会いたくない彼女   

   



 振り返ると、浅木真琴が立っていた。
 舘川にとっては、今現在最も会いたくなかった人物で、できれば気づかなかったふりをして作業を続けたかった。だが既にばっちりと目が合ってしまっており、数秒とはいえ不自然なほどの長い間、視線を絡み合わせてしまっていたから、彼女の方も舘川を認識してしまっているだろう。
「主任、どうしてここに?」
 浅木が近づいてきた。出来ればそのまま立ち去って欲しかったと舘川は思うが、どうしようもない。
「課長命令でね」
 舘川は肩を竦めて見せた。
 ここというのはイベント営業用店舗のことで、本来、総合研究課というデータ収集や分析を主な職務とする部署に勤める舘川のような人間の来るところではない。
「購買傾向の統計を取れということだ」
「購買傾向の統計、ですか」
 浅木が不思議そうな顔をして、舘川の姿を見る。舘川はカッターシャツをまくり上げて、系列のアクセサリーやらコスメグッズやらの詰まった箱をカートに乗せて押していたからだ。統計を取るような格好にはとても見えない。
「名目上はね。体のいい下働きだ」
「へえ」
「バイトに支払う金をケチった経理部の圧力が、ウチにかかってきたわけだ。それで入課半月の俺が、休日出勤するはめになったわけさ」
 舘川は、自身がここにいるからくりを話して、苦笑する。
「そうですか、大変ですね」
 浅木も微笑した。
 その微笑みを、舘川は久しぶりに見たなと思った。ここ半月間、舘川は浅木を避けていたから、それも当然ではあるが、やはり、その微笑は未だ胸の痛みにもろに突き刺さる。
 舘川が、浅木を避けていたのは、実は半月前に浅木に振られていたからだ。それも、結構トラウマになるようなほどに。
 元々、舘川は浅木と同じ秘書課に在籍していた。何度も組んで同じ仕事をしたこともあったから気心は知れていたし、それなりに仲は良かったように舘川は思う。彼女の方も慕ってくれていた。それは今から考えると、男としてではなく、会社の先輩としてだったのだが、当時はあまりその区別はつかなかった。器量も気立てもよい彼女に、舘川が好意を抱くのにそう時間はかからなかった。
 それから三年、舘川は告白もデートに誘うタイミングも逃し続けてきたわけだが、タイムリミットとチャンスは突然やってきたのだ。
 それは忘れもしない、半月前の土曜日のことである。
 総研の部長に見込まれて、唐突に舘川の異動が決まったのだ。見込まれての強引な異動だから、内々にして急だった。週があけて月曜日にはもう総研という慌ただしさで、辞令などは水曜日に後から追ってくだってきたものだ。
 浅木との関係だけでいうと、突然タイムリミットがきたわけで、舘川としてはどうにかしておかずにいられなかったというところである。このままだと、恐らく関係は切れるだろうという経験上の推測が漠然とあった。
 それをどうしようかと休憩時間、一人屋上で煙草を吹かしながら思い悩んでいると、偶然にも浅木がやってきたのだ。
 二人っきりの屋上。ある意味ではいいシチュエーションである。これが舘川の背中を押した。
 そこで、どうやってか舘川は思いを告げた。どういう風に告げたかは、実は覚えていない。
 覚えているのは、その後だ。
 茫然とした一瞬間の後、浅木の瞳から涙が流れたのだ。
 そして、
「……す、すみません」
 と。
 これは舘川にとって、ものすごいショックだった。泣くほど嫌だったのかと思うと、後悔が嵐のように襲ってきた。断られるにしても、もうちょっとマシなふられ方をすると思っていたから、予想もしていなかった現実に、衝撃が太い矢となって舘川を貫いた。
「すまん、忘れてくれ」
 舘川はどうにかそう声を絞り出し、その場を逃げるように去ったのである。
 階段を下りながら、舘川は今さらながらに人事異動があって良かったと思った。浅木と会うのは気まずいが、もう会うことはないのである。明日は日曜で休み。翌日には秘書課に行かなくていいのだ。ちょっとした努力で、浅木と会うことはなくなるだろう。そして、舘川はそうしたのだ。
 それがこんな所で会うなんてな。舘川はそう苦々しく思う。
 気まずさは浅木も抱いているはずなのだが、少なくとも彼女の表情からは、それは読みとれない。微笑が柔らかく妙に印象深い。向こうの方が冷静なわけだ、と舘川は内心苦笑する。
「君は、どうしてここに?」
 会話を終えたかった舘川だが、微笑につられて思わず聞いてしまう。
 総研の舘川がここにいるのも変だが、秘書課の浅木がここにいるのもやっぱり変である。
「……君?」
 浅木が眉をひそめた。舘川が彼女を呼ぶときは、今までは、浅木とかお前とか呼び捨てにすることが多かったからだ。
 勿論、呼び方を変えたのはわざとである。今さら、前のように呼べるわけもない。舘川はそう思う。
 浅木はしばらく不審の目で舘川を見ていたが、舘川が改めないので仕方なくそのまま会話を続けた。
「秘書課も似たようなものですよ。といっても、販促の課長に挨拶に来ただけですけど」
「そうか」
「休日出勤とは言っても、主任とは違って用事はそれだけですし、気は楽ですね」
「そうか。楽で良いね」
「そうですね。その後は自由時間ですし。この後、待ち合わせをしてるんですよ、そこの公園で」
 店舗近くの公園で待ち合わせというのは、ここの店舗に待ち合わせの相手がいるのだろうか。舘川がそう考えると、浅木が不意に視線を横にそらす。
「忙しそうで、来てくれないかも知れないけど」
 夜まで待ってみるつもりです。浅木はそう視線をそらしたまま言った。
 舘川には、浅木の視線の先が店舗内だということがわかっていた。店舗内から何人かの若い男の声が聞こえてくる。島村とか石倉とかその辺りの声で、彼らは浅木とは同期のはずだ。
 舘川は振り向いて、誰が浅木の視線を受けているかを知りたい欲求にかられたが、それを意志の力で抑え込んだ。見たところで、どうしようもないのだ。
 そうか、と舘川は答える。
「来てくれると思うよ、その人。君みたいなのをほっとく奴はそうはいない」
 自虐的だな、と思いつつ舘川は笑ってみせた。
「そうだと嬉しいんですけどね」
 浅木が視線をそらしたまま、照れたように微笑んだ。
 どうやら、と舘川は思う。気まずさに思い悩んでいるのは自分だけで、浅木の方は、大したことないらしい。少なくとも、浅木の方ではあれはたいした出来事ではなかったということがわかった。
 それはそれでいいのだが、やはり、その事実は舘川にとっては辛いことではあった。



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