向日市歴史散歩みどころ 2


50、朝堂院西第四堂跡
長岡宮の役所は、朝堂院・内裏・諸官庁と大きく分けられ、朝堂院は、宮の中央にあって国家的な儀式を行う場所で、ちょうど今の国会議事堂に相当します。朝堂院は南北に長く、長方形と正方形を重ねた形をしています。北側の長方形の区画を大極殿院、南側の正方形の区画を朝堂院と呼びます。長岡京時代の朝堂院は、東西に四堂ずつ、計八堂からなっています。西第四堂跡は、昭和57年(1982)の発掘調査により確認されました。平成4年(1992)に国の史跡に追加指定され、現在は、公園として整備されています。 阪急西向日駅・西口から約30mのところです。 
51、石塔寺
 上植野町御塔道にあり、鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前にある法華題目の石塔婆の傍らにお堂を立て、石塔寺と称したのが創建と伝えられています。お寺の名前から御塔道という名前がつきました。
鎌倉時代末、日像上人が鶏冠井の地を布教した際、上辻三郎四郎なる者が上人に昼食を差し上げようと用意しはじめたところ、立ちのぼる炊煙が空中にお題目(南無妙法蓮華経)を描き出しました。このうわさを耳にした村人たちは野良着のまま三郎四郎の家に集まり、庭先で太鼓を打ったり、すげ笠を手にして踊ったりして喜びを分かち合ったと言われています。
その時の踊りが「鶏冠井題目踊り」で、京都府の無形民族文化財に指定されています。毎年5月3日の花まつりに、鶏冠井題目踊りが奉納されます。  
53、須田家住宅
寺戸町西ノ段にあり、屋号を「松葉屋」といい、明治30年代まで醤油の製造販売を営んでいた旧家です。西国街道と愛宕道(物集女街道)の分岐点にあり、元和2年(1616)に作成された上之町検地帳にも記載されています。近年復元修復されました。京都府の指定文化財(建造物)に指定されており年2回ほど申込制により公開されています。  
54、元稲荷古墳
 向日神社北側の勝山公園内にあり、古墳時代前期(4世紀初頭)の全長約94mの前方後方墳です。この前方後方墳は全国的にも珍しく、乙訓地域の最古の古墳です。出土品には、刀剣類、斧、土師器の壺などがあります。また、埴輪の原型となる特殊壷形土器や特殊円筒埴輪も前方部から出土しています。 
55、向日神社
向日町北山にあり「明神(みょうじん)さん」の名で親しまれています。社伝によると奈良時代、養老2年(718)の創建と伝えられています。「延喜式」(927年成立)の神名帳に「向神社」と記載されています。應永25(1418)年に建造された本殿は、室町時代の『三間社流造』(さんげんしゃながれづくり)という建築様式で国の重要文化財に指定されています。 同神社所有の「紙本墨書日本書紀神代紀下巻」も重要文化財に指定されています。 
56、説法石
 向日神社の大鳥居南側にある大きな石です。京での日蓮宗の布教活動を禁止された日像上人が、徳治2年(1307)頃、この石の上で西国街道を行き交う人々に説法をしたと伝えられています。 
57、北山遺跡
向日神社周辺の段丘上に弥生時代の高地性集落と考えられる北山遺跡があります。元稲荷古墳の発掘のさい発見され比較的長期間の集落があったことがわかりました。ここはさらに縄文時代をさかのぼる旧石器時代の遺跡でもあり、寺戸町岸ノ下遺跡と同様のナイフ型石器が出土しています。 その後、天文館の周辺でも弥生中期の集落の跡、方形周溝墓などが発掘されています。
59、島坂
長岡京造営の最高責任者であった藤原種継が島坂で暗殺され、早良親王が謀反の疑いをかけられ、その後の廃都への動きを加速することになった場所です。また丞平5年(935)土佐守の任を終えて帰京しようとした紀貫之がここ島坂で友人の饗応を」うけたことが「土佐日記」にみえます。長岡京の曲水の宴を催す嶋院はこの近くと考えられますがまだ遺構は確認されていません。池の湧き水は「滝の下」から引いたと考えられます。 
63、太政官厨家跡・沢の東公園
溝から出土した木簡を整理して、それらが長岡京太政官厨家のものであることが分かりました。厨家(くりや)は公田からえられた地子(地代・税金)を収納することと、酒・食料を備えることが主な役目でした。木簡以外の遺物として食器・食膳具が大量に出土しています。食器には官職・整理番号・人名などを墨書したものなどもあります。現在は公園として整備されています。
64、勝林寺
上植野町。西山浄土宗。天正年中、方空上人中興、余不祥。寛政2年の宗門人別帳には浄土宗本山光明寺末寺とあります。本堂と庫裏とが一体になっていて、仏壇をそなえた仏間とその前室を中心に左右に脇室を付属する形式です。
65、上野城跡
昔から坂上田村麻呂の城跡と伝えてきました。坂上田村麻呂の邸のあったと伝承のある付近に中世に土塁を回らせた館を造らせたので、それがすたれたのち田村麻呂の城跡と伝承したと考えられます。鶏冠井城・物集女城・寺戸城と同じ時代の応仁の乱前後のことです。遺構は発掘されていません。
67、持泉寺
上植野町にあります。南禅寺53世伯英徳俊和尚が応永元年(1394)3月開山とする禅寺で現在も南禅寺末です。室町・戦国期の歴史は詳しくはわかりません。市指定文化財、鎌倉時代の木造阿弥陀如来立像があります。
69、向日神社御旅所
向日神社から鳳輦が上植野の御旅所においでになり、3日間の御旅の間は鳳輦(ほうれん)を不眠でお守りします。還幸の日、いわゆる「お祭りの日」に鳳輦は上植野の御旅所から、今里の赤根の天神に至り、向日町・寺戸・物集女などを経て神社に還幸します。もっとも盛んな時代では神官・氏子ら数百人が供奉したと記録にあります。お旅所の鳥居横に元禄13年銘の手水鉢があります。同じ年号の手水鉢が森本町泉福寺にもあります。
70、御田神社灯篭
明治初年まで乙訓周辺諸村にはそれぞれ神社がありました。上植野村には御田(おた)社がありましたが明治初年に向日神社に合祀されました。御田神社銘の灯篭は現在2箇所に移設されています。
71、法道寺
上植野町西小路にあります。寛永12年(1635)僧清林の開基といわれ、現在は京都誓願寺末です。市指定文化財、鎌倉時代木造地蔵菩薩半跏像があります。墓石に享保20年(1735)、文化2年(1806)などのものがあります。
72、鶏冠井シャナンボウ
市指定民俗文化財になっています。
平成4年 鶏冠井町シャナンボウは、鶏冠井在住の各位のご尽力により再興され保存会が発足したところです。シャナンボウ(子供みこし)を巡行することにより、町内の子供の相互交流を図り、鶏冠井に古くから伝わる伝統文化への理解と継承することを目的として、毎年5月の第2日曜日 向日神社の還幸祭の日に鶏冠井町内を巡行します。 シャナンボウの言われは、「五条大橋の武蔵坊弁慶とのやりとりで有名な源九郎判官義経は、幼年を「牛若丸」と言いました。その後、何者かに命を狙われた牛若丸は、「遮那王(しゃなおう)」という法名を授けられ、身の危険を逃れたと言い伝えられています。」当時の鶏冠井村の親たちは、子供達が元気で利発な遮那王のように健やかに育ってほしいと願いを込めて、子供御輿を「シャナンボゥ」と名付けられまた。 
73、長岡京春宮坊跡・ かしの木公園
 平成8・9年にこの地の周辺を発掘調査で、宮城(きゅうじょう:役所街)の東を区画する南北方向の溝(東一坊大路西側溝)を発見されました。溝からは、皇太子に関係する木簡、墨書土器や漆冠、装飾品の鼈甲(べっこう)、琥珀など珍しい品々が数多く見つかり、春宮坊(とうぐうぼう)という役所から長岡京廃都の時まとめて捨てられていたことが分かりました。
 春宮坊は、皇太子(東宮)の教育や警護、身の回りの世話をする役所です。したがってこの付近に桓武天皇の長男 安殿(あづ)皇太子(平城天皇)の住まいと春宮坊があったと思われます。
 中国では東の方向は新しい時代を意味し、一年の始めである春に通じるとして皇太子の住まいを皇帝の宮殿の東におきました。日本の制度もこれに習っています。
74、かぐや姫のまちづくり
「今は昔、竹取の翁というものありけり」で始まる竹取物語は、平安初期にできた最古の物語で、日本の昔話の中でも最も美しく、ロマンあふれる物語です。伝説のモデルとされる地は全国に数多くあるといわれています。向日市は、平安京以前の都「長岡京」の政治の中心地として栄えた、永い歴史と文化の香りただようまちです。また、遠い昔の夢を秘めた西の岡丘陵が市内の西部に竹の緑につつまれて横たわり、あたかも「かぐや姫」の発祥の地を想わせるものがあります。「竹取物語」は、およそ1200年前竹林の美しいこのまちで起きた物語である、という想いを馳せて歴史と文化とロマンに満ちた「かぐや姫のまちづくり」が始まりました。 
75、愛宕灯篭 正徳5年
江戸時代の乙訓地域も村の中をいくつかの小地域に区分して村の中のムラを構成していました。上植野村では七つのに分けられていてそれぞれに常夜灯がありました。現在の上植野町ではそれに対応するように7基の愛宕灯篭が確認されています。正徳5年(1715)の年号の愛宕灯篭は最も古い部類に属します。向日市内では24基の愛宕灯篭が確認できて灯篭マップが作成されています。 
76、歴史の道・西国街道筋(川原)
 西国街道は、京都の「東寺口」を起点として「向日町」を経て「摂津」へと抜ける古い街道で、京から西国に向かう主要幹線道路でした。乙訓郡内では西国街道のことを「山崎街道」「唐街道」とも言いました。西国街道の道筋に古いたたずまいを残す家並みの景観を生かし、散歩道として整備されました。  
77、一文橋
向日市と長岡京市の市境、西国街道が小畑川を渡る地点に架かる橋です。小畑川は暴れ川で、何度も洪水により橋が流されたため、通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替えの費用に充てたという伝承からこの名前がついています。  
78、長岡京条坊制
 長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、山崎津や淀津といった港も完備し、水陸交通の至便な地でした。長岡京の建設にあたっては、丘陵を削り、谷や低地を埋め立て、平坦化した敷地に平城京をモデルに設計されたと考えられています。朱雀大路をメインストリートに置き、その北端には皇居や役所などが納まる長岡宮が設けられました。長岡宮の宮域は、北を一条大路(または北京極大路)、南を二条大路、東西を両一坊大路で囲まれる東西約1キロ・南北約1.6キロの地域で、宮内には内裏・朝堂院をはじめ二官八省の建物が建てられました。そして、朱雀大路の東を左京、西を右京とする東西約4.3キロ、南北約5.3キロの広大な京が設けられました。京内は、条坊制と呼ぶ1800尺(約533m)を基準とする方眼で割り付けられ、これを坊(街区)とし、坊の境は東西方向に北京極から九条、南北方向は左・右京ともに一坊から四坊までの大路で区画されました。各坊はさらに小路によって16分割した町(120m四方)に細分され、番号がついていました。長岡京の条坊は、ほぼ正南北(正東西)に方位をそろえ、道路の幅も大路で24m〜15mあり、当時の都市計画の雄大さがうかがわれます。現在の土地区画・道路なども長岡京時代の条坊制にほぼ重なっています。  
79、長岡京
今から1200年以上も前、日本の都の中心がここ向日市にありました。桓武天皇は、延暦3(784)年に平城京から乙訓郡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に都を遷しました。それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。長岡京の中心部が長岡宮であり、その長岡宮は向日市にありました。  
80、平安京遷都
希望に満ちて造営された長岡京もわずか10年でその幕が閉じられました。延暦13(794)年突如、平安京へ遷都が断行されたのです。わずか10年とはいえ、造営工事も相当進んでいた時だけに、事実上の廃都は異常事態とも言えました。その原因としては、桓武天皇の母高野新笠をはじめとする近親者の相次ぐ死が早良親王の怨霊と占われたため新しい都を造って心機一転を図ったとする説や、小畑川・小泉川・桂川などの氾濫による洪水被害が原因だとする説、また、長岡京の規模に対する天皇の心情、経費的な問題からだとする説などがあり、いろいろな要素が重なり合って遷都が決定されたものと考えられています。  


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