これは愛ゆえなのだと
そう告げてくれたなら
どんな罪でも許せるのに
京のある店の前で、数人の男たちが対峙していた。
一方は身なりのよい端正な武家姿の男であり、もう一方は明らかにならず者風の浪人たちだった。それを遠巻きに、町の者たちが見守っている。
浪人たちが口々に叫んだ。
「おまえはおれたちの刀を足蹴にしたんだ!」
「すまんと謝ったが」
「そんな謝り方で済むかっ。刀は武士の魂だぞ」
「その武士の魂を人が通る場所に放り出しておいたのは、貴殿たちではないか」
どうやら、難癖をつけているのは浪士たちの方だった。
相手の侍は淡々とした口調で答えている。それがまた癪にさわったのだろう。浪人たちは刀に手をかけた。
が、その瞬間だった。
不意に横合いから、大量の水がざぁっと浪人たちに浴びせられた。それを浴びた浪人たちはとたんに目をおさえ、もがき転がった。
「……」
呆気にとられる侍の手が、不意にぐいっと引かれた。
「早く! こっちへ」
澄んだ声が告げ、男をつれて駆け出してゆく。それに驚きつつも、男は反射的に従った。
後ろで浪人たちが転げ回りながら叫んでいるのが聞こえ、思わず形のよい眉を顰めた。
「まさか、毒……」
「違いますよ。お酢です」
走りながらも、くすくす笑う声が答えた。男の視線の先で、ふり返らない若者の一つに束ねられた黒髪がゆらゆら揺れた。
「あなた、あのお店に迷惑をかけないようすぐに出たでしょう? だから、あのお店の人も感謝していて、で、私が頼んでお酢を拝借させて貰ったんです。そりゃ、あれが目に入れば痛いでしょうね」
そう話す声に、男は息を呑んだ。
初めから、おかしいと思っていたのだ。
この声。
この、聞きなれた澄んだ声……。
「おい! おまえ、そ……」
云いかけた瞬間だった。
突然、若者は足をとめた。
もうあの騒ぎのあった場所からは遠く離れ、どこかの神社の境内の中にいた。真っ赤に塗られた鳥居が新緑に映えて美しい。
若者はくるりとふり返り、悪戯っぽい瞳で彼を見上げた。
「災難でしたね。でも、もう大丈夫ですよ」
「……」
「あなた、すごく綺麗な顔しているし、優男風だから難癖つけられたのかな。それに、いい身なりしているし、どこかのご家中の方なのでしょう?」
「……おまえ……」
「私は総司。沖田総司といいます」
にっこりと可愛らしい笑顔をむけ、若者は彼を見上げた。
「まだ京に来たばかりでわからない事だらけだけど、性格でしょうか、あぁいう輩を見ると我慢できなくて。余計な事をしてしまったのなら、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げてから、総司は背をむけた。
その腕を、男は慌てて掴んだ。引きとめ、ふり返らせる。
だが、驚いたように彼を見上げた大きな瞳に、何も云えなくなってしまった。思わず視線をさまよわせる。
それに、総司はまた微笑んだ。
「すみません。先を急いでいるので、これで失礼させて頂いてもいいですか?」
「いや、その……総司?」
「はい」
いきなり呼び捨てにされ、総司はちょっと驚いた。
だが、目の前の男に不快な感情はおこらない。
あの騒ぎの中で見た時も、なんて綺麗な人だろうと思わず見惚れてしまったぐらいなのだ。
すらりとした長身に、黒い小袖と袴を纏っていた。年は二十代後半か。
艶やかに結い上げられた黒髪、切れの長い目。引き締まった口許は意志の強さをあらわし、凛々しかった。
先ほど、あの浪人たちに難癖をつけられ、不愉快そうに眉を顰めていてさえ、誰もが見惚れるほどの、端正で綺麗な顔だちだったのだ。
それが今、どこか焦燥と不安にみちた表情で、総司を見下ろしている。
濡れたような黒い瞳に見つめられ、胸がどきどきした。
「何でしょうか」
「その……礼をさせてくれないか」
「お礼? そんなのいいですよ」
「いや、それじゃ俺の気がすまない」
「じゃあね」
総司はくるくると瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「今度、蜜豆をおごって下さい。今日はこれから子供たちに手習いを教えないといけないから……」
「手習い?」
「寺小屋みたいなものをやっているんです。そこの家で」
神社のすぐ近くにある小さな家を指さし、総司はにっこり笑った。
「また、お暇な時にでも寄って下さい。その時に、蜜豆おごって貰いますから。あ、そうだ」
「何だ?」
小首をかしげた男に、総司は訊ねた。
「あなたの名前。まだ聞いていませんでした、教えて貰えますか」
「これは失敬。俺は土方だ。土方歳三」
「土方…さん?」
そう口にした総司に、土方は微笑んだ。それがまた、ふわりと優しい微笑で、総司は思わず頬をぽっと火照らせてしまった。
「土方さんですか……そう呼んでもいいですよね」
「あぁ」
「じゃあ、土方さん、今日はこれで。うちに来て下さるの、待っていますね」
総司は再び頭を下げると、踵を返した。さっさと歩みさってゆく。
その細い姿が小さな家に近づくと、中から待っていたらしい子供たちが駆け出してきた。何か楽しそうに笑いあっている。
「……」
それを見送った土方は、さきほどまで総司の腕を掴んでいた手に視線を落とし、低く呻いた。
総司は京に出て、まだ一月の若者だった。
他の若者たちのように信念や志があって上ったのではない。世話になった家を出た後、何となく足が向いてしまったのだ。
小さな家を借り、そこに住みはじめた。近所の子供たちに手習いを教え始めたのは、稼ぎのためもあったが、他にすることもなかったからだ。
いつも総司は子供たちと遊んだり学んだり、それ以外は家で家事をし、庭で花を育てて。平和で穏やかな日々を過ごしていた。
それは、確かに幸せな日々だった。
が、そんな中で、総司はふと何かを忘れているような心地になる事があった。
何のしがらみにも囚われぬ人生だった。
(なのに……どうしてだろう)
時折、夢を見た。
何がどうなのかはわからない。
ただ酷く苦しく切なく、辛い夢だった。
いったい何を意味するのか、考えることさえ拒否してしまうような……。
「……」
総司は布団を干しながら、ゆるく首をふった。
考えても仕方のない事なのだ。
今の生活だけを考えるべきだと、心の中で誰かが警鐘を鳴らしていた。それに従いたかった。
他のものを干そうと縁側に戻った時だった。
ふと視線を感じてふり返った総司は、そこに立つ男の姿に目を見開いた。いつからそこにいたのか、垣根にかるく手をかけるようにして、男は佇んでいた。
「土方さん……!」
総司は驚き、声をあげた。小走りに駆け寄る。
すると、土方は何かをさし出した。
「え……?」
「みやげだ。この前のお礼と言うべきかな」
「って……これ、菊屋の! 駄目ですよ、こんな高価なもの」
慌てて押し返そうとした総司に、土方は優しく微笑んだ。
「いいんだ、受け取ってくれ。蜜豆の方は別で奢らせてもらうから」
「そんな、尚更……」
「俺の気持ちなんだ。食べ物だから返されても困るし」
「奥様とかに差し上げたらいいじゃないですか」
「そんなのいねぇよ。妾も囲ってない、おまえも……」
(よく知っている事じゃねぇか)
そう云いかけ、土方は口をつぐんだ。
ふいっと目をそらせた彼に小首をかしげたが、総司は嬉しそうに菓子折を抱え込んだ。
「じゃあ、遠慮なく。でも、これっきりにして下さいね」
「それは……」
土方が僅かに息を呑んだ。
「それは、ここにはもう来るなって事か?」
「え? あ……いやだなぁ」
総司はくすくす笑った。
「こういう贅沢はって事ですよ。何でそうなっちゃうんですか?」
からかうように云う総司に、土方は僅かに首をふった。
それから、弾んだ足取りで縁側へあがってゆく総司を見送り、目を細めた。
どこから見ても、その姿形は総司なのだ。
だが、まるで別人のようだった。
性格そのものが全く違うのだ。
あのいつも冷ややかで美しく、張りつめた氷のようだった若者。誰も寄せ付けず、孤高の中で戦い続けていた。
何度、思った事か。
そんな彼に、手をさしのべてやりたいと。
だが、そんな事、総司は望んでなかった。いつも、冷たく澄んだ瞳で土方を見返していたのだ。その心にほんの僅かでも近寄ろうとすれば、すっと身を退けて避けられた。
それが苦しく辛く、愛しいだけに悲しかった。
だが、今の総司はどうだろう?
あけっぴろげで、優しく、可愛らしく彼に笑いかけてくる。
姿形は総司なのに、まったく別人のようだった。
それとも、本当に別人なのか──?
「……総司」
土方は上にあがるよう勧める総司を断り、縁側に腰を下ろした。ゆっくりと抜いた両刀を傍らに置きながら、訊ねた。
「おまえ、どういう身の上なんだ?」
「え?」
「言葉からして、江戸の者だろう? この時勢に、何の目的もなく京に出てきたとは……」
「あぁ」
総司は肩をすくめるようにして、笑った。
「京に出たのは、何となくです」
「何となくって……」
「いけませんか? んー、もう少し詳しく言うと、私、何も覚えていないのです」
「──」
「あ、名前は覚えていたんですけど。比叡山の麓にある村で行き倒れになっていたらしくて、目が覚めた時、名前以外は何も覚えてなかったのです。その村でしばらく世話になった後、何となく京に出てきた訳で……」
「……」
「でも、まぁ日常生活に支障がある訳じゃないし、何とかやっています。子供たちに物を教える生活って、楽しいんですよ」
そう云って、総司は明るく笑った。
が、一方で土方は深く考えこんでしまっていた。
どう考えても、これはあの総司だった。
総司が行方をくらました後、かなり探したのだが、そんな遠くまで行っていたとは。
手抜かりだったとしか思えない。
「わぁ、綺麗なお菓子ですね」
考え込む土方の傍で、総司は箱を開けて子供のように喜んでいた。
色とりどりの綺麗な京菓子がつめられ、まるで小さな花畑のようだ。
総司はうっとりしたように見つめてから、その一つを取り上げた。ぱくっと口に放り込んでから、「んん、おいしいー!」と笑った。その笑顔がまた可愛らしい花のようで、土方は思わず見惚れてしまった。
こんな笑顔、見た事がない。
いつも俯きがちで、表情一つかえなかった総司から、むけられた事もない笑顔に、土方は体中が熱くなるのを感じた。
思わず手をのばすと、不思議そうに総司が土方を見た。
その手首を掴み、そっと柔らかく引き寄せる。
次の瞬間、なめらかな頬に男の唇が優しくふれた。
「!」
総司はびっくりして目を見開いた。慌てて男の胸を押して突き放すと、叫んだ。
「な、な、何をするんですか……っ!」
「いや、挨拶だ」
「挨拶って、こんな挨拶ありますかっ? 聞いたことありませんよ……えぇっ、土方さんって陰間好みなんですか!?」
「……昼間から、大声で叫ぶ事じゃねぇだろ。それに、違うよ」
苦笑しながら答えた土方に、総司はぶんぶんっと首をふった。
「そんな否定されても信じられません! だって、今、私にした事……」
「だから、違うって。おまえだけは別なんだ。すげぇしたくなった、こんな事、他の誰にもした事ねぇよ」
「嘘。女の人とたくさんしているはずです。あなた、すっごく格好いいし綺麗な顔してるし」
「それはどうもありがとう」
「褒めている訳じゃ……それより、絶対もてるでしょう?」
「程ほどには。だが、口づけは誰ともしたことねぇんだ。これでも俺は身持ちが固くてな」
「こういう事をいきなりする人は、身持ちが固いなんて云いません」
「こういう事って……口づけか?」
そう訊ねると、土方は総司の頬を掌で包み込んだ。
顔を傾けながら近づけ、そっと唇を重ねてくる。それに、総司は大きく目を見開いた。
ばしばし男の胸を叩いて逃れようとしたが、その手も掴まれ握りこまれてしまう。
長い口づけの後、総司は大きく息を吐いた。
「……はぁーっ、息出来なくて死ぬかと思った……」
「おまえ、初心だなぁ、唇合わせただけなのに。なぁ、もっと濃厚なのしてやろうか?」
「遠慮させて頂きます」
慌てて土方からささっと距離を置いた総司に、彼は思わず笑った。声をあげて笑ってしまう。
楽しくて仕方なかった。
久しぶりに心から笑った気がした。
その後もからかったり笑いあったりしながら過ごしていたが、土方も忙しい身の上だ。遠く寺の鐘が告げる刻限に、両刀を取り、立ち上がった。
「じゃあな」
「あ……」
立ち上がった土方に、総司はちょっと淋しそうな顔をした。名残惜しげな表情で見上げる。
それに、土方は苦笑した。
手をのばし、指さきでそっとなめらかな頬を撫でてやる。
「……そんな顔するな。また来てやるから」
「なっ、どんな顔しているって……」
「すげぇ淋しそうな顔だ。けど、心配するな。いい子で待っていたら、また可愛がってやる」
「結構です!」
顔を真っ赤にして叫ぶ総司に笑いながら手をふり、土方は歩き出した。そのまま庭を抜け、路上に出てゆく。
しばらく歩いてゆくと、あの神社の傍も通り過ぎた。
とたん、表情がすっと変わった。
黒い瞳は鋭い光を湛え、口許が厳しく引き締まった。先程までの柔らかな雰囲気が消え失せ、冷徹な男の顔になる。
冷たいまなざしを、傍らの乞食に向けた。
路上で乞食をしている男に、聞き取れぬほど低い声で云った。
「……比叡山麓の村で事があったらしい。至急調べろ」
乞食は無言のまま頭を下げると、そそくさと筵を丸めて立ち上がった。背を丸めるようにして去ってゆく。
それをふり返る事もなく、土方は歩き出していった。
新連載スタートです。基本的に可愛い恋バナなので、楽しく読んでやって下さいね。