ゆるやかな時 

2012年9月23日 記

 
   若き日 はや夢と過ぎ わが友 みな世を去りて
   あの世に楽しく眠り かすかに我を呼ぶ オールドブラックジョー 
   我も行かん 老いたる我も かすかに我を呼ぶ オールドブラックジョー

 アメリカ民謡の父といわれる、フォスターのオールドブラックジョーの歌詞です。これは緒園涼子訳ですが、私の知っている歌詞は少しちがって次のようです。

   友らは みな世を去りて 彼方のよき地に眠り 
   はるかに我を呼ぶ オールドブラックジョー

 ネットで調べてみましたが私の知っている歌詞は出てきません。勝手に創作していたのかも分かりませんが、「友らはみな世を去りて、彼方のよき地に眠り」であって欲しいのです。少しの言葉の違いですが、いつも歌いなれているこれがぴったりくるのです。
今までに、たくさんの友との別れがありましたが、いつもこの言葉をイメージしていました。「彼方のよき地に眠って」待っていてくれるのだと。

 それは、私が仏教徒だからそうした感覚になるのかもしれません。この世を去ってどこに行くのか? 私は仏の居ます浄土とか、地泉に没するとかは分かるのですが、天国へといわれても落ち着かないのです。今の日本の社会では「死んだら天国へ」とキリスト教徒でなくても、一般にそう言われますがどうして?と思います。皆さんもそんなに深く考えているようではありません。そこのところは、もっとも大事なところですから、自分の行く末をよく学んで納得しなければと思う昨今です。
 
 先日、女学校時代の友が亡くなりました。 戦中戦後の混乱期に学校生活を共にした70年にも及ぶ友達です。
体の不調は知っていたのですが、いつも、穏やかに気持ちよく接してくれていましたからつい油断をしていました。そして自分も思いがけない病気になって、老いと向き合う日々を送っていたのです。
「無情迅速」という言葉は知っていても「こんなに早く別れるとは」と迂闊な自分と、非情な現実に茫然としました。
が、フォスターです。「友らはみな世を去りて、彼方のよき地に眠り、はるかに我を呼ぶオールドブッラックジョー、我も行かん老いたる我も、はるかに我を呼ぶオールドブラックジョー」でした。
倶会一処(くえいっしょ)と仏教でも言いますが、又、同じところで会うのです。
 
 近ごろは、「絆」という言葉がよく使われます。東北大震災があって余計この言葉が使われます。「結びつき、離れがたく繋ぎとめているもの」と字引には書いてありました。 大きな災害に遭われた東北の人にとって、人とのつながりはどんなに心丈夫であったでしょうか。
私は、これに「縁」という言葉を添えたいのです。「人と人を結ぶ人力を超えた不思議な力」ということです。すべてのことは、人智では計り知れない大いなるもの深い配慮があるのではないかと思うのです。また、そのように受け取りたいのです。

 私は、二週間前に転んで顔面を打ちました。「こける」なんて!どうして?信じられないことでした。それこそ想定外のことでした。顔の左半分は二倍に腫れ上がって、歯が折れて唇が切れ、三針縫いました。まさしく「老残の身をさらす」ことになりました。


エノコログサ  2012.9.25 toshi

 
 ここ近年、老境に入って驚くことばかりに遭います。「ええっー」と動揺しますが、当然のことです。
いつまでも、いつまでも同じ日が続くわけはないのです。「諸行無常」のこの世、気持ちは若くても肉体は確実に時を刻んでいきます。自分が思い違いをしているだけのことでした。気が小さくて、軽率で、せっかちな自分の性格をかえりみる時、「歳はトシナリニゆっくりしょう」と思いました。

 じっとしていられない性格をしずめて、「ゆるやかな時」を享受しようと思っています。
それは、とても贅沢でもったいないことと思っていましたが、歳にふさわしい熟成された生活をすることは、とても大切ではないかと思っています。「ゆるやかな時」はきっと「豊かな心」をはぐくむことになるのではと考えています。