向日市歴史散歩みどころ紹介

歴史再発見・向日市内版(各種広報物より引用しています)
00、向日町の由来
向日市の前身は向日町で、その名の由来は市域の鎮守である向日明神からきています。天正20(1592)年8月、豊臣秀吉は西国街道沿いの向日明神前に新町を造ることを認めました。当時の京都所司代前田玄以が向日前新町の建設を認める3か条の定書を下したことがその始まりと言われています。  
向日前新町は、西国街道西側の向日明神領の町と、寺戸村から割かれた上之町(カミンチョ)、そして鶏冠井村から割かれた下之町(シモンチョ)の三町から成っていました。上之町界隈(現在の向日市民会館から南、旧西国街道と物集女街道とが交差するあたり)では、宿屋・油屋・酒屋・醤油屋・呉服屋・魚屋・質屋・両替屋・医者など、多くの商店や職種の人々が軒を並べていました。現存する須田家(松葉屋)住宅は、当時の面影を残す数少ない建物です。
01、来迎寺(物集女町)
1873年に廃寺となった光勝寺を合併した。市指定文化財の平安時代の木造阿弥陀如来座像、木造薬師如来座像、室町時代の石造種子両界曼荼羅板碑がある。 
02、物集女城跡
 物集女町中条にある中世の城跡で、この地を支配していた物集女氏の居城と考えられています。東側には約100mの長さで堀や土塁の一部が残っています。長亨元年(1487)の上久世庄(現・京都市南区)の古文書に、物集女四郎右衛門尉光重という名前も見受けられます。織田信長が山城地方を治めるようになる天正元年(1573)桂川西岸一帯の支配を任せられた細川藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命令しました。しかし、物集女氏の当主忠重入道宗入はこれに従わず、天正3年(1575)に勝龍寺城において殺されてしまいました。これ以後、物集女氏と物集女城の記述は見当たりません。 
03、地名「物集女」の由来
地名の物集女(もずめ)は 河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだことによるとされている。「物集女」はかなり古くから記録に出てくる地名で、9世紀ごろの記録には「物」と「集」の2文字だけで「もず」と発音していた事例も見られる。  
04、中海道遺跡 ・古墳時代神殿跡
旧石器時代から縄文晩期・弥生時代中期の遺跡です。弥生後期・古墳時代の竪穴式住居跡も見つかっています*第2向陽小学校の生徒たちの学習がきっかけで向日市で最初に見つかった旧石器時代の遺跡です。1万年以上も昔の人々の道具も見つかっており、物集女村のルーツとも言える遺跡です。*1995年に発見された「祭殿」は東西8m、南北8.6mの掘立柱の建物で、周囲には溝がめぐらされています。溝から発見された土器から3世紀中頃の卑弥呼の時代のものと判明しました。当時日本の社会はいくつもの小さな国に分かれ、力を競っていましたが、中海道にもそうした国の王がいたのかもしれません。向日市の丘の上には古くて大きな前方後円墳がたくさんありますが、中海道の人々はそれらの古墳のご先祖だったという意見もあります。  
05、八日薬師祭り・光勝寺まつり
八日薬師は、別名光勝寺まつりとも言われ、光勝寺は今から1200年ほど昔に 今の物集女公民館付近を中心として明治11年頃まであったと伝えられています。  また、光勝寺の本尊薬師如来像は、弘法大師、嵯峨天皇の勅命を受けて彫刻製作された霊像とされ以降叡信深く奉られてきたと伝えられています。 嵯峨天皇の次帝淳和天皇は、この光勝寺を勅願所として、 毎月8日に地域の安全・豊作・長久の祈祷会を行い、1100年代にはいってからそれが年1回となり毎年9月8日に法会が行われるようになりました。そして、現在までの約800年間、途絶えることなく続けられてきた物集女の伝統的行事であります。遠くは、古来より近江の国や河内の国からも多数参拝されにぎわいをみせていましたが、 今の光勝寺の姿を見ることはできません。 しかし、本尊の薬師如来像については、今も来迎寺の境内にある薬師堂に安置されています。 
06、淳和天皇火葬塚
物集女町出口にある宮内庁陵です。第53代淳和天皇は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母は藤原百川の娘旅子です。兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し、甥の仁明天皇に皇位を譲りました。在位中は、政治改革を行うとともに「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成をおこないました。承和7年(840)に55歳で死去し、遺言により火葬にして京都市大原野の小塩山に散骨されました。ここは、天皇を火葬した場所とされています。 
07、琴の橋
今から500年以上も前のこと。京の都は応仁の乱で戦乱のるつぼと化していました。ここ乙訓の村々にも都落してきた公家や民衆の姿が見られました。ある夜のこと、暗い野良道を急ぐ数人連れが長い布で身を隠した一人の美しい姫を取り囲むかのように急ぎ足で歩いていました。「都の父君は、どうなされたであろうか」ちょうど、桂から寺戸へ入るころだった。道が川に行きあたったのでした。川は幅が2メートル近くあり、深く、そして橋がない。「せっかく、ここまで逃げ延びてきたのに…」身の不運とあきらめかかったその時に、川べりにそびえる椋の大樹から声が聞こえた。「お前の供がもつ琴を橋のかわりにしてかけなさい」姫はハットした。「そのお声は…」なんと、声の主は日頃から信仰している大日如来のものでした。姫はすぐ小者に命じて、愛用の琴を川にかけさせ、無事に逃げ延びたとのことです。その後、この場所に石橋がかけられ「琴の橋」と呼ばれて永年親しまれていたが、市道の舗装に伴いコンクリート橋に替えらました。 
08、物集女車塚古墳
物集女町南条にあり全長約45mの規模を持つ古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳です。丘陵から伸びる尾根を利用してほぼ東西方向に築かれています。後円部は直径28m・高さ7m、前方部は幅38m・高さ8mの大きさです。出土物には、埴輪、須恵器、馬具、刀剣類、装身具などが多くあります。毎年春と秋の2回、無料で内部の横穴式石室が一般公開されています。京都府の指定文化財(史跡)に指定されています。 
09、南条古墳群
物集町南条には7基の小規模古墳がありました。第2向陽小学校西側で現在は1基のみが半壊で残っています。出土遺物から古墳時代中期(5世紀前葉・中葉)のものとわかり、その時期の今里車塚古墳や恵解山古墳という近隣の古墳の大きさと比較すると、ここは直系23mの円墳と小さくなり旧首長の没落が考えられます。
10、寺戸川
寺戸用水とよばれるものです。「東寺百合文書」の絵図では今井用水とよばれています。いまは洛西中央幹線水路と称されているもので深田川のことで、下流は西羽束師川となって桂川・淀川となります。(深田川参照)。
11、たなかみさん(田ノ神祭り) ・物集女
田ノ神祭は 今でも日本の集落のあちこちに伝わる行事の一つで、5月の節句の頃(旧暦) 親たちは子供の健やかな成長と、 農作物の五穀豊穣を願いました。 物集女にも伝わる伝統行事の一つで、始まりは200年前とも300年前とも伝えられ 地域に根ざした行事として連綿と受け継がれています。 農繁期に入るこの時期、親たちは朝早くから夜遅くまで農作業に精を出し家に残る子供たちは子供心に農作物の大切さを知り親たちの作る作物の豊作を願いました。
「田ノ神 のみこし」を担いで各家々を巡ります。子供たちが一堂に会して一つのことをやり遂げる、また地域の人たちに子供たちの成長を共に喜んでいただける意義ある行事です。近年まで家々を巡ると「ちまき」や「柏餅」が配られました。子供のいる家はもちろん、子供の居ない家でも「ちまき」や「柏餅」を作り、ご近所や親戚に配られたそうです。 
12、千代桜天満宮
右大臣・菅原道真が左大臣・藤原時平の讒言で太宰府に左遷されたのは延喜元(901)年のことでした。道真が筑紫に向けて平安京を出たのは、うららかな春のこと。別れを惜しむ者、お供をとすがる者、多くの者が道真のもとに集まりました。ともに都を離れましたが、道真も供の者たちも心は暗く沈んでいました。ちょうど、桂川を渡り寺戸あたりまで来ると、1キロ先の西の岡に桜が咲いているのを見つけ、「あそこで、きっぱり都に別れを告げよう」と道真は心に決めました。丘の中腹に行くと見事な桜が100本余り、空をおおって咲いていました。道真は京の都の方に花びらが流れて散っていくのをじっと見つめて立ちつくしました。道真たちがが去った後、村人は道真の去りがたかった心を察し、そして子どもに知恵を授けてもらおうと天満宮を建てたのです。それが、「千代桜天満宮」で、桜はいつしか「天神のさくら」と呼ばれるようになりました。桜には道真の心が宿ってか、散り始めると決まって南風が吹き、都の方へと花びらを飛ばすといいます。 
13、桓武天皇
 宝亀元(770)年、称徳天皇(女帝孝謙天皇再即位、道鏡寵愛)の死によって壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天皇となったのは天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。皇后・皇太子には井上内親王、他戸親王母子が迎えられました。新天皇のもと、順調に進むかと見えた体制も、皇太子が早く天皇に即位するため、皇后とともに「のろい」をかけたことから一変しました。直ちに二人は幽閉され、その地位を剥奪されました。その後、新たに皇太子に擁立されたのが、山部親王、後の桓武天皇です。父は光仁天皇、母は渡来系の氏族を祖とする高野新笠です。母高野新笠が渡来系氏族であったことから当初、山部親王の天皇への即位には多くの反対がありましたが、時の実力者であった藤原百川らの後押しもあって皇太子へと進み、天応元(781)年、45歳で天皇に即位しました。 
15、竹林公園
京都市西京区洛西ニュータウンの開発のときに多数の竹林が伐採されたことから残る竹林について積極的に保存していこうということで記念事業として「竹林公園」が開園しました。竹・笹を主体にした回遊式庭園として全国的にも珍しい公園です。西の岡一体の孟宗竹の植林は意外に新しく江戸時代中期以降と考えられます。それ以前は真竹などの竹薮でした。
16、竹の径・西の岡丘陵の竹林とトリムコース
向日神社内の勝山公園を起点に、西ノ岡の美しい竹のトンネルを通って、竹林公園までの2.7kのトリムコースです。ジョギングや散歩コースとして多くの市民に親しまれています。*竹の径は向日市特産の「孟宗竹」を使った竹垣の散策道です。第6向陽小学校から寺戸大塚古墳・竹林公園まで「物集女垣・竹穂垣・古墳垣・寺戸垣」の4種類の竹垣が目を楽しませてくれています。
17、寺戸大塚古墳
寺戸町芝山にあり古墳時代前期(4世紀)の全長約94mの前方後円墳で、後円部は直径54m・高さ約10mの大きさです。前方部は竹林として開発され地形が変わり詳しいことはわかっていません。後円部の発掘調査により三角縁神獣鏡のほか多くの鏡や管玉や刀剣類も出土しています。これらと同じ形の鏡が出土する古墳が京都府南部の山代町椿井大塚山古墳です。これらの古墳の被葬者の間には同盟関係があったものと考えられています。
18、妙見山古墳
第6向陽小学校の西側に妙見山古墳という全長114mの古墳時代前期の代表的な大きな古墳がありましたが、竹林として開発され昭和42年(1967)に消滅しました。過去の略測図によると後円部の直径約69m、高さ約8m、前方部は幅約58m、高さ約5mです。後円部には竪穴式石室があり、後円部頂上には直径48センチの楕円形埴輪がありました。装身具・武具・工具などのほかに三角縁獣帯三神三獣鏡もありました。 
19、桓武天皇皇后陵・伝高畠陵
寺戸町大牧にあり、長岡京を築いた桓武天皇の皇后の乙牟漏(おとむろ)のお墓で宮内庁陵になっていて調査は許可されていません。地形図から直径約65m・高さ約7mの円形をしていることがわかります。しかし妙見山古墳の東200mの位置にあることから、円墳あるいは帆立貝式の前方後円墳の可能性が高く、すぐ近くの乾垣内遺跡から出土した埴輪棺などから古墳時代前期末から中期初頭のものと考えられます。高畠陵とするには時代が400年ほど遡るわけです。高畠陵は物集女町長野の長野古墓を想定します。 
20、宝菩提院廃寺跡、願徳寺、登り瓦窯跡、仁王門跡、宝塔礎石
乙訓地域での最古の寺院のひとつです。宝菩提院願徳寺といいます。平成12年(2000)、登り窯跡が発掘され土器・瓦からその時期は670−680年代と確定しました。長岡京時代の七寺に相当していると考えられます。寺縁起によると持統天皇の夢告によって創建されたとあります。向日市唯一の国宝「木造菩薩半跏像」が昭和37年(1962)までありさらに昭和39年(1964)には本堂などが解体され廃寺となりました。寺戸町の地名の由来の寺であり西京区大原野への移転は実に悔やまれます。古地図には仁王門の名も見え、明治時代に道路拡幅工事で出土した塔心礎、五重の塔の心柱を支えた巨大な礎石も近くの民家・O氏宅の庭石になっています。寺域は寺戸町西垣内・西野一帯ですが標識もないのは残念なことです。 
21、白鳳の泉
寺戸町西野の道路沿い、竹やぶと歩道の石組みのわずかなすきまに泉は残されています。宝菩提院廃寺の域内だから白鳳のときから存在していたとして「白鳳の泉」としたのでしょう。昭和30年代頃までは大原野へ帰る人や牛たちの渇きをいやした。水不足のときには近くの家から水汲みにいきました。その後、泉は小さくなり利用されなくなって湧水量は減ってしまっています。 
22、浄福寺跡
寺戸町南垣内の文化資料館の北側の竹やぶのところにあった。近年まで僧籍者特有の墓石の並んだ無縁墓地があったが現在はわずかな草地として残るのみである。向日市史では江戸時代の幕府・禁裏への御用竹の納入免除の項で寺戸6ヶ寺の中で名前が出てくる。現在はマンションが建ち道路拡幅されてしまっているので寺域確定はできない。H家の単独の寺という話もあるが確認できない。 
24、来迎寺(寺戸)
寺戸町中垣内、聖衆山来迎寺、毘沙門堂、西山浄土宗。文禄3年(1594)開創。享保15年(1730)寺戸大火で本尊以外焼失。明和4年(1767)本堂・庫裏再建。市指定文化財、鎌倉時代の木造阿弥陀如来立像がある。 
25、築榊講常夜燈
寺戸町初田にあり天保13年(1842)に伊勢参りの講の一つ築榊講の人々によって建てられました。現在は、家並みの谷間になっていますが、かつては一際高く明かりが灯され、西国街道を往来する人々の安全を祈っていました。
26、深田川
今から1400年前大陸からの渡来氏族である秦川勝が造った潅漑用水路です。嵐山付近で桂川をせき止め物集女・寺戸をへて羽束師で再び桂川に注ぎ込みます。この川は「西ノ岡用水」とも「寺戸用水」とも呼ばれ、中・近世には水利権をめぐって再三争いがありました。
27、深田橋
向日町の玄関口として京の三条大橋などと同様に公儀橋として、京都の代官が管理していた橋です。元禄10年(1697)に京都の代官により架けられた「唐橋」は、長さ5間・幅1間6尺の立派なものでした。そして正徳4年(1714)に寺戸村民により石橋に架け替えられてからは、村の管理になりました。
30、泉福寺
市指定文化財、室町時代の木造不空羂索観音座像がある 
31、増井の井戸
今から150年以上も前のこと、浪速の国、いまの大阪で突如、火事が起こりました。火は折からの強風にあおられ、火の気はどんどん広がるばかりです。ひたすら火が消えるのを神に祈るのみといった状態です。そのとき、まちの古老が夢まくらに神のお告げを聞いたのです。「西の岡、向日神社に霊験あらたかな井戸がある。その水をかけると火事はたちまちにして消えると」さっそく、浪速から1斗だるを積んだ早かごが乙訓の里にやってきて、お告げの場所を探すと向日神社境内の奥に井戸がありました。その水を汲み上げ、持ち帰って燃えさかる火に振りかけたところ、たちまち、火は衰え、ついに消えたそうです。その時の井戸が「増井の井戸」です。当時、そのお礼にと井戸の近くに石の鳥居を設けたそうです。鳥居には「天保、加嶋屋藤十郎…」などど刻まれ、現在も残っています。 
32、トンチの団兵衛さん
文禄元(1592)年、文禄の役の頃、時の太閤・豊臣秀吉は全国の諸大名に朝鮮出陣を命令しました。10数万人の軍団が西国街道を抜けようとしていました。その時、乙訓郡島ノ町の街道沿いに住む農民・団兵衛さんに思わぬ幸運が転がり込んだのでした。長い行列が途絶えた昼下がりのこと、高いひづめの音がしたかと思うと、庭先に一人の武士が駆け込んできました。「太閤殿下がのどが渇いたと申しておられる。即刻、お茶を用意せい」団兵衛さんがあわてて用意したところへ、家来に囲まれた太閤があらわれ、向日神社の方を指さしてたずねました。「つかぬことを聞くが、あの森は何という森か」名前などあろうはずがないのに、村でもトンチの名人で知られた団兵衛さんは、すかさず「はい、あれは勝山の森と申します」勝山と聞いて、「イクサの前に、イキなことを言う男よ。こいつは縁起がいい」太閤は、破顔一笑し、持っていた金の軍配と屋敷1丁、それに自分の出身地である尾張国愛知郡中村の中村という姓を団兵衛さんに与えて去りました。この後、その森を「勝山の森」と呼ぶようになりました。団兵衛さんの屋敷は明治35年頃まであったそうです。 
33、寺戸城跡
寺戸町古城にある城館跡である。建武3年(1336)室町幕府の御家人に列せられ、観応2年(1351)上久世庄の公文職となった竹田氏の居館といわれている。大正時代の地形図によれば標高40−44mの平坦地があり、3つのため池は城館の周囲の堀り切りと考えられる。南垣内は古地図では「御所ノ内」と記されていて寺戸城の城主の館跡と考えられる。発掘遺物も13,14世紀を中心としており、国人竹田氏の活躍した時期ともあう。
34、慶昌院
慈廣山慶昌院といい、もとは泰平山慶昌庵といいました。天正年間(天正元年は1573年)の創建と伝えています。天保6年(1835)希運曇開大和尚が再興し山号を慈廣山と改称しました。市指定文化財の江戸時代の絹本着色曇開和尚像があります。
35、はりこ池
西ノ岡丘陵には、はりこ池をはじめ、数多くのため池があります。水田への貴重な給水源の役目を果たしてきました。大池・はりこ池・れっけ池は五塚原古墳の東側にあたり、寺戸城の堀を利用してできたとも考えられます。公園として整備され四季折々の自然の美しさを楽しむことができます。 
36、五塚原古墳
寺戸町芝山ノ内「はりこ池」西側の山頂にあり、古墳時代前期(4世紀)の全長約94mの前方後円墳です。後円部は直径54m・高さ9m、前方部は幅36m・高さ4mで典型的な古墳時代前期の形をしています。 
37、長岡京国家祭祀跡
寺戸町古城。古代の祭祀は国家がこれを主導したところに特徴があります。京と京外の境目にあたるところで大量の土馬や祭祀具などが出土しました。 
38、向日市文化資料館 
古代の都長岡京(784−794)の宮跡の一角に遷都1200年(1984)を記念して建設・開館されました。常設展示「長岡京の歴史と文化」では発掘調査の成果を元に都に暮らす人々の生活を紹介しています。特別展や企画展、各種講演会、史跡めぐりなども行われています。
39、森本遺跡
昭和45年に市立第3向陽小学校の建設予定地から弥生時代の水田とその水路跡が発見されました。森本遺跡は、静岡県登呂遺跡と並ぶ代表的な弥生時代の水田跡として知られています。遺構からは土器や石器、鍬や石包丁などの農具のほか、非常にめずらしい人面付き土器が出土しています。 
40、長岡宮築地跡
鶏冠井町稲葉にあり、長岡宮の役所を囲む塀(土塁)の跡で、昭和56年(1981)に国の史跡に追加指定され、整備されました。長岡宮内裏内郭築地回廊の真南・一直線上にあたり、長岡京の建物が規則的に建築されていたことを裏付けています。 
41、東院の道・東院公園
市民温水プール建設敷地から、桓武天皇が平安京に遷都する前の2年間、仮の内裏として住んだとされる東院の跡が発掘されました。この東院跡をイメージして整備されたのが「東院の道」です。平成12年、ここより北東の位置で「東院・北苑」と思われる大規模建物群が新たに発掘されました。 二つの東院となりましたが木簡・墨書土器のきめてで学者の間では新東院が有力です。
42、北真経寺
 鶏冠井町御屋敷にある日蓮宗の寺院。江戸時代、僧侶の学校である壇林が置かれ、百名を超える学僧が勉強を共にしたと言われています。現在の本堂は、当時の講堂にあたり、壇林の面影を残す貴重な建物で、京都府の登録文化財(建造物)に指定されています。 
43、長岡宮内裏跡
 天皇と皇后、そしてこれに仕える女官たちの住まいが内裏です。桓武天皇は政治は内裏で儀式は朝堂院でというように使い分けしました。大極殿北の「西宮」のちに東側「東宮」に移建しました。長岡宮の内裏は皇后と天皇が住むようになって整備され、平安宮内裏の原型になりました。 
44、長岡宮大極殿・小安殿跡
向日市鶏冠井町には「大極殿(だいごくでん)」という地名があります。大極殿は1200年以上も前の建物で、その名称が今も地名として残っています。大極殿は、天皇が政治を司った場所で、都の中で最も重要な場所です。発掘調査によってその位置が確認されました。桓武天皇が政治を司ったところが「大極殿」(だいごくでん)です。「小安殿」(しょうあんでん)は、大極殿の後ろの建物を意味し「後殿」(こうでん)とも呼ばれています。昭和39年(1964)に国の史跡に指定され、現在、大極殿公園として市民の憩いの場となっています。毎年、11月11日には長岡京遷都を記念して「大極殿祭」が行われます。
45、長岡宮内裏内郭築地回廊跡
 天皇の住居が内裏です。内裏は、朝堂院の真北に位置し、門を共有するなど、一体となっているのが普通でした。しかし、昭和41年(1966)、朝堂院東方200mの位置から中央に土塀を設け、両側に廊下を通す特異な構造の施設「築地回廊」が発見されました。この築地回廊は、天皇を警護するために造られた廊下で、ここを兵衛たちが巡回したと思われます。鶏冠井町荒内にあり昭和48年(1973)に国の史跡に追加指定され公園として整備されています。
46、興隆寺跡 (鶏冠井城跡)
鶏冠井町興隆寺跡。以前は鶏冠井城跡と考えていたところですがまだ確定できていません。今の鶏冠井町大極殿という地名は明治10年以前は興隆寺・山開・牛廻りの3つの小字からなっていましたが、それ以降は興隆寺という名前は消滅しました。現在は竹やぶの中に無縁墓地があるのが見えるだけで中には入れません。過去の発掘で室町末期の金箔瓦・磁器なども出土しています。
47、南真経寺
鶏冠井町大極殿にある日蓮宗の寺院で鎌倉時代末期に日像上人の布教により、村人の全てが日蓮宗に改宗した信仰の中心地でもあります。もとは南・北真経寺は一つのお寺で現在の北真経寺の位置にありましたが檀林の開校に伴い現在の場所に建てられました。江戸時代初期に建立された本堂や開山堂は、京都府の文化財(建造物)に指定されています。 
48、乙訓郡衙跡
飛鳥文化から天平文化の時代にも乙訓地域に寺院がいくつかあった。律令体制が成立した奈良時代のころの郡司らの勤める郡役所を郡家・郡衙とよぶ。長岡宮の造営にさいしてその位置に宮殿の中心部分をもってきたと想定される。 
49、宝幢跡
大極殿と朝堂院は、天皇が政治を行い、朝参や朝賀など国家の重要な儀式をおこなう場です。その大極殿の前面には石敷の広場があり元旦の朝賀には、7基の幟旗(のぼりはた)(宝幢)が立てられ、儀式をもりあげました。その旗を立てた穴です。文化資料館ホール壁面にその様子の再現図が飾られています。 


戻る

みどころ紹介 2