季節は疾風怒濤
02

   1

 少女は、廊下の壁にもたれてゆっくりと、そして静かに向こう側の様子をうかがう。視線の先に人の姿が見えないことを確認すると、即座に駆け出し、一気に階段ホールまでやってきた。
 三階にある東西の階段は、どちらも二階までしか繋がっていない。一階に降りるには二階中央の大階段を使わねばならなかった。現在西側にいる少女も、窓から飛び降りるとか、そういう非常識なことをしないのであれば、当然ながら大階段を使わないと一階には降りられない。少女は辺りに気を配りながら、大階段近くまでやってくる。
 大階段は玄関ホールから伸びているもので、使用人と家人との共同区画である。そういう場所だから、そこにはだいたいにおいて人の姿があった。現在も三人ほどのメイドが清掃などの業務をこなしている。
 少女はメイド達の位置関係を把握するや否や、音もなく跳躍した。空中で器用に身体を捻り、手摺に横向きに腰掛ける。そして、何の躊躇いもなく、手摺を滑り降り始めた。
「ひゃっほぅ!」
 その声で気がついたのか、メイド達は手摺を滑り降りてくる少女に驚きの声を上げた。
「き、きゃあ!」
「マ、マリアお嬢様っ!」
 手摺は、メイド達が毎日丹念に磨いているため、とても滑りがよかった。マリア・ウェンディは、まさしく風を切りながら手摺を滑り降りていった。
 手摺の終点近くになると、その勢いのまま飛び降りた。着地地点は、驚愕しているメイド達の中心地。脚のバネを利かせて衝撃を最大限緩和すると、唖然とするメイド達の間を走り抜けていった。
「ちょっと遊びに行ってくるわね〜」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あっ……」
 メイド達が我に返ったときには、既にマリア・ウェンディはホールを抜けていて、玄関扉に手をかけていた。
「お、お待ち下さい、お嬢様!」
「いってきまあす!」
 憎らしいほど愛らしく微笑んだマリア・ウェンディは、慌てたメイドの声を背中に聞きながら、外に走り出していった。
 テーラー家で見られる、いつもの光景である。
「またやられた……」
 そうメイド達が呟いて溜息をつくのも、いつもの光景だった。
 しばらくの沈黙の後。
「フィスク様に言ってくるわね……」
 一人のメイドが他の二人に告げる。フィスクとは、テーラー家の執事である。
 お願い、と頷いた後、もう一人が天を仰ぎながら、疲れた声を吐いた。
「どうして、うちのお嬢様方はああなのかしら……」

 外に出たマリア・ウェンディであるが、すぐに邸外に飛び出したわけではない。まず向かったのは、庭師シェフェルの家だった。
 シェフェルの一人娘クレタとマリア・ウェンディは年格好がほぼ同じである。だから、マリア・ウェンディはお忍びで外に出る時は、いつもクレタの服を借りているのだ。
「今日もお出になられるのですか?」
 マリア・ウェンディの服を丁寧にタンスに仕舞いながら、クレタが尋ねた。
 うん、とマリア・ウェンディは当然のように頷く。
「今、こっちにサーカス団が来てるらしいのよ!」
「サーカス団ですか?」
「そう。なかなか評判のサーカス団らしくてね。見てみたいと思わない?」
「こちらにお呼びになられたらよろしいのでは?」
「そんなの、面白くないじゃない。ああいうのは、たくさんの観衆の中で観るのがいいのよ。あたしたち家族だけで観たって、そんなに盛り上がらないし興醒めもいいとこだわ」
「そんなものでしょうか?」
「そんなものよ。――さて、行ってくるわね」
 マリア・ウェンディは、カーチフをかぶりながら、クレタの方を向いた。
 え、とクレタが驚く。
「ラッセル卿は、まだ来ていませんけど?」
「ああ、ラッセルの奴は、今回は来ないの」
「――は?」
「なんだか、昨夜からいないのよね、あいつ。どこほっつき歩いてるかは知らないけど、捕まんないし、別にいいやと思ってさ」
 マリア・ウェンディは、ちらりと屋敷の方角へ視線をやった。
「では、他の者は?」
「いないわよ」
「――え? それでは護衛の者は?」
「なし」
「そ、そんな! 危険すぎます! いけません!」
「だーいじょうぶよ、大丈夫。危険なんてあるわけないじゃん」
 とっても気軽にマリア・ウェンディは答えた。どのくらい気軽かというと、昨日刺客に狙われたことなど、記憶の外に追いやっているほどである。
「そ、そんな、もしものことがあったら……!」
「その時は、その時だって」
「その時があってからでは遅いです!」
 クレタが、マリア・ウェンディの袖を掴みながら、半ば叫ぶように言った。
 ふう、とマリア・ウェンディは溜息をつく。
「そんなに心配?」
 小首を傾げながら尋ねる。
「あ、当たり前です!」
「そう。なら仕方ないわね。さっさと用意して」
「――は?」
 クレタがきょとんとする。
「……何の用意を……?」
「行く用意よ」
「何処へですか?」
「街に決まってるじゃない」
 当然のごとくマリア・ウェンディは答えた。
「え、ええーっ!」
 クレタが驚愕の声を上げる。
「わ、私がですか?」
「そうよー。あたしは街へ行く。でも護衛はいない。クレタはあたしが心配。なら、クレタがあたしについてくるのが、一番良いと思わない?」
 マリア・ウェンディは、ね? と、指を一本立てて見せた。
「……マリアお嬢様が、街に出ないというのが一番いい気がしますけど……」
 クレタが辛うじて反論した。ただ、自分でもその反論がマリア・ウェンディには通用しないと思っているのだろう。声は小声だった。
 勿論、通用しなかった。
「あたしが街に出るのは、大前提よ。決定項ってやつ。今さらそれは変えらんないわー」
 さらりとマリア・ウェンディは答える。
「どうして、街へ行くのは決定項なんでしょうか?」
「そんなの、あたしが出たいからに決まってるじゃない」
「……そうですよね。はは……」
 クレタが軽く視線を逸らしながら、渇いた微苦笑をした。今後のことを悟ったのかも知れない。
「で、どうするの?」
「――お供いたします」
 クレタが、仕方なさそうに頷いた。


   2

 次から次へと来る料理に呆れながら、クレタが目の前の席に座っているマリア・ウェンディを見た。彼女は、ああだこうだクレタに話しかけながら、次々と料理を平らげていた。この細い身体の何処に、これだけの食べ物を貯めておける場所があるのだろうか、本気で悩むところだ。
「クレタは食べないの?」
 不意に会話を中断させて、マリア・ウェンディが先ほどから食べている様子の見えないクレタに尋ねた。
「いえ、もう十分食べました」
「ホントに? さっき一皿頼んだっきりじゃない。それで足りるの?」
「ええ、大丈夫です」
「ふーん。小食なのね」
 マリアお嬢様が食べ過ぎなんです。クレタは、そういう言葉を辛うじて飲み込んだ。
 マリア・ウェンディとクレタは、北広場近くの酒場で朝食をとっていた。
 マリア・ウェンディの観たいサーカス団は、北広場で公演を行うことになっていた。最初、二人はそこへ向かったのだが、まだ公演前で設営準備をしていたので、先に腹ごしらえをしようということになったのだ。
「やっぱ、ちょっと早く来すぎたかしら」
 マリア・ウェンディは、食事を一段落させてから呟くように言った。
「そうですね。まだ世間は朝食時ですから」
 クレタが答える。その答を補強するかのように、酒場の中は朝食を求める客で賑わっていた。傭兵風の者たちがよく見えることから、ここはそういう者たちのよく使う店だと知れる。
 傭兵風の者たちは、大抵が壁の貼り紙に一度は目を通していた。その貼り紙は、仕事募集の貼り紙である。傭兵たちは、貼り紙の内容と、自分の実力と時間、そして賃金が合えば、依頼主の所へ向かうのである。
 何気なくその様子を見ていたマリア・ウェンディは、傭兵風の者たちの中に、見知った仏頂面を見つけた。
「あっ、あいつは」
 その青年は、相変わらずの目つきの悪い目で、貼り紙に軽く目を通していた。だが合う仕事が見つからなかったのか、すぐに貼り紙に背を向けてカウンターに向かっていった。
「どうかしましたか?」
 視線が誰かを追うように移動しているマリア・ウェンディに、クレタも、その視線を追いながら尋ねた。
「誰かお知り合いですか?」
「うん、そんなところ。もしかしたら、護衛が出来たかもしれない」
 そう微笑しながら言うと、マリア・ウェンディは立ち上がり、青年の方へ向かっていった。
「あ、マリアお嬢様っ」
 慌ててクレタも続く。
 マリア・ウェンディは、カウンター前に立つ青年の横に並びかけた。
「ねえ、あなた。昨日の傭兵でしょ」
 声に気がついたらしい青年が、面倒そうに振り向く。その視線がマリア・ウェンディを見つけた時、わずかに眉をひそめた。
「ああ、昨日の」
「覚えてくれてた?」
「一応な」
「ここに泊まってたんだ?」
「ああ」
「ねえ、今日も空いてる?」
 続けざまに問うマリア・ウェンディを、青年は胡乱な目で見た。
「また、護衛として雇いたいのよ」
「昨日のあいつはどうした?」
「ラッセルのこと? 今日は、あいついないの」
「そうか」
 青年が、一度視線を逸らした。
「あたしがちゃんとお金を払うことは実証済みでしょ? 見た目や年齢で判断してると、おいしい仕事を失うわよ」
 マリア・ウェンディは、依頼を受けるか思案している風の青年に声をかけた。
 それがきっかけになったわけでもなさそうだが、青年は再び視線を向けて頷いた。
「今日一日だな」
「そうよ」
「えっと、あのマリアお嬢様……?」
 話についていけず、マリア・ウェンディの横で所在なげに立っていたクレタが、声を挟んできた。
「なに?」
「このお方は……?」
 クレタが、青年の方に視線をやりながら尋ねる。
「ああ、傭兵よ。今からあたしたちの護衛をしてくれるわ。えっと、ザヴィアー・ウェズリーって言ったっけ?」
「ああ」
「この娘はクレタ・シェフェル。えっと、……まあ、あたしの友人よ」
「あ、あの、よろしくお願いします」
「ああ」
 慌てて頭を下げるクレタに、何の感慨もなさそうにザヴィアーが答えた。
「あの、マリアお嬢様」
 クレタがマリア・ウェンディの袖を引っ張り、ザヴィアーから少し離れた。ザヴィアーは、それを興味なさそうに見やった後、カウンターの方に再び向いて、朝食の注文を始めた。
「なに?」
「あの、どういうお知り合いで……?」
 クレタが声を潜めて尋ねる。
 彼と? とマリア・ウェンディはザヴィアーの方にちらりと視線をやった。
「昨日、雇ったのよ」
「昨日、ですか?」
「そう。言ってなかったけ? 昨日、ラッセルとはぐれた時、彼を雇ったのよ。狙われたからね」
「ね、狙われた!」
 思わずクレタが声を上げて、慌てて自分で口を押さえた。
「うん」
 実は今まで忘れてたけど。そうあっけらかんとマリア・ウェンディは頷いた。
「そ、それで、その犯人は捕まったのですか?」
「ううん。逃げられた」
「……ということは、まだ犯人が領内をうろついている可能性があるってことですよね?」
「そうなるかな」
「か、帰りましょう、マリアお嬢様!」
 クレタが引きつった顔で、マリア・ウェンディの袖を掴んだ。
「何言ってんの、ここまで来て。帰らないわよ、あたしは」
「ここにいては危険です」
「大丈夫よ。そのために、あいつを雇ったんだもの。護衛を連れてけって言ったのはクレタの方じゃない。その護衛を雇ったんだから、問題はないでしょ?」
「そ、それはそうですが……」
「それにあいつ、結構やるわよ」
 昨日の事を思い出しながら、マリア・ウェンディは言葉を言い足した。
「で、でも……」
「心配なら、クレタは帰る?」
「それは意味がありません」
「なら、行くしかないわね」
「う……、うう……、それは、そうかもしれないですけど……」
「じゃあ、決まりね。三人でサーカスへ行くわよ!」
 マリア・ウェンディは、掴まれた腕で逆にクレタを掴んでザヴィアーの所へ戻っていく。
 わかりました……、とクレタは諦めたような表情を浮かべながら、マリア・ウェンディに引っ張られていった。


   3

 エンゼルテールに来ているサーカス団は、ウェイクサーカス団という、西方を公演しながら回っている流浪サーカス団である。規模は小さいが、知名度はそれなりにあった。評判も悪くなく、特にアクロバットショーに定評があった。
 設営された会場は思ったより広く、なかなかの大人数を収容できるようにされていた。
 ステージは円形で、それをぐるりと取り囲むように客席が設置されている。マリア・ウェンディ達が到着したときには、既に席が埋まり始めていた。それでも正面近くに席を取れたのは、到着が早かったからだろう。それを証明するかのように、続々と入場者が席を埋めていき、気づいた時には、全ての席が埋まっていた。
 会場は、熱気と興奮でざわついていた。それは歌劇の舞台などとはまた違った、上品さや豪華さなどで虚飾されていない素直で直情的な大衆娯楽独特の雰囲気だった。
 マリア・ウェンディは、お忍びで頻繁に街に出ているとはいえ、やはり貴族の令嬢、こういう雰囲気はあまり経験したことがなかった。物珍しげにキョロキョロと見回しては、嬉しそうにクレタやザヴィアーに話しかけ、更に興奮を高めていた。
 やがて、舞台が暗転する。ドラムロールが響き、軽やかな音楽が流れ出す。気がつくと舞台は明るくなっており、ダンサーとピエロが立っていた。
 ショーが始まったのだ。
 サーカスは、馬や犬、鳩などの動物たちのショーから始まって、ピエロのコミカルな演技、シーソーや椅子を使ったアクロバットなど、息をつかせる間もなく次から次へとプログラムが続いた。特に前半最後の、男性が女性を軽々持ち上げたり放り上げたりしながら、自身も飛び跳ねたりするショーでは、アクロバットに定評があるというウェイクサーカス団の本領をまざまざと観客に見せつけた。会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
 前半が終わり、休憩時間がとられる。トイレや購買のために、観客たちはほとんどが席を立った。マリア・ウェンディたちも席を立ち、一端会場の外に出た。
「本っ当にすごかったわー」
 まだ興奮醒めやらぬまま、マリア・ウェンディは夢見心地で口にした。彼女の身分では、なかなか経験できる体験ではなく、来てよかったと心から思った。これだから、街へ行くのはやめられない。
「そうですね」
 クレタも興奮を隠し切れていなかった。彼女の場合、マリア・ウェンディと違って大衆娯楽とはそれほど縁遠くない。それでも興奮しているのは、それだけサーカスの内容が素晴らしかったからだろう。
 そんな二人とは対照的に、ザヴィアーが相変わらずの陰気さでいた。公演中彼は、マリア・ウェンディとクレタが、わあわあきゃあきゃあ騒いでいるのを横目に、仕事だから仕方なしといった雰囲気を全く隠さずに、ショーを見ていたのだ。今も、先ほど見たばかりのショーの話で盛り上がっている二人の後を、相変わらずの仏頂面でついてきていた。
 会場の外には、即席の屋台が並んでいた。観客だった人たちが、そこで食べ物を買っている。売っているのは、お菓子やサンドイッチ、ジュースなどの軽いものだが、かなり盛況の様だった。
 マリア・ウェンディは一通り屋台に顔を出し、甘そうなドーナツたくさんとフルーツジュースを手に入れて、かなりご満悦だった。
 そこに、不意に声がかかる。
「マリアお嬢様!」
「ん?」
 振り向くと、ラッセルが立っていた。
「ラッセル! 何であなたがこんな所にいるのよ?」
「それは私の台詞です」
「あ、まさか、あなたもサーカスが観たくて昨夜から家を出てたんじゃ――」
 そんなわけありません、とラッセルが大きく溜息をついた。
「でもマリアお嬢様はサーカスを観たくて、また屋敷を出てきたんですね……。クレタまで一緒になって出てきて、一体何を考えているんだ」
「す、すみません……」
 クレタが肩をすくめて、ひたすら恐縮する。
「クレタはあたしが心配だから着いてきたのよ。あなた、いなかったし」
「せめて私がいない時くらいは、屋敷でおとなしくしていて下さい」
「そんなのやなこった」
 ふん、とマリア・ウェンディはそっぽを向く。
 まったく、とラッセルが珍しく苛ついたように息を吐いた。
「それで、ラッセルはどうしてここにいるのよ?」
「マリアお嬢様には関係のないことです」
 取りつく島もなく、ラッセルが答えた。
 むう、とマリア・ウェンディは不機嫌になる。
「どうしてよ? 教えてくれたっていいじゃない」
 駄目です、ときっぱりとラッセルは言い切ると、視線をザヴィアーの方に向けた。
「マリアお嬢様に雇われたのか?」
「ああ」
「なら、今すぐにお嬢様とクレタを連れて帰ってくれないか?」
「別に構わんが」
「何言ってるのよ! 帰らないわよ、あたしは!」
 ザヴィアーが頷くのと、マリア・ウェンディが口を挟むのとは、ほとんど同時だった。
「マリアお嬢様」
 ラッセルが、マリア・ウェンディに向き直る。
「お願いですから、このまま大人しく屋敷へ帰って下さい」
「嫌って言ってるじゃない。せっかく見に来たのに、前半だけで帰れるわけないわよ」
「旅のサーカス団なら、また幾らでも来ます」
「このサーカス団は、今しか見られないかもしれないじゃない」
「別にこのサーカスをわざわざ見なくてもいいでしょう」
「このサーカス団が見たいのよ」
 話は完全に平行線だった。
 いつもならラッセルが折れて、渋々マリア・ウェンディの言うことに従って話は収まるのだが、今回は何故だかラッセルの方も折れず、帰って下さいの、一点張りで譲らなかった。
 その様子をクレタはおろおろとしながら見ていたし、ザヴィアーは興味なさそうに、足で地面を蹴って暇を潰していた。
 ややあって。
 ふう、とマリア・ウェンディは大きく息をついた。
「わかったわよ。帰ればいいんでしょ」
 マリア・ウェンディのその台詞を聞いた時、クレタがとても驚嘆したような表情になった。常に無理を通して道理を引っ込めてきたマリア・ウェンディが、道理に従ったのだ。彼女をよく知るクレタにとっては、天地がひっくり返るほどの驚愕だった。
「わかってくれましたか?」
「それだけ言われればね」
 拗ねたように言い捨てると、マリア・ウェンディは踵を返して一人歩き出した。
「あっ、お、お待ち下さい、マリアお嬢様!」
 慌ててクレタが後を追いかける。
「頼むぞ」
 二人が立ち去っていく様子を見送りながら、ラッセルがザヴィアーに言った。
「ああ」
 何の感慨もなさそうにザヴィアーが頷き、二人の後を追うように歩き出した。
 広場を出て大通りに入る。そのすぐそこにあった店の角を曲がると、すぐにマリア・ウェンディは立ち止まり壁に身体を寄せた。
「えっ?」
 クレタが驚いて立ち止まろうとするのを、マリア・ウェンディは手を伸ばして引っ張り込んだ。
「マ、マリアお嬢様?」
 引っ張られた体勢のままクレタが、不可解そうに尋ねる。
「ラッセルの奴、絶対秘密で何かしてるのよ。じゃなきゃ、あんなに強くあたしを追っ払うわけないもの。そいつを暴いてやるわ」
 不敵に笑いながらマリア・ウェンディは、壁ごしに広場の様子をうかがった。
「あ、あの、お屋敷へお帰りになられるんじゃ……?」
「せっかく街に来てるのに、こんなに早くあたしが帰るわけないじゃない」
「……じゃあ、先ほどのお帰りになるという発言は……?」
「あんなの、嘘に決まってるわ」
 あっけらかんとマリア・ウェンディは答えた。
「え?」
「あのまま話してても埒があかないと思ったから、ああ言ったのよ」
「そ、そうですか……」
「しかし、ラッセルの奴、後半の演目を見逃した分のツケは、絶対に払ってもらうんだから!」
 マリア・ウェンディは壁ごしに、もう小さく見えるラッセルの姿を視線で追いながら呟いた。


   4

 マリア・ウェンディたちが通りに出ていったのを確認してから、ラッセルはサーカス団の休憩所になっているテントに向かって歩き始めた。
 すぐに、そこから出て歩き出す目的の人物たちを見つける。
 出てきたのは、五人。マリア・ウェンディが見ていたら、先ほどの舞台でアクロバットを披露していた人物たちだとわかっただろう。彼らは、舞台の時に身につけていた華麗で派手な服装ではなく、一般市民のような服装をしていて、すぐに人混みに紛れ混んだ。
「五人か。そんなものか」
 心中でそう呟いた後、ラッセルも人混みに紛れながら、彼らの後をつけ始めた。
 五人は広場を出て、大通りに入った。雰囲気は、ちょっと前にこの街に寄った旅人ではなく、昔からこの街にいる市民のような感じである。辺りを見回すこともなく、勝手知ったる我が街といった風に、クローヴァー通りを南下していった。明らかに、常人が出来る技ではない。やがて、角を曲がり裏通りに入っていく。
 しばらく彼らをつけていると、すぐに自分もつけられている事に気がついた。それがマリア・ウェンディたちだとわかると、ラッセルは心中で激しく嘆息した。マリア・ウェンディの性格を読み誤った後悔が、ひどく全身に染み渡る。
「全くこんな時に……!」
 よほど強くそう思ったのだろう。心中で呟いたつもりが、声に出していた。
 五人をつけながら、ラッセルはどうするか少し迷っていた。このまま彼らの後をつけるか、それともマリア・ウェンディたちを完全に屋敷へ帰すか、である。任務上は彼らをつけるべきであるが、このままではマリア・ウェンディを巻き込むことになりかねない。というより、むしろ彼女は進んで巻き込まれに来る。それは、どうしても避けなければならないことだった。テーラー家の廷臣として、令嬢の安全は何より優先させねばならない。
 マリアお嬢様は、私が何のためにこんな任務に就いているか、全くわかってらっしゃらない。ラッセルは、そう心中で罵った。
 確かに、彼女は現況を知らない。だが現況の如何に関わらず、普通の令嬢のように屋敷内にいれば何の問題もないのである。そもそも、現況が平穏無事であったとしても、彼女のような身分の者が頻繁に街に忍び出れば、危険にさらされることになるのは変わらないのだ。治安の善し悪しではない。犯罪が完全に起きない街などないのである。現に、治安の良いはずのここエンゼルテールでさえ、昨日彼女は襲われていた。
 マリア・ウェンディの身に何か起きた場合、それはエンゼルテールの政治に直結するのだ。故に、ラッセルのような彼女達を守る立場の人間からすれば、頻繁に出てもらっては困るのである。
 やがてラッセルは、やはりマリア・ウェンディたちを帰そうと決断した。結局の所、マリア・ウェンディが無事ならば、任務はそれほど重要ではなくなるし、彼らがここにいるのならば、またやり直せる。彼らが他へ移るのならば、それはそれで構わなかった。
 だが少し、決断が遅かったようだ。
 つけているのを気づかれたらしい。いや、もしかしたらそれ以前から内偵に気づいていたのかも知れない。どちらにしろ、誘い込まれたようだ。ラッセルは、違う角から出てきた三人をちらりと見やり、そう確信した。
 全部で八人。恐らく全て手練れであろう。更に困ったことに、もうすぐしたらここにマリア・ウェンディたちがやってくる。
「状況は最悪だな……」
 ラッセルは苦々しく呟いた。

「まったく、こんな人通りのない所を通って、どこ行く気かしら?」
 マリア・ウェンディは、呟きには大きすぎる声で言いながら、歩いていた。
「あの、もう帰りませんか、マリアお嬢様? さすがにここは危なそうな気がします」
 クレタが、ずんずんと裏路地を突き進むマリア・ウェンディに声をかける。
 しかし、マリア・ウェンディの返答はにべもない。
「ここまで来て、何言ってるのよ。絶対尻尾を掴んでやるんだから」
「し、しかし……」
「危険だとは思うがな」
 不意に、今まで黙っていたザヴィアーが声をかけた。
 マリア・ウェンディは振り返る。
「何よ?」
「その先で、何かやってる」
 ザヴィアーが、顎をしゃくった。
「何かって何よ?」
 はっきり言いなさいよね、とマリア・ウェンディが言葉を続けようとする。だがそれに被さるように甲高い金属音が聞こえてきた。
 何かと思って視線を前に戻すマリア・ウェンディに、ザヴィアーが相変わらずの無感動な声で言葉を続けた。
「剣戟の音だ」
「ラッセルが?」
 マリア・ウェンディは駆けだした。角を曲がり、そこで行われている光景を目の当たりにする。
「ラッセル!」
 見ると、六人の男に囲まれているラッセルの姿が目に入った。
 六人の男は、それぞれ小剣を構え、それぞれが微妙な位置取りでラッセルから間合いを取っていた。その近くに二人の男が倒れている。恐らくラッセルが倒したのだろう。
 刹那、一人がラッセルに打ちかかっていく。次いで、その隣にいた男が跳躍した。
 ラッセルが一人目の攻撃を剣で防ぐのと、上方からの攻撃が迫るのとが同時だった。
「くっ!」
 ラッセルは身体全体を右に傾け、その攻撃を避けた。そしてそれで止まらずに、勢いのまま右に歩を進める。後方にいた二人からの攻撃に感づいたからだ。
 後方からの二重攻撃を何とか避けきると、足を踏ん張り歩を急停止させて、剣を後方に薙いだ。
「せやっ!」
 タイミングといい、速度といいほぼ完璧な一撃である。
 しかし。
 二人は後方に宙返りをうってその攻撃をかわし、ラッセルの間合い外にまで距離をとった。
「…………」
 六人が無言で再びラッセルとの間合いを計りだした。また連続攻撃にはいる体勢だった。この距離は、ラッセルの間合い外ではあっても、彼らの間合いの内であった。
 相手が六人とはいえ、ラッセルの実力から言えば、簡単に打ち倒せることをマリア・ウェンディは知っている。だがそうは出来ずにいるところを見ると、この六人もなかなかの手練れだということが知れた。
「マリアお嬢様、逃げて!」
 ラッセルの声には、幾分かの焦りが含まれていた。来るのが早過ぎると思ったのだろう。
 六人のうち、マリア・ウェンディに一番近く、ラッセルからは一番遠い間合いにいた三人が、とり囲んでいる男にとって彼女が非常に大事な人間だと判断すると、躊躇いなくマリア・ウェンディに向かっていった。
「しまった!」
 ラッセルが慌てて、マリア・ウェンディの方に駆けようとするが、他の三人に牽制されて動けない。
「逃げて、マリアお嬢様!」
 辛うじて叫ぶ。
 それとほぼ同時に、一番早くマリア・ウェンディに近づいてきた男が、彼女に小剣で襲いかかってきた。
「わっ!」
 マリア・ウェンディは身を左にずらして、その攻撃を何とか避けた。
 すぐ二撃目が来る。
 突き出される小剣を、今度は逆に身体を捻ってマリア・ウェンディはかわす。だが避けたはずの小剣が軌跡を急変し、今度は横に薙ぐ形で迫ってきた。
 しかし、何故だか小剣の動きが止まった。
「え……?」
 マリア・ウェンディは、驚いて小剣の先を見つめる。すると、いつの間にか、自分のすぐ横から剣先が伸びていた。今のタイミングで男が小剣を薙ぎ払いきると、完全に男自身の腕が飛んだ。そんなタイミングだった。
 振り向くと、無表情のままザヴィアーが立っていた。彼は、ゆっくりと歩を進めてマリア・ウェンディの前に立つ。
「マリアお嬢様、ご無事ですか!」
 クレタが慌てて、マリア・ウェンディに駆け寄ってきた。
「う、うん……」
 マリア・ウェンディはとりあえず頷くが、瞳はザヴィアーを見ていた。
 ザヴィアーから、昨日感じた、ぞくりとするような冷たくて鋭い強烈な感覚を感じるのだ。そして、それが殺気だとわかった時、マリア・ウェンディの背中に初めて冷や汗が流れた。
 殺気は、じわりと路地に広がっていた。それに気圧されるように、向かってきた三人がじりじりと後退していく。
 こちらの異常に気づいたのだろう、ラッセルと彼を囲んでいた三人も、ザヴィアーの方に注意を向けた。
 相変わらず、ザヴィアーは普段と変わらない表情のままだ。だがまとう雰囲気だけがいつもと違った。否、これこそが、彼の本来の姿なのだろう。そう思わせるぐらい、彼は自然だった。
「くっ……!」
 一人が、意を決したかのようにザヴィアーに襲いかかる。
「あっ!」
 殺してしまう! マリア・ウェンディはそう思った。そう思った瞬間、彼女は行動に出ていた。
 ザヴィアーの両肩に手をかけ、そのまま跳ね上がる。
「よっ!」
「あっ、マリアお嬢様……!」
 クレタが手を伸ばした時、マリア・ウェンディは、ザヴィアーの肩を支えに一回転して、そのピンと伸ばした両脚の踵を男の後頭部にヒットさせていた。回転の勢いとマリア・ウェンディの体重が十分にのった一撃であった。
「ぐあっ!」
 たまらず男が悶絶した。
 マリア・ウェンディは、脚を相手に当てたにもかかわらず、見事なバランス感覚でザヴィアーの前に着地する。
「…………」
 その場にいる全員が茫然としていた。
 それはそうだろう。通常の少女は、そんなアクロバットな事はしないし、出来るはずもない。
「ラッセル、何してるの!」
 茫然としているラッセルに、マリア・ウェンディは声をかける。
 それで我に返ったラッセルが、自分を囲んでいた男達を見事な剣捌きで打ち倒した。
 残りは二人。
 その二人は舌打ちと目配せを同時にし、突然バラバラに飛び跳ねた。驚嘆すべき跳躍力で壁を蹴り、更に推進力を得てザヴィアーとラッセルの頭上を越えた。そして、音もなく着地するとそのまま駆け出していった。
「逃げたわね」
 マリア・ウェンディは、短く息をついた。
「ご無事ですか、マリアお嬢様?」
 クレタが駆け寄ってくる。
 マリア・ウェンディは、それに笑顔を見せた。
「全然大丈夫よ。それよりも、ラッセルは無事?」
「おかげさまで」
 剣を鞘に仕舞い、ラッセルもやってきた。そして、大仰に息をつく。
「全く、どうしてお帰りになられなかったのですか?」
「あなたが、あたしに内緒で何かしようとするからでしょ」
「そういう任務です!」
「任務なら、任務って言えばいいのよ。そう言わないから、話がややこしくなる」
「任務と言っていたら、お帰りになられましたか?」
「さあ。その時の気分によるわね」
 マリア・ウェンディは肩をすくめてとぼける。勿論、ラッセルが任務と言っていても、その内容を述べていたとしても、彼女は同じ行動をとった。
 それよりもよ、とマリア・ウェンディはラッセルを見据える。
「任務の内容はいったい何なのよ? あいつら、あのサーカスの団員よね。それを何故追っていたのか? あいつらは何故あなたに襲いかかってきたのか? その辺の所、しっかり話してもらうわよ」
 そうですね、とラッセルが少し思案した。それから、ちらりとザヴィアーの方を見やる。
「もう消えてもいいが?」
 ラッセルの意図に気づいたザヴィアーが、視線を向ける。
 だがマリア・ウェンディは、首を横に振った。
「いいわ。聞いても別に構わない。彼だって、巻き込まれたわけを知りたいでしょ?」
「いや、別に」
 あっさりザヴィアーは否定するが、その声はマリア・ウェンディには届かなかったようだ。彼女はラッセルに言葉を続ける。
「それとも、彼には聞かせられないほどの事情があるの?」
「多少は、そうですね」
「でも、どっちにしても、ラッセルはこれからまだ任務が続くんでしょ? これの後処理とか。結局、彼にはあたしたちを送ってもらうんだし、家に着いたら遅かれ早かれ、彼はあたしが誰だかわかることになるけど?」
 そうですね、とラッセルが頷く。
「じゃあ、聞かせて。任務って、父様から言われたの?」
「はい。ウェイクサーカス団というのは、それほど知られてはいないことですが、裏の顔を持っておりまして、実は名うての暗殺団なんです。それが領内に入ったことを受けて、内偵しておりました」
「何で暗殺団が入ったくらいで、あなたが内偵しなきゃならないのよ?」
 ラッセルは、エンゼルテール伯爵の騎士であり、腹心中の腹心である。そのラッセルが自ら内偵調査に入るのは、名うての暗殺団とはいえ大袈裟にすぎないかと思うのだ。エンゼルテールには、勿論治安当局もあるし、その下部組織もしっかりと整備されている。
「マリアお嬢様はご存じないかも知れませんが、今、王国は、わがテーラー家も含めて二派に分かれて、激しく争っております。まだ宮廷闘争の段階で内乱状態ではありませんが、その一歩手前に来ていると申してもよろしいでしょう」
 へえ、とマリア・ウェンディは初めて聞く政治状況に声を上げた。
「なかなか大変なのね」
 ひどく他人事の感覚である。
「現在、勢力を持っているのはわが方ではなく、相手側でありまして、奴らの謀略がこちら側の勢力を削ぎにかかっております。その手段が、当主やその家族に対する脅迫、誘拐、暴行、暗殺です」
「つまり、その暗殺団が、父様を狙ってる可能性があったわけね」
「狙われる可能性があったのは、あなたも含めて、です。マリアお嬢様」
「あたしも?」
「あなたは、何者なんですか」
 ラッセルが疲れたような声を出した。
「ああ、そうか」
「ですから、今回でいえば、わざわざ狙っている可能性のある所にお行きになられたんですよ」
「そんなの、知らなかったんだもん」
「それで、私が実際の所どうなのか、内偵を進めていたわけです」
 暗殺団とはいえ、何もしないのであれば、それはただのサーカス団が入城したにすぎないし、取り締まる理由はない。
「で、どうだったの?」
「まだ、わかりません。わかる前に、こうなりましたから」
 ラッセルが、気絶している男たちを見た。
「こうなれば、彼らを捕らえて尋問するしかありませんが」
「ま、結局、殺しにかかってきたのは事実だしね。で、サーカス団はどうするの?」
「密かに、全ての領境には兵を派遣しており、封鎖の準備は完了しております。逃げ帰った者たちがいるので、向こうがどう出るかはわかりませんが、サーカスの公演終了を待って、乗り込もうと考えております」
「そうなんだ」
 ふうん、とマリア・ウェンディは頷いた。
「そういうわけですので、私はこれから彼らを連れていきます」
「うん」
「マリアお嬢様は、すぐにお帰り下さい」
「何でよ?」
 マリア・ウェンディは唇を尖らせた。
 ラッセルが呆れた調子で答える。
「今、マリアお嬢様がおかれている状況をお話ししたばかりでしょう。あなたが狙われている事実はまだ変わってないんですよ」
「そんなこと言われてもねえ」
「マリアお嬢様」
 ラッセルが、マリア・ウェンディを睨む。
「あー。はいはい。わかったわよ。帰ればいいんでしょ。帰るわよ、帰る」
 マリア・ウェンディは、しょうがないとでもいう風に承諾した。
「では、早速お帰り下さい」
「はいはい」
 マリア・ウェンディは、元来た道を戻り始めた。
 途中。
「ねえ、クレタ」
「何でしょうか?」
「やっぱり、すぐに帰らなきゃ駄目?」
「あ、当たり前です! 早くお屋敷に戻らなきゃいけません!」
「サーカスの後半、見に行っちゃ駄目?」
「だ、駄目に決まってます!」
 クレタが声を上げる。
 あーあ、とマリア・ウェンディは大仰に息を吐いた。
「やっぱり、そうか。観たかったなあ」
「何言ってるんです。絶対に駄目です」
「はいはい、わかりましたよ。また今度にするわよ」
「今度って……。またお出になられる気ですか?」
「あったり前よ。狙われてるぐらいで、何であたしが行動を掣肘されなきゃならないのよ! それに、あなたも相当使えるってわかったしね」
 マリア・ウェンディは、後方を歩くザヴィアーの方を向いた。少なくとも、ラッセルが苦戦するほどの手練れを、プレッシャーだけで後退させたのだ。実力は相当高いと言えた。
「まだ雇う気か?」
 面倒そうに、ザヴィアーが聞く。
「どうせ、あなたあたしに雇われたぐらいだから、仕事は入っていないんでしょ」
「それは、そうだが」
「また近いうちに、あたしが雇ったげるから、もうしばらくここにいなさい」
 明日にでもまた忍び出るといった口調である。
「マ、マリアお嬢様!」
 クレタが悲鳴に近い声を上げる。
「嫌だと言ったら?」
「あ、そんなこと言うんだ?」
「どうも、お前に関わると、面倒なことに巻き込まれる気がするんだが」
「いいじゃない。面倒事に巻き込まれるのは、傭兵冥利につきるでしょ」
「つきるか」
「だいたい、あたしの依頼を断って街から出られると思ってるの? あたしが何者か、もうわかったんでしょ?」
「領主の娘だろ」
「もう少し驚いていてくれると面白かったんだけど、まあそれはいいわ。ようするに、あなたをとっ捕まえて、あたしの前にやってこさせるぐらいの権力は持ってるわけよ」
「それをやるってのか?」
「どう思う?」
 マリア・ウェンディは微笑して、逆に聞き返していた。
 ザヴィアーが溜息をつく。
 マリア・ウェンディの微笑が全てを物語っていた。彼女ならやりかねない。そう思わせるだけの印象を、ザヴィアーは既に持っていた。
 ザヴィアーの溜息で、彼が了解したのをマリア・ウェンディは知った。ふふ、と笑い、言葉を続ける。
「あたしの家の近くに、『プリンスローズ』って宿があるわ。あなた、そこに泊まりなさい」
「ちょっと待て。お前の家の近くというと、上流街区じゃないのか」
「そうなるかな」
「そんな所に、俺みたいな傭兵が泊まれるか。だいたい仕事はどうするんだ」
 上流街区の宿は、通常、領内に来た上流階級の人間が使う高級な宿である。当然、客を選ぶし、料金も高い。傭兵募集の貼り紙などは、貼ってあるはずもない。
「まだ、他の仕事をする気でいるの? あたしが頼む時いなかったら、困るじゃない」
「俺は、お前専用の傭兵ってわけじゃない」
「あ、その手があるなあ」
 良いことを聞いたかのように、マリア・ウェンディはポンと手を叩いた。
「ラッセルも忙しいみたいだし、あたし専用の護衛がいたら、あたしも気軽に出やすいわね」
 まるで、今までが気軽じゃなかったかのような口振りである。
「よし、決めた。そうしよう!」
「お、おい、勝手に何決めてんだ――」
 さすがのザヴィアーも、少し口調に焦りが入っていた。
「どっちにしろすぐには無理だから、しばらくは『プリンスローズ』に泊まってもらうことになるわね。大丈夫よ、今日の帰りに寄ったげるから」
「俺はまだ頷いた訳じゃないぞ」
「お金の心配ならしなくていいわよ。ちゃんと払うから」
「そういうことじゃなくて――、おい、お前も何か言ってくれ」
 ザヴィアーがたまらずクレタに助けを求める。
 しかし、クレタは同情するかのような表情で、首を左右に振った。彼女はこういう時のマリア・ウェンディに何を言っても無駄だと言うことを知り抜いていた。
「お諦め下さい」
「じゃ、そういうわけで、決まりね」
 会心の笑みを浮かべ、マリア・ウェンディは足取りも軽く再び歩き始めた。  


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