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国史跡 廃少菩提寺多宝塔及び石仏 甲西町 大正15年10月20日指定 小菩提寺は、興福寺の別院として天保3年(731年)に良弁によって創建された大寺院で、聖武天皇以後歴代天皇の勅願所となっている。 西応寺に現存する明応年間(1500年頃)に複写された菩提寺の古図である「円満山小菩提四至封彊の絵図」(町指定文化財)によると、 円満大般若台院と号し、七堂伽藍がそびえていた。また、「三十七坊」を教えたといわれる堂坊が存在していることがわかる。 〈石造多宝塔〉 わが国の石造美術史上において銘文をもつ多宝塔としては大変貴重なもので、「任治二年(1241年)辛丑七日」で、「願主僧良全・施主置氏文」と 刻されている、塔高は448pで、鎌倉時代の作である。 〈地蔵尊(三体)〉 三体の地蔵尊像は、それぞれ一体ずつ別の石に刻まれている。中尊は像高158pで手には短い踰杖を持ち、丹型光背の中に高肉彫して頭上に 笠石をのせている。 中尊は鎌倉初期、両尊は南北朝の作である。 〈閻魔像〉 将棋の駒型の石に、閻魔王・如来形・地蔵・像形二体の計五体が刻まれている。 石の高さは、160pで、中央に頂上を山形にした矩形の深い彫込みを作り、中に座高82pの閻魔座像を中肉彫している。 平成2年11月 甲西町教育委員会掲示より |
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【鎌倉・南北朝時代】 |
舟型光背の像で、中央は鎌倉初期(室町前期とも)、両側が南北朝期に造られた |
とされています。地蔵菩薩は子どもを救う、災難を除けるという願いから彫られます。 |
中央の地蔵尊は高さが158pあり、右手には短い錫杖を持ち、左手には宝珠を持っています。 |
この地蔵尊のように頭の上に笠が載っているのは珍しいものです。 |
また、向かって右の地蔵尊は169pあり、右手に蓮の花、左に宝珠を持ち、左の地蔵尊は |
159pで合掌しています。 |
これらの地蔵尊像は大体地蔵のうちの3体だともいわれて枠ます。 |
残りの3体は、菩提禅寺と阿爾陀院の地蔵尊(いずれも銘永正16年、1519)、 |
そして野洲市行畑の旧中山道沿いに背くらべ地蔵があります。これらの六体で六体地蔵と |
言われていますが、時代がまちまちなのでまったく別々のものかも知れません。 |
磨崖の五輸塔 |
大きな岩に彫られた磨崖(自然の大岩や崖の表面を磨いて刻んだもの) |
の五輸塔です。「歴史の小径」を上がって尾根に沿って行くと、 |
旧墓地の上に磨崖の五輪塔があります。所謂お墓です。五輸塔は、下か |
ら地輪、水輪、火輪、風輪、空輸と呼ばれており、中世の武士は皆、 |
五輸塔を建てました。阿弥陀信仰が中世から江戸初期に流行り、 |
ほとんどの墓の傍に五輸塔を建てました。 |
大小5個の五輪塔が彫られていますが、四つ目と五つ目が未完成です。 |
未完成のものは彫っている最中に、元亀元年(1570)6月5日の |
焼き打ちで完成できなかったのではないかと思われます。 |
この磨崖の五輪塔は古絵図の大講堂の下方にあったと言われていることから、 |
鐘楼または集会所の跡があるのではないかと思い、伽藍石 |
(柱を乗せる丸く彫った礎石)や餞頭のような礎石を捜して、1mほどの鉄棒 |
で探しましたが、少書提寺が焼失してから500年以上も経過し |
ているので、なかなか見つかりません。 |
【平安時代】 |
この閻魔さんは「血噴き地蔵」と呼ばれています。江戸時代に |
土砂流でうつ状せに倒されていた石を石屋さんがよい石だと |
思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなって、石から血が流れて |
いる夢を見たそうです。翌朝早く石を見に行ってひつくり返してみた |
ところ石像が彫ってあったという謂れからこのように呼ばれ |
ています。 |
地蔵菩薩は、子供を救うとか災難を救うという意味で彫られます。 |
また、地獄に送るとか極楽へ導くためにいろいろ諭され、修行を助け |
られるのが閻魔さんですが、地蔵さんの化身が閻魔さんです。 |
閻魔さんはほとんどが絵に描いてあるか木彫りです。 |
石彫りは国内にほとんどなく珍しいものです。右側3分の1は |
別石で修復されています。 |
謂れのように石を割ってしまったので、残る部分に合うようによく |
似た石を用いて彫つたものですが、修復に用いた石の質も厚さも元 |
の物とは異なり、傍で見ると時代の違いがはっきりとわかります。 |
これらは離れないようにくさびが打ってあり、裏には穴が聞いていて、 |
鉄の設釘を差し込めるようにしてあります。 |
写真の右側の像は、合掌している僧形、左側が阿弥陀仏です。 |
下の段の右側は錫杖と宝珠を持った地蔵、左側は袈裟を斜め |
にかけ数珠を持った憎形です。 |
全体の形として将棋の駒形というのは珍しいものです。 |
磨崖の地蔵尊 |
磨崖の地蔵尊です。右手に錫杖を持っています。 |
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(埋もれていた阿弥陀仏) |
菩提寺は、土葬ポ一般的だった時代に珍しく火葬の風習があり、大人は |
門徒衆が大葬にして埋葬し、ほとんどは本の墓標を建ててお墓としました。 |
子どちは土葬にして別の場所にも埋葬されました。 |
中世から江戸初期にかけて、阿弥陀憎仰が全国的に流行し、仏教が教 |
える死後の世界で極楽に行けるようにとの願いを込めて、 |
お墓的傍に阿弥陀仏を置いたも的と考えられます。 |
篠竹や薄ち葉に隠れて倒れていた阿弥陀さんを掘り起こし、此処に |
集めて並べたものです。石仏の殆どが阿弥陀仏ですが、 |
中には五輸塔も混じっていました。 |
菩提寺まちづくり協議会表示 |