葉桜の季節 (兄のこと) 

2012年4月23日 記


 一週間前まで、絢爛と咲いていたサクラがさーっと散って葉っぱが勢いよく吹き出してきました。緑したたる私の一番好きな季節。うれしくて心が動揺しています。

 先日のこと、私の実家から兄の25年の法要を営むとの知らせがありました。自分のことにかまけていた日ごろの生活から一変して、実家でのなつかしい思い出にひたりました。
母が亡くなって家を片付ける時、兄の日記をいただきました。それは昭和20年4月1日から、6月19日までの80日間を休むことなく正直に綴られています。国土が米機の空襲で焦土と化す様子。人々の生活のありよう等がよくわかります。これは一日一日が戦争の終末期の貴重な記録です。
 
 兄は、昭和2年に両親の長男として生まれました。先に生まれた女の子は1歳で亡くなったので、周りの期待の中で大切に育てられましたが、そのあと次々と生まれた妹達が6人、弟が1人で兄は8人兄妹の総領となりました。
父は、富山県から出てきて、永い間「灘万」で修行したあと、独立して洋菓子の製造業を始めました。ケーキ類は日が持たないので、主にクッキー類でした。父の仕事は順調に伸びて、商売はとても繁盛していました。職人さん、住み込みのぼんさん、女中さんなど大勢いましたから、いつも活気に満ちた賑々しい家でした。
 
 私は兄と4つ違いですが、早行きだったので学年は3年違いでした。姉は兄のすぐ下の学年でしたから、この3人は一塊であったように思います。
兄が歌っていた小学唱歌は、今でもよく覚えていますし、兄の友達にはさんを付けないで呼び捨てにしていました。
私たちが育った昭和の10年代は、お国にとっても大変な時代でした。満州事変、支那事変、大東亜戦争(太平洋戦争)など、戦争一色に塗りつぶされていました。でも、私たちには幸せな子供時代でした。楽しい思い出がいっぱいです。

 その当時の家族というものはとてもいい関係だったと思うのです。修身、道徳が基盤にありましたから、教育勅語の「親に孝に、兄弟に友(ゆう)に」が基本姿勢でした。
しっかりした社会理念の中で育てられたと思います。幸せなことでした。ありがたいことでした。たとえ国家が戦争をしてもその渦中で、国を思い、家族を思う熱い心が、一人ひとりの胸にありました。それは、決してマインドコントロールされていたのではないと思います。

 兄は、純粋な心の持ち主でしたから、国の大事に殉ずる気持ちでおりました。中学5年で18歳、進学もあったのに、軍隊に入る決心をしていたようです。
日記によると、沖縄戦が益々激烈を極め、特攻隊が死の突撃を敢行している(昭和20.4.16日付)、イタリアのムッソリーニ首相が処刑された(昭和20.5.2.日付)、ドイツのヒットラーが倒れ後任のデニッツ総統が米、英、ソに無条件降伏、(昭和20.5.8日付)、
3 国同盟の2国は降伏しました。それから我が国への本土空襲は日に日に厳しくなり、戦争は終焉状態でありましたが、国民は最後まで戦うつもりでおりました。

  私の家庭では、母は一番小さい妹と弟を連れて奈良県の法隆寺にある親戚に疎開、妹2人は学童疎開で奈良県の信貴山のお寺に、父と姉は家を守るために在宅、兄と私は勤労動員で徴用され軍需工場で働いていました。
食料は底を付いていましたから、各自は必死で空き地に畑を作ってしのいでおりました。兄の日記を見ますと、毎日のように畑仕事をしていて、かなりの労力を注いでいたようです。アメリカの本土空襲が苛烈を極めるこの時期でも、兄は、一家の総領としての責任感いっぱいの行動をしています。自分の家族だけでなく、祖母の家、叔父の家、そこに住む叔母さん達のこと、疎開しているおばあさんのことも気遣っています。(成年男子は戦場に出征していました)
 
  昭和20年6月1日の日記によりますと、
「朝から大和(母の疎開先)に行くことになっていたが、どうも敵の来襲があるように思えてならなかった。しかし、父の言いつけであるので仕方なく8時過ぎに家を出る。県境付近で敵の大編隊を見て、これは大阪が焼夷弾空襲を受けると思い、母のところで用事を済ませてすぐ大阪に引き返す。大阪が近づくにつれ風ますます吹きつのり目に異物が幾度も入る。しかし、もしもの事がありてはいけないと、死物狂いでペダル踏む。ようやく平野(ひらの)に着いたが、煙の充満がものすごく、あたかも我が家付近が延焼中の如くなり。大火のため大粒の雨が降り出す、生まれて初めての大粒なり、やっと家に着いてみれば無事なり、安堵に胸をなでおろす」と。
(自転車で移動していたのです)
 が、「敏ちゃん(私のこと)が天満の東洋紡に動員中なので、その安否を見に行く。途中玉造付近は猛火に包まれているのでこれを避け、ようやく天神橋に出る。しかしそれ以上はとても進むことは出来ない。やむなく都島方面にゆく。昼の2時頃なりしに猛煙のため夜の如く、その中で梅田の方向は猛炎を上げ、地獄絵の如くで煤の黒き雨にうたれ、顔を真っ黒にして、しょぼしょぼと無言で歩む人たちは、亡者の如くなり」と書かれています。
「4時に帰りて入浴中、敏ちゃんがつつがなく帰る」と。

 覚えています。私にとっても大変な日でしたから。
67年も前のことです。大空襲の中を逃げ惑い、私たちは松屋町筋を歩いて近鉄の上六に出ました。まだホタホタと残り火の燃える街を歩き続けて、やっと家に辿り着いたのです。「兄ちゃんが心配して探しにいった」と父から聞きました。


水彩 模写(増山修 風景スケッチ術より) 2012.4.30 toshi

 いま、日記を読んで大声で泣きました。「兄ちゃんありがとう。」その日は、一日中、子供のように泣きました。滂沱と流れる涙を拭うこともなく泣きました。
8 人兄妹のうち兄だけは60歳で亡くなりました。現在7人の姉弟はみんな元気で暮らしています。きっと、兄が徳分を私たちに残してくれたに違いありません。
兄はそれから、軍隊に入りましたが、終戦のあと無事に帰ってきました。両親の喜びはどれほどだったでしょうか。

 優しい兄でした、美しい心の人でした。ありがとうございました。