足 の 指 

2012年12月13日 記

 
 今年の2月より介護保険のリハビリデイサービスに通っています。第一腰椎圧迫骨折と、変形性膝関節症ため、ずっと整形外科に通っているものですから、先生が意見書を書いてくださいました。とにかく軟弱な体、とくにに骨格と筋肉を鍛えなければ、早晩寝たきりになるのは分かっていましたから。午前9時から12時までの3時間ですが、とてもよくみていただいているので喜んで通っています。
 
 ご指導していただいている理学療法士の先生は、一人ひとりを丁寧に見てくださるのです。そして、「褒め育て」で自信を持たせてくださいます。足の弱い私は、そのうち歩けなくなるのではという心配を持っているのです。が、ここで教えてもらうことがとても役に立っているように思います。「歩く時は足の指で大地をつかむように」と言われます。今までそんなことを考えたことはなく、すたすたと無意識に歩いていました。
 
「足の指」は体の一部でありながら、爪を切るときに見るくらいで、その働きというか役目の重さを知りませんでした。5本の指をグー、チョキ、パーにして自由に動かせるように練習することもあります。私は、お風呂の湯船の中でこれをやっていますが、左の指はあまり開きません。気長にやっていこうと思っていますが。

 長い間、生きさせてもらっていますが、知らないことがいっぱいあるのですね。
知っていることはホンの少しなのです。
この歳になっても毎日が発見と感動の連続ですから、楽しいものですが、真剣でありたいと思っています。
うかうかとメシイの状態で暮らしていたのです。いえ、今もそうだと思うのですが、暗闇の中でたどたどしく生きているのです。人間は弱くて無力なものです。ほんとうに。

 先日亡くなられた歌舞伎の中村勘三郎さんは惜しい人でした。小さい時から伝統芸術を継承するべく努力されて、まだこれからという時にさーっとこの世を去られたのですから、人々はその至高の芸を惜しみ、その人柄を愛しました。
この世はそれほど無常なものです。とうてい納得できるものではありません。悲しく、はかなく、頼りないものです。
仏教でいう「色即是空 空即是色」とはこういうことでしょうか。

 明日も知れない人間ですもの、元気な時、隆盛な時、やれるときに、しっかりした働きをしておかねばなりません。ただ今を、精魂込めて生きなければなりません。動物でも植物でもそれを知っているようです。セミなどやかましく鳴きますし、秋の虫たちも喧しく鳴きます。人間は生命が永いものですからついつい油断して、明日も同じ日が来ると思っています。

 人間はこの世に渇望して生まれたと、以前、薬師寺のお説教で聞きました。そんなに望んだものなら目的を達成したかといえば、ノーです。目の前にあるものに動かされて、殆どの人が「何もわからぬままに」一生を終えてしまうそうです。私も、分からぬままにさようならをすると思います。

 この夏、渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」という本を買いました。4月に 幻冬舎から発刊されて以来60万部のベストセラーになりました。渡辺先生は清心学園の理事長さんで、以前、先生の講演を聞いてとても感動して、尊敬する人となりました。
文中の「私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」という実業家の述懐で、 寸暇を惜しんで、他人よりも良い木を、より多く、より速く切っても、気が付けば斧が ボロボロに欠けていました。なぜ斧(自分)をいたわってやれなかったかを悔やんだ言葉で、渡辺先生も自戒の言葉として受け止めると書いておられますが、私にも、ズシーンとくる言葉です。

 「老い」について、平易な言葉でたくさん書いてくださっているので、とてもありがたく、うれしい本です。深い宗教心ですべてが神の恵みとして受け取っておられるのです。
「吸う息がどんなに苦しくても、吐く息は感謝でありますように、すべて神の恵みでありますから」と教えていただきました。私は仏教徒ですが良くわかります。よき師、よき先輩の善導に従って、素直に学んでいきたいと思っています。