第一話 ストーカーの条件
桜は満開だった。
見ていると、時折、桜が揺れる。風が吹いているようだ。 窓を開けたいなあ。 あたしが、そうぼんやり考えたとき。 「岩沙くん、お茶」 そう、むかつく声が飛んできた。見なくてもわかってる。加藤のおっさんだ。 偉っそうに、いっつもお茶お茶お茶お茶。あたしはてめえの召使いじゃねえぞ。 でも、そんな思いはおくびにも出さず、あたしは振り返った。 にっこり笑う。 「はい。少々、お待ち下さいな」 あたしは、岩沙みゆき。射手座の十六歳。高校二年生で、クラスは四組。成績は中くらい。毎日学校に通う、ちゃんとした女子高生である。 もちろん、万引きもドラッグも援助交際もやらない。知らぬ間に、いじめに加担したことぐらいはあるかもしれないけど、まあそれくらい。 ごく普通でしょ? でも今までの人生の方は、普通じゃなかったりする。自分で言うのもなんだが、結構、波瀾万丈な生活をしてきた。 あたしの両親は蒸発している。あたしが十歳の頃だ。 両親が、弟だけを連れていったところがミソ。あたしは置いてかれたのだ。なんか、あたしだけ家族と考えられてなかったみたい。 それからは、お決まりのコース。親戚中をたらい回しにされてきた。 その数たるや、全部で十三家族。一番短い期間では半月というのがあった。あたしの存在が、令息の健全な成長に邪魔だったそうだ。 令息に下着を盗られたのも、盗聴器を仕掛けられたのもあたしだというのに。まあ、息子を追い出すわけにはいかないだろうけどね。 そして、今はここにいる。 ここというのは、一条調査事務所のことで、私立の探偵事務所だ。その所長、一条浩さんが、今のあたしの保護者である。 一条さんは、あたしの母方の叔父さんの、奥さんの、妹さんの、旦那さんの、兄にあたる人だ。正確に述べるとややこしいが、ようするに他人である。あたしを受け入れてくれる人は、血縁中にはもういないということ。厳しい現実だと思う。 この辺りの経験が、あたしの性格形成に大きく影響しているのは言うまでもない。追い出されれば路頭に迷うことになるのだから、当然ではある。 胸なし、腰なし、色気なし、の三拍子揃ってるあたしは、身体を売ろうにも、多分、大した値はつかないだろうから、それで生活していけないことは、想像できる。これも悲しい現実であるけどもね。 そんなわけだから、あたしとしては、ここから追い出されないように、大きな猫をかぶっているわけ。 でも、ここでの生活は、実は快適だったりする。 三食出て、学校にも通わせてくれて、なおかつ、お小遣いまでくれる。 下着を盗られることもないし、盗撮盗聴もないし、なおかつ、押し倒そうとしてくる人もいない。 涙が出そうになるくらい、いい環境でしょ。 問題点と言えば、保護者である一条さんと一度も対面したことがないくらいか。 ちょっとおかしな話ではあるけれど、あたしは一度も一条さんを見たことがない。 というのは、あたしがここに引き取られた時、一条さんは仕事でアメリカはロサンゼルスに行っているらしくて、未だ帰宅せず、という状態なのだ。 ここにいたのは加藤のおっさんだった。 彼は探偵事務所唯一の調査員で、一条さんの親友らしい。老けて見えるのは、だらしない格好をしているせいで、実は結構若いらしい。一条さんが二十八歳だから、親友という彼も、そんなものだろう。 あたしを引き取るのに必要な手続きは、一条さんが出国前に全てやってくれていたらしく、あたしはなんにもやらずに済んだ。 だから、加藤さんとはそれだけの関係であるはずなのだが、現実はそうでもない。 あたしは、一条探偵事務所で調査員のアルバイトをしている。従って、加藤さんはあたしの上司ってわけだ。 あたしの現況は、そんなところ。こんな感じになって、半年たったのが現在である。 「いい時間だな。岩沙くん、もう帰っていいよ」 加藤さんが、壁に掛かっている時計に目をやってから言った。 時計の針は、午後六時を回っていた。 「加藤さんは、まだいるんですか?」 言って、馬鹿な質問だと思った。 加藤さんは、事務所に住み着いている。給湯室が彼の台所で、隣の部屋のソファが彼のベッドである。いるも帰るも、彼はここなのだ。 しかし、加藤さんは首を横に振る。 「今日は、俺も出るよ」 言いながら、煙草をくわえた。 加藤さんは、世の流れに力一杯逆らうように愛煙家である。他人の肺などどうなろうが知ったことではないという風に、それはもうぱかぱかと吸う。煙いだろうがよ。いつもそう思うが、勿論、そんなことは口にしない。 「そうですか」 あたしはそう答えて、データ入力していたパソコンの電源を落とした。 鞄を持って、それではお先です、と加藤さんに挨拶する。笑顔もついでにつける。 この笑顔ってやつが実はポイントで、十人並みの容姿しか持たないあたしでも、好感がもてるらしい。それを使わない手はない。追い出されたら生死に関わるのだから、笑顔くらい安いものだ。 ご苦労さん、という加藤さんのぞんざいな返答を聞き流して、あたしは事務所を出た。 一条探偵事務所は、二階建てビルの二階にあって、一階は『珈琲荘』という喫茶店だ。なかなかいい雰囲気の店で、あたしもたまに利用している。 そこのマスターがたまたま外に出てきた。恰幅のいい人の好さそうなおじさんで、あたしは結構好きだ。 「ああ、みゆきちゃん」 「マスター、こんばんは」 「今日は、もうあがりかい?」 「はい。マスターは?」 「これを上にね」 マスターが手に持っていた紙袋を見せた。小さめの紙袋で、珈琲荘というロゴが入っている。 上というと、考えるまでもなくうちの事務所。 「相変わらずのブルマン六百グラム」 「いつもいつもすみません」 あたしはぺこりと頭を下げた。 ここのマスターは、注文しなくとも定期的にコーヒーを届けてくれる。時にはケーキとかお菓子もついでに差し入れてくれて、すごく嬉しい。 「いや、こっちも大事なお客さんだからね。サービスは基本だよ」 人の好さそうな笑顔でマスターが笑う。 そうですか、とあたしが答えようとした時、珈琲荘に団体客が入ってきた。 「おやおや」 「あたしが持って上がりましょうか?」 「そうしてくれるかい。悪いね」 「いえ、全然構いませんよ」 「じゃあ、お願いしようか」 「はい」 あたしはマスターから紙袋を受け取ると、また事務所へと階段を上がっていった。 事務所のドアを開けて、中に入る。 まだ加藤さんはいた。煙草をぷかぷか吹かしながら、夕刊を読んでいたのだ。 あたしに気づいて、視線だけこっちに向ける。 「忘れ物か?」 「いえ、これをマスターに頼まれたんで」 あたしは、マスターから渡されて紙袋を上げて見せた。 「おお、サンキューと言っておいてくれ」 自分で言えよ。あたしは言ったぞ。 「帰りに、もう一度言っておきますわ」 「ああ、ついでにそれで一杯コーヒーをたてて」 んなことぁ、自分でしやがれ。 「ちょっと待って下さいね」 あたしは給湯室へ向かい、コーヒーメーカーを使ってコーヒーをたてはじめる。 加藤さんが飲むコーヒーは、死ぬほど濃い。あのおっさんは、煙草で肺を、コーヒーで胃を、酒で肝臓を、常に痛めつけているのだ。まあ、あの人の内臓なんて、どうでもいいけれど。 ややあって、できたコーヒーをトレイに載せて持っていく。 「はい、できましたよ」 「さんきゅ、さんきゅ」 加藤さんは受け取ったカップをすぐに口につけた。 あれだけ煙草を吸っていて、すぐにコーヒーの味がわかるものなのだろうか。常々、疑問に思う。 案外、それで味がわからないから、濃いのを飲んでるのかも。それなら、不健康への悪循環を驀進してることになる。 そんなあたしの思いを加藤さんは知ってか知らずか、ああうまい、と満足そうな声を吐いた。嘘だろう? 「でも、こんなにゆっくりしていてよろしいんですか?」 「ん?」 「今日は出るっておっしゃってましたけど」 「ああ、まだ大丈夫だよ」 「そうですか」 「心配をかけるねえ」 「いえ。では、あたしはこれで」 「ほい、さいなら。ストーカーには気をつけてな」 あたしは、加藤さんの縁起でもない挨拶を受けながら事務所を出た。 さっき言われた通り珈琲荘に顔を出して、ありがとうございました、と言っておく。 事務所から、あたしが住まわせてもらってるマンションまではそう離れていない。徒歩十五分ってところ。 街灯もネオンも人通りもそれなりにあって、女の子が一人で歩いていても、それほど危険を感じない。少なくとも、あたしは感じたことがない。 そのはずだったけど。 なんか、妙な視線を感じる。 後ろで異人さんになり損なったみたいな同世代の女の子が、ぶひゃひゃひゃひゃ、とけたたましい笑い声をあげたので、何だと思って振り向いたのだ。 その子は単に携帯電話の相手と喋っていただけで、春だから突発的にどこかおかしくなったわけではなかった。 それがわかって、視線を戻そうとしたとき。 見覚えのない男がこっちを見ているのに気がついた。その男、あたしの視線に気がつくと、わざとらしく視線をそらしたので、あたしを見てたのがわかった。 背は高いけど、同世代か、年下だろう。顔が童顔だった。 それ以上は、視線を戻したのでわからない。 その男が、あたしとおんなじ道を、あたしと同じペースで、あたしの後方を歩いてきてる。 自意識過剰なだけだったら、いいんだけど。どうも、そうではないらしい。 ストーカーってやつ? あたしには縁のないものだと思ってたけど、ご縁ができたみたい。やだなあ。 加藤のおっさんが、妙なことを言うからこうなったんだわ。 それは、責任転嫁だとはわかってはいたけれども、そう思わずにはいられなかった。勿論、無益である。あたしは自分に呆れ、とりあえず足を早めた。 男は一定間隔でついてくる。振り返っては見てないけれど、背中に感じる妙な気配と、足音でそれがわかる。 止まって対面してやろうか。あたしは不意にそう思った。立ち止まって振り返るだけでも、何らかの効果があると思う。よっし、やってやろう。 驚いて立ち止まるか、知らんぷりして通り過ぎるか。それとも想像外の行動にでるか。 結果的に言うと、男は全部やった。 あたしは立ち止まり振り返る。そして、視線を男に向ける。 すると男は一瞬驚いて立ち止まり、それを覆い隠すように視線をそらして、あたしの横を通り過ぎる。その直後、走り去る。 知らんぷりして通り過ぎるまではともかく、走り去っちゃいかんよな。つけてましたと言っているようなもんだ。 どうやら、奴はストーカー初心者だったようだ。人をつける意志があるんなら、もうちょっと度胸をもたなきゃ。……って、度胸があったら、ストーカーなんてしないか。 あたしは一つ息を吐いてから、再び歩き出した。 あたしが住まわせてもらっているマンションの部屋の主は、当然ながら一条さんである。 そもそも一条さんは、元々ここに住んでいて、あたしとは同居する予定だったのだけど、出張でアメリカに行っちゃってるので、あたしが一人暮らし状態になっているのだ。それがいいのか悪いのかはわからないけど、気が楽なのは確かだ。 だって、やっぱりね。他人の男の人、しかもまだ二十八歳、という人と同居ってのは、たくさんいろんな事に気を使わないとならないのはわかりきったことだ。それがないというのは、一人暮らしの煩雑さよりも貴重な感じがする。あたし自身が一人の方が好きだというのも大きく作用していると思うけれど。 でもこのマンション、4LDKで、高校生の一人暮らしには過ぎた部屋だ。 あたしと同居用に購入したわけではないだろうから、一条さんは前からここに一人で住んでいたのだ。ようするに、一条さんはとてもお金持ち。でなければ、若い身空であたしをひきとることなどできないだろう。 住み始めた頃は、豪華な部屋すぎて、すごく居心地の悪さを感じたものだ。さすがに半年たってその感覚も薄れたけれど、消えてなくなったわけではない。未だに触るのが憚れるものはたくさんある。 一条さんの言によれば、部屋のものはどれも好きに使って構わないということなんだけど、本当にそうするわけにはいかないことも知っている。現実問題として、いつ出ていくことになるかもしれないのだからね。 あたしの部屋もシンプルだ。与えられたときのまんま。来た時からあったものしかなくて、あたしが追加したものは何一つない。あたしの荷物っていうのは、日用品以外は一つにまとめてある。いつ出て行けと言われてもすぐに対処できるように。 別に、出ていきたいわけじゃないけど、その気がなくても出て行かなきゃならなくなるのは、経験上知っている。その気がなくても、家族がいなくなる世の中なのだから、それくらいはあるだろう。 帰宅してから、まずあたしがやることはメールのチェックをすること。ここに来てからの日課だ。メールといっても携帯電話のメールじゃなくて、パソコンの方。毎日、アメリカの一条さんからのメールが来るのだ。ちなみに携帯電話は持っていない。 パソコンは、部屋に最初から備え付けてあったものだ。メールを送るから見てくれ、みたいなことがメモ書きしてあった。 メールは今日も来ていた。 内容は、いつもとほぼ同じ。アメリカでの近況と、あたしのこっちの生活はどうかということ。当たり障りのない文章ながら、結構、気を使ってもらっているのがわかる。 一条さんからのメールは、たまに重要なことを知らせてもくれた。あたしの高校への編入手続きが完了したとか、そういうこと。仕送りを振り込んだよ、とかも知らせてくれる。 仕送りは、毎月二十万円。考えるまでもなく、多い。生活費を割り引いても、多額に余る。ぶっちゃけた話、住居代が必要ないのだから、ほとんど余っちゃう。残りは、お小遣いとして好きに使ってくれと一条さんは言ってくれるが、そんなわけにもいかない。第一、そんなにたくさんのお金、気持ち悪い。 だから、生活費を差し引いた後のお金は一切使わずに、そのまんま銀行に残してある。そうしてたら、一条さんもあたしの気持ちを察してくれたのか、アルバイトをしないかと持ちかけてきた。 それが、今やっている一条調査事務所の事務員だ。あたしとしても、無償で他人から降ってくるお金よりは、一応労働して得られるお金の方が使いやすい。その給料が、今のところあたしが自由に出来るお金で、少ないけれど、あたしにしてみればこれで十分なのだ。貧乏には慣れている。 あたしの方も、一条さんにメールを送っていた。近況報告だ。 といっても、あったことを、全部書いて送っているわけではない。一条さんに心配をかけるのも嫌だから、心配かけそうなことは片っ端から除外してる。今日、ストーカーにあったことも書かない。 できあがるメールは、自分で言うのも何だが、とっても無個性だ。今日の天気と仕事のこと。それだけ。色々除外していくと、結局書くことは、その程度しかない。それほど文才もないし。 メールを送信して、一息つく。学校からアルバイト、メールの送信までが日課。あとはあたしの自由時間だ。 自由時間。 あたしにとって、これほど使えない時間はない。何をしていいのかわからないのだ。 テレビもラジオも読書もインターネットも、あたしの習慣にはなかった。習慣化する環境ではなかったのが大きな要因だとは思う。 食事をして入浴しても、それほどの時間はつぶせない。宿題でもあれば時間がつぶせるのだが、今日はあいにくと出ていない。 またいつもと同じで、眠るまでの長い時間ぼーっとすごすことになりそうだ。 そう思いながら、何気なく窓を開けて外を見たとき。 あいつは。 今日、あたしをつけてきた男が、通りからこちらを見上げていた。 あの野郎、本格的なストーカーか。あの齢で、歩む道を誤ってるな。 あたしは窓を閉めて、カーテンを閉めた。 嫌な視線には慣れている。そう思いながら。 |