にしても構わない。
 総司など、駒の一つに過ぎぬに違いなかった。だからこそ、記憶を奪い、こうして監視し、今また、伊東への接近を恐れるがため釘を刺してきているのだ。
 土方は総司を愛してなどいない。
 その事を痛いほど思い知らされながら、総司は、だが、それでも自分は愛していると思った。心から、愛しているのだ。
 土方にとって隊がそうであるように、総司にとって、土方が何よりも大切だった。彼のためなら、どんな汚いこと、辛いことでも出来る。
 愛されていなくても、こうして傍に置いてくれる。
 夢のように幸せだと思った。ずっと憧れ恋しつづけてきた土方の傍にいられ、抱いてもらい、時折、愛していると囁いてもらえる。これ以上、何を望むと云うのだろう。


「……わかりました」
 沈黙の後、総司は答えた。
 土方を見上げ、にこりと愛らしく笑ってみせる。
「その、伊東さん……という人? には、絶対近づきませんから。声をかけられても、逃げちゃえばいいのでしょう?」
「逃げるまでしなくてもいいが」
 苦笑する土方に、総司は桜色の唇を尖らせた。
「もう、土方さんたら、曖昧すぎ。一緒にいるのを見ただけで、やきもち妬いてくれるんでしょ? だったら、逃げるしかないじゃないですか」
「やきもちって……そんな事、云ってねぇだろ」
「ふうん? じゃあ、仲良くしちゃおうかな。それでも、やきもち妬かない?」
 小首をかしげるようにして悪戯っぽく云うと、土方は忌々しげに舌打ちした。総司をぎゅっと両腕に抱きしめながら、低く唸る。
「おまえ、意外と性悪だな。そんな事してみろ、休息所でもつくって、そこに監禁しちまうぞ」
「監禁して、どうするの?」
「そうだな……。毎日、おまえを可愛がろうか。おまえの躯がとろけちまうぐらい抱いて、愛して、俺の事だけを感じさせてやるよ」
「やだ、それじゃお仕置きにならないもの」
 くすくす笑いながら、総司は土方の胸もとに小さな頭を擦りつけた。それが可愛くてたまらず、頬や額に口づけを落とす。そうしながら、土方は低く呟いた。
「本当は……おまえを隊に戻したくねぇ」
「……土方さん」
「わかっている。このままでいいはずがないと、俺もわかっている。だが、俺は……我儘だな。おまえを俺だけのものにしておきたい、他の誰にも見せたくない。そんな事をつい思っちまうのさ」
「私は、あなただけのものです」
 総司は澄んだ瞳で彼を見上げ、云った。
「何があっても、どこへ行っても、私は土方さんだけのもの。それだけは忘れないで……」
「総司……」
 愛しい恋人からの言葉に、土方は瞳の色を和らげた。細い肩を引き寄せ、そっと唇を重ねる。
 その甘くて優しい口づけを受けながら、総司は目を閉じた。


(私は、土方さんだけを愛している。今までも、そして、これからも)






 永遠に報われぬ恋だと、わかっていても。
 この人だけを愛してゆくと、そう心に固く決めたのだから。
「……」
 総司は視線を手許に戻すと、荷造りを続けた。あと少しで、土方が迎えに来てくれる。
 そうして、明日からは新しい日々が始まるのだ。
 絶対にふり返ってくれぬ男を愛しつづける、切ない日々が。
「でも……土方さんの傍にいられるのだもの」
 ともすれば、零れそうになる涙を堪え、総司は呟いた。自分に云い聞かせるように、そっと胸に手をあてる。
「それだけで幸せだから。私は、あの人の傍にいられるだけで……」
 嗚咽がもれた。
 そして、総司は一人泣いた。
 今だけはと、自分を少しだけ許してやりながら。もう、こんなふうに泣くことはすまいと、心に決めながら。
 俯き、ぽろぽろと涙をこぼす。
 そんな総司の髪を、肩を、柔らかな風がそっと優しく撫でていった。




















舞台は新選組屯所に移ります。新選組に戻った総司は……