罪と罰
五章 1 歩いていると、見える風景が普通と違うことに気づく。 周囲の草や木が、明らかに違う。植生にルドルフは詳しくはないが、それでもこの辺りの植物がおかしいことはわかる。 一言で言うと、歪んでいるのだ。 考えるまでもない。穢れの影響である。それは、目的地が近いことを示していた。 やっと、というのがルドルフの正直な感想である。 事実、今日は期限ぎりぎりの十五日である。それも、夕方だ。 昨日から、期限オーバーで依頼失敗という予感が、ルドルフの頭をよぎっていた。だが我が身に何も起こらないことと、ロッテがそれに関して何も言わないことが、まだ期限内ということを表しているはず。ルドルフは、そう考えることで、自身の焦燥感を宥めていた。 なだらかな丘陵をのぼりきると、穢れの影響が更に強く現れていた。嫌悪感という形で、身体からも感じられるほどだ。 視線の先には、朽ち果てた城壁が見えた。 ラウエルの城壁である。 「城壁が残っているんだな」 ルドルフは、思ったことを口に出した。穢れの影響を受け続けている城壁が、変容もせず混沌に回帰もせず、残っているとは思っていなかったからだ。 「魔帝国は、魔神信仰の国よ。もともと穢れの魔力に強い」 エリーゼがルドルフに答える。 「ふむ。するってーと、穢れに触れても、大丈夫な石材なのか?」 「そう。魔界から、直接持ってきたものね。この城壁が、周囲を致命的な穢れの汚染から防いでいる」 「皮肉なもんだな」 「そうともいえるけど、これは都市中心部と一般街区を区切る城壁なのよ。都市を囲む城壁は、既に朽ち果てて混沌回帰しているわ」 「と言うと?」 「魔神教団員でも末端の者たちは、穢れへの耐性があるとはいえ強くはない。ただの信者なら、ないに等しい。そういう者たちに、穢れの影響をあまり与えないためのものというのが正しいわね」 エリーゼの解説に、なるほど、とルドルフは頷く。 「そして、あの中は封印してあっても溢れ出てくる穢れで一杯というわけか」 「そういうことになるわね。気をつけた方がいいわよ」 「一応は、用意はしてきたけどな」 ルドルフは懐から、一枚の呪符を取り出した。 エリーゼには、一目でそれが何かわかったらしい。 「穢環境相殺の呪符ね。それも、相当な魔力強度をもってる」 「一応、ラウエルでも大丈夫なようにと、注文した奴だからな」 生物は、穢れの影響に対してほとんど無力である。必ず影響を受け、変容が始まり、最後には混沌に回帰させられる。 そういう過酷な環境へ行く者は、何かしらの対抗措置が必要であることは言うまでもない。魔術的に相殺できるならまだしも、そのような手段を持たない者は、影響を相殺してくれる物品を持参するのが一般的だ。ルドルフも、この呪符は今回の旅が始まる前に、馴染みの魔法物品店で購入していた。 「それだけの魔力強度だ。値がはったでしょうに」 「まあな。ぼったくられたと思うくらい取られた」 ルドルフは肩をすくめながら、呪符をロッテに渡した。 「え?」 ロッテが、きょとんとした顔をする。 「え、と言われても困るんだが」 「でも、それはルドルフさんが使うために購入したのでは……?」 「そのつもりだったんだがなあ」 ルドルフがデイジーから受けた依頼は、物品搬送である。だが蓋を開けてみれば、物品というのが人だった。勿論、装備を調えるときにはそんなことは想定外で、呪符も一枚しか用意していなかった。 「でしたら――」 「言ったろ。お前に何かあると、俺が困ったことになるんだ」 でも、とロッテがまだ何か言いかけて、少し黙る。 しばしルドルフに視線をやった後、頷いた。 「では、ありがたく使わせていただきます」 「効果は、術が発現してから一日保つ。範囲は、発現者から半径三メートル周囲」 「わかりました。それで、ルドルフさんは、どうするんですか?」 「まさか、半径三メートル以内に近づくなとは言わんだろう?」 「そんなことは言いませんけど」 「ま、俺にはこれがあるから」 ルドルフは、エルファルスを示した。 「その魔剣、環境相殺能力も?」 「まあな。ただ効果は所有主のみ。つまり、俺だけ。範囲の広い、そっちの方が使い勝手はいい」 「そうですか」 ロッテが頷いて、足を止めた。 ラウエルの城門前に着いたからだ。 「やっとついたな」 少し感慨深く、ルドルフは呟いた。 高くそびえる塔に挟まれた城門は、魔帝国の紋章を両脇に刻み込まれたものだった。石材からは、微かに魔力を感じる。確かに、都市の中心部を囲っていたというだけあって、過去にはなかなか雄壮なものだったことをうかがわせた。 ただ、戦争を経て、二千年近く放っておかれたものだ。朽ちているのも仕方がない。 「まさか、ここに、攻略や偵察でもない任務で来るとはね」 後背から声がした。いつの間にか追いついていたのだろう。リエージュとコスマーがいた。 「なんだ。まだいたのか」 ルドルフは聞こえよがしに言った。 当たり前よ、とリエージュが答えて、ロッテの方を見る。 「そろそろ、この中で何をしたいのか答えて貰いたいんだけど」 「断ります」 ロッテの返答は素っ気ない。 「ふんっ。まあいいわ。どうせ、神殿につけば、何をするのかわかるわけだし」 「行きましょう」 ロッテが、リエージュへ返答代わりに一瞥をあたえた後、ルドルフを促した。 おう、と頷き、ルドルフは門へと歩を進めた。 門には両開きの扉がある。戦禍によってボロボロではあるが、まだ扉としての役割を頑強に守っていた。通常ではあり得ないし、案の定、魔術処理されているようだ。 だが、ルドルフはその感じる魔力に違和感を憶え、扉に手をかけるのを躊躇する。 「……違う?」 囁くように呟いたその言葉が聞こえたのか、ロッテがルドルフの横に並んだ。 「お察しの通り、この扉にかかっているのは、魔神教団のものではなく、あたしたちの先人の魔法です」 そう口にしつつ、ロッテが扉に手をかざす。何事が短く囁くと、掌がぽうっと淡く光った。 「これで、開きます」 扉から感じていた魔力が、とても弱まっていた。同時に感じる穢れの力が強くなっていた。 「ふむ」 ルドルフは、手を伸ばして扉を開けた。横では、ロッテが穢環境相殺の呪符を発現させている。 扉にかかっているのは、ロッテの先人の魔法らしい。つまり、フィオラ教団員の誰かがかけた魔法である。 扉の魔力だけ城壁と違うというのは、恐らく、後で月の教団員がかけたのだろう。理由は考えるまでもない。中の穢れを、外に流通させないためだ。城壁は、元からその力を持っているが、扉まではそうはいかなかったらしい。いや、あったのかもしれないが、通行上とか何らかの理由で、かけ直す必要があったのだろう。 「完全に魔法を切ってしまわないのは、――考えるまでもないか」 ルドルフは肩をすくめた。 「後少ししたら、自動的に元の強度に戻ります。急ぎましょう」 「そうだな」 ルドルフは答えて、扉に手をかけた。 扉に閂はかかっておらず、すんなりと開いた。扉を抜けると、何かをすり抜けた感触がする。これが恐らく、扉にかかっていた魔法だろう。 門を抜けきると、視界が開けた。 宵闇の中、ラウエルの中心街区が目に入る。 見た目には、廃墟が立ち並んでいるだけである。穢れに侵された地とは、一見しただけではわからない。寂寥感を漂わせる光景に、当初に抱いていたイメージと、大幅なギャップがある。 ただし、ロッテを中心とした半径三メートルの半円状の空間が、見た目にも分かるくらい周囲と隔絶していた。呪符が発現して、その空間だけ穢れの力を相殺しているのだ。明らかに、周囲の空間は穢れで覆われている。変容できる物は、全てし尽くしたのが現状だろう。魔界産の石材以外何もないのは、そのせいだ。 後方には、そう離れず崇神派の二人も着いてきている。彼女たちも、別の半円状の空間の中にいる。恐らく、同じような術なのだろう。穢れの環境に強い魔神教徒までが、そういう物を用意していることからして、ここの穢れの強度が半端なく強いことが知れる。 どこかで鳥の羽音がする。次いで、奇声に似た甲高い鳴き声。また狼に似た遠吠えと、唸り声。 穢れの環境は、全てを混沌に回帰させるが、例外的に生み出すものもある。魔界と同じ環境であるが故に、自然発生的に出現する魔物達がそれだ。更に言えば、生物が穢れに侵される途中で、稀に魔物に変質してしまうこともある。穢れの環境内では、そういった魔物達が闊歩する空間だった。 「魔物(ノラ)に会う前に、急ぐか」 ルドルフは足を早めた。 ラウエル大神殿の位置は、遠目でもすぐに分かる。 貴族の屋敷が立ち並ぶ、ラウエルの中心街区。その西南部に、天に伸びる尖塔を備えた大伽藍が見える。おまけに、自分たちと同じように周囲とは隔絶した空間にあって、封印状態なのが見てとれる。 「ここの最奥じゃないんだな」 ルドルフの感想に、ロッテが答える。 「最奥にあるのは、魔帝国の皇宮です。今ではわかりにくいかもしれませんが、ラウエル大神殿の場所は、ラウエル全土の中心部に当たります」 「なるほどな」 「さて。そろそろ、ね」 不意に、エリーゼが立ち止まった。 何かと思って、ルドルフらも立ち止まる。 「潮時だわ」 「なんの?」 「弾よけの」 「ん?」 意味が分からず、ルドルフが眉を寄せた瞬間だった。 くすくすエリーゼが笑っている。 身体に何かされたような感触が走った。それが、魔法を受けたんだと気づいたとき、周囲の風景が暗転した。 「おい、何するんだ! ――って、あれ?」 ルドルフは怒鳴るが、怒鳴った方向には誰もいない。 左右を見回してみると、辺りの風景が先ほどとは全く違う。少し慌てて、ルドルフは更に周囲を探る。 「あたしは、ここにいます」 後背から、声がした。 ルドルフは少し安堵して、振り返る。そこにはロッテがいて、彼女も周囲を見回していた。 しかし、エリーゼはいない。そして、崇神派の二人も。 「どうやら、エリーゼさんが、あたしたちを転移させたみたいです」 「みたいだな」 魔法を受けた後に、自分の居場所が強制的に変わる。今回の旅で二度目の経験だ。こうも簡単に、相手の魔法を受けてしまったルドルフは、傭兵としての自信が少し揺らいでいた。確かに、崇神派の二人は強かったし、エリーゼの実力も垣間見た。だが、それでもこれが生死に関わる魔法であれば、ルドルフは死んでいたわけで、忸怩たる気分は消えなかった。 「何のために?」 多分ですが、とロッテの視線がルドルフを越えて、その先へ行く。 「崇神派の二人をあたしたちから離して、ここに来させるために」 ルドルフも気がついた。 巨大で雄壮で、そして背徳感漂う巨大な建築物。外壁には、ファーガスやブランシュ、ペンドア、リッチャーなどの忌まわしき魔人たちが彫り込まれ、扉の上にはポテイトウズ直属の五匹の魔王の像が、ルドルフらを睥睨していた。 ここは、ラウエル大神殿の目の前だった。 2 少し前方で、何が起こったのかリエージュはすぐに理解した。 「転移したわね」 それは、予測の範囲内だった。何分、同行していたとはいえ、味方とはほど遠い間柄だ。こうなることに、驚きはない。 「もしくは、させた?」 リエージュは、露骨に挑発的な視線を、エリーゼに送った。 「どうかしらね。そこまで教える義理もないと思うけど?」 エリーゼは、相変わらずの微笑を浮かべながら、リエージュらを眺めていた。 「ま、知ったところで、結末が変わるわけじゃない。あんたの旅はここでお終い」 「最初から、そのつもりだけど?」 「あら、殺される覚悟は出来ているんだ?」 「そんなものはしていないわね」 ふむ、とエリーゼか鼻で息をつく。次いで、不思議そうにリエージュらを見た。 しかし、と言葉を続ける。 「慌てて奴らを追わないのね。ちょっと意外かしら。馬鹿な選択ね。もっとも、お前の言い様ではないけど、どうしたって結末は変わるわけじゃないけど」 「こちらの転移を阻止するつもりなのね」 「そうでなければ、ここに私が残る意味もない」 「随分と余裕ぶった態度ね。前からかなり気に入らなかったわ」 「ぶったはいらない。余裕だけでいい」 「はん! わたしたちが、奴らをすぐに追わない理由、教えてあげるわ」 「行き先が分かっているのだったら、急いだ方がいいんじゃない?」 エリーゼが、意味ありげに上空を仰ぐ。 日は完全に落ちて、夜の帳が降りていた。 そして、丸く輝く月。 「なるほど、満月か」 コスマーが、納得の声を上げる。 ロッテは月の神官である。彼女の魔力が一番力を帯びるのは、月が一番輝く日であろうことは自明であった。 「それで、今日か。割と単純な理由だわね。それなら、さっさとあんたを倒して向こうに行きましょうか。急がない理由は、こっちも単純よ。あんたの方が、奴らよりちょっとばかし手強いからよ。奴らなんて、一瞬でどうとでも出来るわ。あんたが、奴らにはっついている方が厄介なのよ。それも、ここで終わるけどね」 「私をどうにかしたところで、お前は奴に斬られるだけだぞ」 「はあ?」 エリーゼの言い様に、リエージュは大仰に驚いて見せた。 「わたしが、あの男に斬られる? おもしろすぎる冗談だわ。〈魔女〉とやらも、そういう冗談を言うのね」 「冗談と思っていられるうちが、花よね。くすくす」 「冗談を言われるのはともかく、馬鹿にされるのは嫌いだわ。それが、身をわきまえない奴からならなおさら。わかった。あんたは、あの雑魚を買ってるようだし、後で良い物を見せてあげる。あの弱っちい人間の首。いや、それはおもしろくないわね。あいつもわたしに舐めた口叩いてくれたからね。呪詛で縛って、未来永劫苦しみ続けるようにしてあげましょうか」 そのとき、あんたは死んでるけどね。リエージュは、そう続けているときにエリーゼの雰囲気が変わっていることのに気がついた。 いつからか微笑が消え、視線の温度が急落していた。台詞の何かが逆鱗に触れたよう。 おい、とエリーゼか、リエージュの長広舌に言葉を挟んだ。 「あまり、私を不愉快にさせない方がいい」 「ふんっ。今までが、愉快だったとでも言うの?」 「犬も吠えすぎると、鬱陶しい。そろそろ黙れ」 「馬鹿にされるのは、嫌いだと言っておいたはずよ!」 「そろそろ、その向こう見ずな物言いにも飽きた。どこかへ消えろ。今なら、見逃してやる」 「あんた!」 リエージュは怒号する。 「そうか。なら、私が行く先を選んでやろう。お前たちにはもう用はないから、二度と会わない場所がいいな。くすくす」 エリーゼか、再び微笑する。先ほどまでの余裕の具現化のような微笑ではなく、凄惨をきわめきった微笑みだった。 膨大な魔力が稼動しているのが分かる。これほどの魔力が、一瞬で、しかも何の予備動作もなしに稼動することは、常識ではあり得ない。リエージュの常識でもそうだ。リエージュクラスの魔術師が何人も集まって、長期間の儀式を経ても得られるかどうかわからないぐらいである。 リエージュは、知らず後ずさった。血の気が引いているのが自覚できる。攻撃しろ、何もさせるな、という理性の警鐘と、逃げろ、とただ喚き散らす感情がせめぎ合っていた。 エリーゼが手を伸べる。 呪文の詠唱も、呪符の発現もなく。 彼女は、それで空間を歪ませた。 「!」 リエージュは声にならない、悲鳴を上げた。 本能が感じ取ったのだ。エリーゼか何をしようとしているのかを。 あり得ない。そう思った。異界への道を、何の儀式もなしに、無理矢理そこに開くなんて! いや、そこはそもそも異界なのだろうか。 リエージュの疑問は、エリーゼ本人によって解される。 「虚無に放逐したなら、あんたたちの顔を永久に見ないで済むわね」 「リ、リエージュ!」 コスマーの、普段なら絶対に聞くことが出来ない上擦った声が聞こえた。だが残念ながら、それを指摘して笑う気にならない。というより、そんなことは気にもならない。リエージュ自身が、普段ならあり得ないほどに怯えていたからだ。 コスマーが、足がすくんで動けないリエージュを抱えるようにして転移する。 転移は、阻止されなかった。 にゃあ、と肩の上でジャッキーが鳴いた。 そうね、とエリーゼが頷く。 「条件発動の自陣転移よ。巣に帰ったようね」 そんなエリーゼの返答に、ジャッキーが今度は鳴かずに、エリーゼの方を不思議そうな目で見た。 「どうかした?」 ジャッキーは答えず、首を横に傾げる。 「ジャッキーちゃんは、エリーゼ様らしくない処置に、疑問一杯なのですわ」 いつの間にやらそこにいたデイジーが、そう述べた。 「ふむ。そうかもしれない。くすくす。確かにそうね」 デイジーの登場に、エリーゼは全く驚かない。当初からその辺にいたのを分かっていたのだ。驚くに値しない。 「あたくしも疑問一杯ですわ。あのエリーゼ様が、まさか逃がしてしまうなんて、びっくらこきましたですわ」 「私はお前と違って、無用な殺生はしない主義よ」 「虚無に放逐しようとした方が、何を言っても説得力ナッシングですわ」 「あんなのは単なる脅しよ」 「その割には、本当に異空間への扉を開いたように見受けられましたが?」 「奴らがもっと馬鹿なら、見逃す価値もない」 「価値ねえ。あの方達に、何か価値でも見つけられたのですか?」 「別に。お前の思惑通りに動くのが嫌だったから」 「そんなワガママ言われても困りますですわ」 ぷんぷんと自分で言いながら、デイジーが腰に手を当てた。 「我が儘はお前だろう。お前が釣った魚だ。お前が処分するのが筋よ。狙った獲物かどうかは別として」 「むう。確かに、崇神派が動いている風な偽装はしましたけれど、まさか本当に動くとは考えてもみませんでしたわ。ま、結果オーライですけど」 「嘘をつけ。大方、動いたら動いたで、奴に何とかさせようと思っていたのだろう?」 「どこかの魔女が邪魔を致しましたけれど」 「私が奴に甘いのは、今に始まった訳じゃないぞ?」 「甘過ぎですわ。本来なら、ルドルフさまの役目なのですわ」 「違うな。お前の役目だ」 エリーゼは、そう言い切った。 むう、とデイジーが唸る。 「ルドルフさまはロッテ様の護衛ですわ。ロッテ様に襲ってくる者を排除するのは、当然ながら護衛の役目。それが例え焔魔衆であっても、崇神派であっても、ああ、それがなんと魔王であろうとも!」 そうデイジーが拳を握って力説した。 しかし、エリーゼはデイジーにつきあわず、核心に切り込んでいく。 「お前の目的は、そうじゃないだろう?」 「前にも申しましたとおり、過去の清算ですわ」 「それは表向きだろう。いや、それも奴にとっては裏か。まあ、それに対しては、私の参入も含めてお膳立てを整えたのは褒めてやるわ。だがそれも、お前にとってはついでだろう?」 「ええ、勿論」 デイジーが、にっこりと微笑む。 「あたくしの真の目的は、ルドルフさまをイジメて差し上げることですわ。ついでに言うなら、今までも、これからもそうですわ」 そう、ルドルフが聞いたら憤怒する台詞を堂々と口にした。 しかし、エリーゼは気にせず話を続ける。 「そのいじめだが、今回の旅だけで充分じゃない? 崇神派を同時に相手にするのは手に余ると思うけど」 「どこかの魔女(まおんな)のせいで、だいぶ楽になりましたですけど。エリーゼ様が合流してから、都合六回、あたくしは邪魔されたですわ」 「七回だ」 「そうでしたっけ?」 「城内にはいるときに、一回やったろう?」 「ああ、そうでした。思い出しました。突入しようとして、思いっきりエリーゼ様の結界で鼻を打ちましたですわ。とてもとても痛かったですわ」 デイジーが、今思い出したかのように、自分の鼻をさすった。 エリーゼは、それを冷淡に見つめながら言う。 「なあ、ラティスに伝えて貰おうか」 「ラティス様、にですか?」 デイジーがきょとんとした顔をした。 そう、とエリーゼは頷く。 「ラティスに、だ」 エリーゼの表情から、何か感じたのだろう。デイジーが、珍しく真剣な顔をした。 「うかがいます、ですわ」 「あまり、はしゃぎすぎるな、と」 「おっしゃっている意味が分かりませんが?」 「サウフィは、死んだんだ」 「ラティス様をおいて、ね」 「彼はただの人間。寿命が尽きれば死ぬ。それが夭折という形であろうと」 「人間で不老不死の貴方の台詞とは思えませんが」 「選択の問題だ」 「…………」 「ラティスもわかっているはずだ」 「……そうですね。ラティス様もわかっていらっしゃると思います。ですが、だからこそとは考えられませんか? ラティス様には、サウフィ様しかいないのです」 「だからだ。サウフィはサウフィ。奴は奴。そこをはき違えるな」 「おっしゃっている意味が分かりません」 「意味は、いずれわかる。だから、伝えておいてくれたらいい」 エリーゼの言葉に、デイジーがしばらく黙る。何かを推し量るようにして、エリーゼを見ている。 ややあって。 わかりました、と頷いた。 「ちゃんと伝えておきますですわ。意味はわかりかねますが」 「ふん。まあいいだろう。どうせすぐにわかることじゃない」 エリーゼは肩をすくめた。 「しかし、今回二度目の意外ですわ。エリーゼ様が、まさかラティス様のことを考えて下さったなんて」 「まさか。ラティスと私は敵同士なのよ?」 「王宮でご一緒に寝食を共にした仲なのに、冷たいですわね」 「私はいつだって彼の味方。そこをはき違えて貰っても困る」 「今までの台詞と、今の台詞では齟齬があるように感じますですわ」 「そういうのも、いずれわかる」 「はあ」 「ところで、そろそろではないのか?」 エリーゼは、大神殿の方に視線を向けた。次いで、周囲に軽く視線をやってから、デイジーに視線を戻した。 「そろそろですわね。そろそろスタンバっておきますですわ」 「ちゃんと結界の用意もしてあるじゃないか」 「さすがにそれくらいはしますですわ。出来る者がやらないと」 「あの時もそうだったんだがな」 「あの時のことは、もう言いっこなしですわ。ですから、こうしてあたくしがやっているわけですし」 「確かにな」 「ところで、エリーゼ様は、これからどうなさるおつもりですか?」 「退場したんだ。今更渦中に戻る気はない。お前の手際を見物させて貰うわ」 「二千年ぶりの大仕事ですから、身体がなまっちゃって上手くいかない可能性があるわけですわ」 「威張って言うことか」 「ですから、お手伝いしてくれたら嬉しいとか、考えているわけですわ」 「しない」 エリーゼの返答は素っ気ない。 ああなんてこと、とデイジーがわざとらしく言いながら手で顔を覆った。 「酷いですわ。失敗したら、エリーゼ様の責任なのですわ。しくしく」 「そうなったら、奴とあの娘は助けてあげるわ。くすくす。じゃあね」 エリーゼは、未だ下手な泣き真似をしているデイジーに手を上げて、その場から去っていった。 3 「あの、ルドルフさん」 ラウエル大神殿の前で、ロッテが遠慮がちに声をかけてきた。 「ん?」 巨大な大神殿を見上げていたルドルフは、横のロッテを見る。 「ルドルフさんの仕事は、これで終わったわけですけど」 「ああ、そういやそうだな」 ルドルフは、それに思い至った。 ルドルフの仕事は、ロッテを無事にラウエル大神殿に連れていくこと。だから、ロッテの言う通り、ここで仕事は完遂できたことになる。 「ふむ」 ルドルフは、これからどうしようと少し考え込んだ。 このまま、帰路についても構わない。これからロッテが何をするのかは知らないが、それは多分、とても危険なことになりそうな予感がある。自分の手に負えそうもないようなことだ。 それでも、このまま帰ろうという気分にもならないのが、正直なところだった。勿論、ロッテをそこにおいて帰る事に対する後ろめたさである。 だが当のロッテが、これからのルドルフの随伴を嫌うかもしれない。何しろ、ずっと秘密主義だったのだ。部外者のルドルフに何をするのか知られたくないかもしれなかった。その上、結果的に無事だったとはいえ、ルドルフ自身は致命傷寸前まで追い込まれたり、エリーゼなどに助けられたりで、結構失態続きであった。護衛としての信頼度は、あまりもたれていない気がした。 その辺はどうなんだろう。そう思いつつ、ルドルフはロッテを見た。 ロッテの方も、ルドルフに視線をやったままだった。少し頬が上気しているのは、これからの事に対する緊張なのだろうか。 「もし、よろしければ」 ロッテが、ルドルフに声をかける。少し声に緊張の色が出ていた。 「もう少し、おつきあい願いますか?」 「ん?」 「あ、勿論、正式な依頼として受け取って貰って構わないです。ちゃんと依頼料も払いますから」 「ふむ」 「えと、嫌なら結構なんですけど、これから先は、本当に危険になると思いますし――」 「危険は構わねえよ。もう今更だ。しかし、俺がいてもいいのか?」 ルドルフの質問に、ロッテが何故だか視線を下げて、自分の指を弄び始めた。 「いて、欲しいと思います」 その態度の理由は全く想像がつかないのだが、ルドルフがいても問題がないことは理解できた。なら、話は簡単である。 「オーケー。成立だ。今まで通り護衛でいいんだな?」 「あ、はい。ありがとうございます」 ロッテが深々と頭を下げた。 「しかし、本当に俺でいいのか? ああ、とは言っても、他に人はいないが」 「ルドルフさんは強い方です。そして、本当に心強い方でした」 いつだって、あたしの無事を最優先に。それが戦闘においてどんな足枷になろうとも。ロッテの、そう続けた言葉は、小さすぎてルドルフには聞こえなかった。 「お前にそう思われてるとは、意外だな。社交辞令出なきゃ」 「本心ですよ」 「それは、ありがとさんだな。で、これからどうするんだ? あまり、ここにいすぎるのも危険だと思うが」 エリーゼの転移で、途中で魔物に襲われる危険や、崇神派の二人との駆け引きは当面は避けられてはいる。だが、それもここでじっとしていたら、またやって来るだろう。 「ここで少し、お時間を貰います」 ロッテがそう言ってから、目を閉じてその場で集中を始めた。 魔力が稼動しているのが分かる。彼女の下には、魔法陣が展開されていく。その魔法陣は広く、ルドルフの足下を越して拡がっていった。 「おっ?」 魔法陣が広がる過程で、呪符で発現していた穢環境阻止のフィールドが消え去った。ロッテの魔力が内側から作用して消滅させたようだ。 だからといって、穢れが二人に這い寄ってくることはなかった。ロッテの魔法陣がそれを防いでいるようだ。 環境ぐらい、やはり自力で何とか出来るよな、こいつ。ルドルフは改めてそう思ったが、口にはせず、ロッテの行動を見守る。 月光がロッテを照らしていた。いや、ロッテだけを照らしているように見えた。そう思えてしまうほど、月からの光がロッテには際だって当たっている。 ロッテの魔力が、飛躍的に上がっていく。それは、焔魔衆や崇神派の崇魔平衆の全力を凌駕するほどだ。 「あたしが、デイジーさんから頼まれたこと。それは」 ロッテが、右手を前に伸べた。ラウエル大神殿の方だ。ルドルフは、ロッテの右手が、大神殿を包む封印の魔力に触れているのが分かる。 目が開いた。 「ここの封印を解くこと、です」 ロッテの右手から放出された魔力が、大神殿の封印魔力を駆逐していく。封印されていた魔力が消えていくのが、視覚でも分かる。覆っていた色が消えたのだ。 二千年ぶりに、封印が解かれた瞬間だった。 刹那、大神殿内部から、途方もない穢れがうねりをあげて、二人を呑み込もうとする。 二千年分溜まっていた穢れが、遂に行き場を見つけて溢れ出した。 しかし。 ロッテの魔法陣が、光を増す。 「すげえ……」 ルドルフは感嘆の声を上げた。そうするしかない現状だった。ロッテの魔法陣が、完全に穢れを防ぎきっているのだ。 「しかし、これ、大丈夫なのかよ?」 仕事を終え、肩で息をしているロッテに、ルドルフは尋ねる。 今、ロッテが解いたのは、大神殿の封印だ。これがあったから、穢れは周囲にそれほど流れ出ることはなかった。だから、街で買えるような穢環境相殺呪符程度で防げていたのだ。 今、大神殿から溢れ出している穢れは、圧倒的な力を持って周囲を穢し始めている。これはもう、魔界に近い。 「大丈夫、とおっしゃってました」 最後に大きく息をついて呼吸を整えたロッテが、後方に視線をやる。 「デイジーがか?」 「ええ。ほら、あれ」 「おお」 ロッテが指し示すまでもなく、ルドルフにも見えていた。ラウエル全体が何かの魔力で包まれているのだ。そしてそれが、穢れが流出を頑強に阻んでいる。 「恐らく、デイジーさんの結界です」 「裏で暗躍してたっていうんなら、これくらいは用意しておいてもらわんとな」 ルドルフは後方の結界を眺めながら、そう口にした。 「ここから先は、デイジーさんが何とかするでしょう」 「しかし、あいつ何するつもりなんだろう? せっかくの封印を解いたら、魔神教団が〈祭壇〉だったっけ? を取り戻そうとしに来るんじゃねえのか?」 ルドルフには、デイジーの意図が見えなかった。 「過去の清算、とおっしゃってましたけど」 「過去の清算ねえ」 「そして、〈祭壇〉問題を片づけると」 どうやって? ルドルフがそう問い返すより先に、強力な魔力を持った物体が、空中に現れたのが見えた。 『見つけた』 そんな声が、直接二人の脳内に響いた。 4 「遅かったですわね」 そんな声が奥からする。 転移してきたルークソールは、場から溢れ出る懐かしさと感動を覚えながらも、感情を押し殺して先客の方に視線をやった。 先客は、魔神信仰の象徴にして、魔神皇国を魔的に支えてきた柱である〈祭壇〉の横に立っていた。 小柄な女性である。赤地に銀の縫い取りの近衛服を着ていた。顔には大きな丸い眼鏡を、腰には細いレイピアを差している。 ルークソールは、その女性に見覚えがあった。忘れるわけがない。魔帝国戦争の折り、自分を一敗地にまみえさせ、二千年の間傷を癒すのに雌伏を余儀なくさせられた相手。 フェルスアトラの王女親衛隊、デイジー・ティアラ。 「お久しぶりですわ、ルークソール様。四年と千年と九九七年ぶりですわね」 緊張感の欠片もなく、にっこりとデイジーが微笑んだ。 ルークソールは、デイジーから違和感を感じた。記憶の中の彼女とは、相当に雰囲気が違うのだ。あの時の彼女は、もっと気怠げで陰鬱で、そして投げ遣りだった。だが、記憶と照合しても、彼女の魔力質は同一で、本人に間違いがない。 「その〈死〉の魔力。まさしく、あの時のプリンセスガードだな」 「ここにいたって、別人を派遣したりしませんですわ。これはあたくしの問題ですから」 「なるほどな。それで、何をしにここへ?」 「過去の清算ですわ」 「過去の清算?」 ええ、とデイジーが頷いた。遠い目をしている。ルークソールなど眼中にないようだ。 「あの時のあたくしは、全てがどうでもよかった。あの方を亡くし、この世の全てが本当にどうでもよかった。人類が滅びようと、世界が消滅しようと、関係がなかった……。あの方のいらっしゃらない世界に何の感慨もわかなかった。エリーゼ様に無理矢理連れてこられても、何もする気になれなかった。たまたま貴方がいたから、対応しただけで。だから、こんな不安定な状態は、あたくしの罪……」 「意味がわからんな。わざわざ封印を解いてまで、何をする気なのか?」 ペンドア教団本部で、ルークソールは大神殿封印解除の報告を聞いた。あり得ない。そう思った。だが調べてみると、実際に封印は解かれていた。フィオラの神官がやったのだろうが、そうする意味が分からない。内紛でもあるのか。 しかし、これは僥倖中の僥倖である。今まで、何人も解くことがかなわなかった封印を、向こうが解いたのだ。この機会を逃すわけにはいかない。ルークソールは、自ら出馬することにした。プリンセスガードや崇神派の陰がちらつき、焔魔衆は壊滅した。他に誰がいるというのか。 デイジーの視線は、もう元に戻っていた。 「ここに入ろうとしたら、あの封印をどうにかしなければなりませんでしょ? あれは人が作りし封印の中でも最高のもの。あれを解くには、あれを作った本人でないと無理ですわ」 「あのフィオラの神官、四部会だと思っていたが、それ以上、月の娘だったか」 「ペンドアの子のルークソール様とご一緒ですわね」 「人間と一緒にされるのは不愉快だ」 「うふふ」 「まあいい。お前が何を企んでいるのかは知らんが、封印は解かれた。これが何を意味するのかはわかるな?」 「ええ勿論。魔帝国が完全に滅び去る第一歩ですわ」 「滅び去る? 逆だ。魔神皇国が再興するのだ。その〈祭壇〉さえあれば、魔帝陛下の封印もどうにか出来よう」 「アヴルサックの件はエリーゼ様の管轄なので、そっちに言って下さいまし。どうせどこかその辺にいるでしょうから」 「エリーゼ! エリーゼ・ヴァラッハがいるというのか!」 ルークソールは身を乗り出す勢いで問い質した。 〈魔帝〉アヴルサックを討ち封印したエリーゼは、魔帝派最大の宿敵である。 ルークソールは笑いが込み上げてきた。これを笑わずに、いつ笑うというのか。 「何か、おもしろいことでも?」 「くくく、礼を言わせて貰うぞ、プリンセスガード。お前のおかげで、〈祭壇〉は奪還できる上に、〈魔女〉も討ち滅ぼし、魔帝陛下を復活させることが出来るのだ。こんな吉日はあるまい」 んー、とデイジーが眉根を寄せて、首を傾げた。 「礼を言われる心当たりは全くないのですわ。こうやって、簡単な餌で釣られているのに、何か誤解でもあるのでしょうか?」 「誤解? 違うな。策士策に溺れる。そういうことだ」 「溺れているつもりはございませんですわ。こんなに想定通りに事が進んでいるのに、どこに問題があるのかわかりかねますですわ」 「餌と、釣った相手に問題があった」 「ああ、わかりましたですわ」 ぽんとデイジーが掌をこぶしで打つ。 「ルークソール様の強気は、この〈祭壇〉があるからですわね」 デイジーの横にある〈祭壇〉。それ単体で、膨大な魔力がある。何しろ、魔界に直結し、魔界から直接魔神統魔力を魔神信徒に供給し続けているものだ。これの穢れが強いから、封印されてなお、ラウエルの周囲が穢れていたのだ。 今ルークソールは、〈祭壇〉のおかげで、無制限に魔力を使うことが出来る。 「あの時のようにはいかんぞ。あの時〈祭壇〉は既に封印が為された後だった。だが今は違う」 ルークソールは、笑みを浮かべた。もう負けない。負けるわけがない。崇魔王統たる自分が、人間如きに二度も負けるわけがない。 しかし、デイジーは状況を理解しているのかしていないのか、うんうんと頷いている。 「なるほどなるほど。確かに、こんなおもちゃがあれば、強気になるのはわかりますですわ」 「降伏しろと言うつもりはない。抵抗すればいい。滅ぼしてくれる」 ルークソールは、手にしていた槍を構えた。 構わず、デイジーがルークソールを見やる。 「あの時とは違うと、あたくしも言ったつもりですわ。こんなもの、いつでも壊せたんですわ」 デイジーの右手から、〈祭壇〉に向けて魔力が放射される。魔力は〈祭壇〉を割り、そして呆気なく壊した。 「なっ……」 ルークソールは絶句する。信じられないものを見たように、目を見開いている。 〈祭壇〉が壊れた。形だけではない。形だけならいつでも直せるし、〈祭壇〉そのものにも自動修復能力が備わっている。だがそうではない。〈祭壇〉はたった今、死んだ。完全にその機能が壊されたのだ。 ルークソールに注ぎ込まれていた魔力が突然、消失する。〈祭壇〉が死んだ証拠である。 「き、貴様……、な、何をやったのか、わかっているのか……」 ルークソールは、声が震えているのもわからず無意味な質問をしてしまう。 「ええ、はっきりと。言いましたでしょう。魔帝国が完全に滅びる第一歩って」 「き、貴様ぁ……!」 ルークソールは、憎悪の視線でデイジーを睨み付けた。 油断していたわけではない。そもそも、〈祭壇〉を破壊するなどということは、神でもない限り不可能なのだ。例え〈死〉の力であっても、プリンセスガードが操る程度の〈死〉で死ぬわけがない。それこそ、死の神『冥王』ファーガスでもないと無理なものだ。 そこまで考えて、ルークソールは思い至った。ファーガスに匹敵する〈死〉を扱える人物が、地上に一人いるということを。 フェルスアトラの永遠の王女。地上の〈死〉の統括者。 「き、貴様、まさか……〈死姫〉ラ――」 「うふふ。そろそろ始めましょうか。抵抗しても構いませんですわ」 デイジーが笑いながら、レイピアを抜いた。 5 「うおっ!」 ルドルフは、ロッテを抱えながら横に飛んだ。 上空にいた物が急降下してきたからだ。 そいつは、先ほど二人がいた場所の地面を爪で抉った。 全身に瘴気をまとった漆黒の毛皮。背中に生えるコウモリの翼。象をも優に超えるその巨体。それが、そいつだった。 「狼魔?」 「あ、あれは、クレイヤンです」 「クレイヤンだと!」 さすがのルドルフも、その名を聞いたことがあった。 〈狼魔王〉クレイヤン。狼魔の祖である魔王である。魔帝国戦争期に地上に召喚され、幾つもの国を滅ぼしたが、月の神官クラウディア・ティルケによって魔界へ退去させられた。そんな伝説級の魔王が目前にいる。 「魔王じゃないか! んなもん、さすがに手に余りすぎる!」 ルドルフは叫んだ。 魔王は、魔神に次ぐものだ。崇魔種とか魔族とかそういうレベルではない。 『くくく、僥倖だ。まさか、月の娘とは。ルークソールに礼を言わねばならん』 クレイヤンが、瘴気を溢れさせながら笑った。 「逃げるぞ!」 ルドルフは即決する。 「逃げ切れますか?」 「知るか!」 「来ます!」 ロッテの叫びと同時に、クレイヤンは息を大きく吸い込んだ。 「勁息(ブレス)か!」 ルドルフは、振り返りエルファルスを抜いた。 刹那、クレイヤンから吐かれた炎が、ルドルフらを襲う。 「くっ!」 エルファルスを構えて、勁息を防御する。エルファルスは光芒を放ち、クレイヤンの勁息攻撃を防ぎきった。 しかし、安心している暇はなかった。 「ルドルフさん!」 「!」 クレイヤンが、恐ろしい速度で滑空し、距離を詰めてきたのだ。 「舐めんな!」 ルドルフは逃走を中断し、踏み込んでクレイヤンに斬りかかった。ついでにロッテを突き飛ばし、その場から離す。 エルファルスが一閃するが、クレイヤンは直前で上昇してそれをかわした。 「飛ばれるのはまずいな」 ルドルフは上空のクレイヤンへ注意をやりながら、ロッテの方へ寄る。剣が届かない以上、ルドルフにはどうしようもない。 弓という手段もあるにはある。だがルドルフの所持する弓は、普通の弓で、魔王であるクレイヤンに傷一つつけられない。つけられる可能性があるのは、ルドルフの武器の中では、エルファルスだけである。 「とりあえず、あの中に入るぞ」 ルドルフは返答も聞かず、ロッテの手を引いて、ラウエル大神殿の中へと駆けていった。 「あ……」 堂内に入った瞬間、ロッテが声を上げる。 「どうした?」 「穢れの力がなくなってます」 「どういうことだ、それ?」 「恐らく、デイジーさんが意図を果たされたものかと思います」 「あいつ、何企んでやがったんだ」 ルドルフは後方を振り返る。 クレイヤンの姿が見えた。どうやら、追ってきたようだ。 「ここの奥は、何だ?」 前方に見える大扉をルドルフは見た。 「恐らく礼拝堂かと」 「つまり、行き止まりだな?」 「そうですね」 「なら、ここで迎撃だ」 ルドルフは、ロッテを自分の背後にやって、通路を滑空しながら追いかけてくるクレイヤンと相対した。 「デイジーマジカルミラクルリリカルワンダフルスライディーング!」 妙なテンションの声がしたかと思うと、ルドルフは足をかけられて仰向けにすっころんだ。気づけば、横でロッテも倒されている。 次の瞬間、ルドルフらの目の前をクレイヤンが通過した。 「うおっ」 視線で追うと、クレイヤンは止まりきれず礼拝堂の方へ入っていったようだ。礼拝堂の大扉はいつの間にか開いていた。 「今ですわ、ルドルフさま!」 デイジーの声がした。 「へ?」 どんな対応をしたらいいのかわからず、ルドルフは疑問の声を上げた。 しかし、状況はルドルフの意思から完全に離れたようだ。 「行きますですわ、ルドルフアターック!」 デイジーは、ルドルフを礼拝堂に蹴り混んだ。 「うわっ」 「では、頑張って下さいまし。終わったら開けて差し上げますですわ」 「なっ……!」 驚くルドルフに、今までの中で最高の笑みを浮かべ、デイジーが扉を閉じて結界を張った。恐るべき速度で、行為に一瞬の迷いもなかった。 「おい! こら! 開けろ!」 中からどんどんと扉を叩く音がする。 「デイジー、テメェ! 早く開けろ! って、ああっ、来た。うぉっ! く、くそうっ、やってやらあ! おい、眼鏡、覚えてやがれよ! 後で絶対シメてやるからな!」 やがて音は、獣の咆哮や剣の音に取って代わられていく。なかなか激しい戦闘が繰り広げられているようである。 「あ、あのデイジーさん。これはちょっと酷すぎるのでは……?」 「定命を選んだ罰ですわ」 つんとデイジーが拗ねたよう口にした。 「……え?」 「いえ、こちらの話ですわ。ご心配なく。ルドルフさまは大丈夫ですわ。この程度でルドルフさまはやられません」 「でも、相手は魔王……」 「相手が神だって、ルドルフさまは負けませんですわ。だってあたくしがもう死なせませんもの」 デイジーが微笑みながら、扉を見つめた。 〈了〉 |