きさらぎに想う 

2012年2月11日 記


 立春を過ぎて陽射しはグンと明るくなりましたが、まだまだ風は冷たく襟元のマフラーも大きなものを巻いています。私の夫が亡くなりましたのが、平成18年2月13日ですから、もう6年の歳月が流れました。明日、7回忌の法要をいたします。その当時のことを思い出して少し書いてみました。

 私の家は西宮市、阪神大震災で大きな被害を受けました。
そのあと夫は体調を崩して 入退院を繰り返すようになりました。夫と姑(はは)と私の3人家族で、在宅介護はとても無理なことでした。夫と姑を施設に預け、私は2ヶ所の施設に通うという形をとりました。
病状が進んで施設から病院に入りましたが、急性期の病院は永い間置いてくれませんので、次の病院を決めるのも介護者には大きな仕事でした。近くの老人病院か、遠い国立の専門病院かといろいろ迷いました。

 長期療養型の専門病院に入りたいと思っていたのですが、それには紆余曲折がありました。
やっと念願がかなって国立兵庫中央病院に入ることができたのは、かなり病状が進んでからのことでした。そこは神戸の北、三田市にあります。JR尼崎で福知山線に乗り換えて、三田で降りてバスに乗って、バスを降りてから病院までの凍てた道をおそるおそる歩いたことなど、酷寒の雪がちらつくこの季節、その当時がなつかしく思われます。片道1時間30分の道のりを毎日通いました。まるで贖罪者のようにして。
 
 どうして毎日かと思われるでしょう。それは吸痰です。「看護師さんよりうまい」といわれる吸引で、夫の口腔や気管をきれいにして、「ラク」にしてあげたかったのです。一日も休むことはありませんでした。私が行けない時は娘が行ってくれました。
ある時、医長先生の回診日なのにうっかりして、夫のベッドにもたれて眠ってしまいました。「疲れているのですね。介護者が(さき)ということもありますから無理をしないで」と後ろから声をかけていただきました。

 病院での看病をしながら「家で看られないか?」と、いつも考えていました。医師、看護師さんに何回も相談しましたが、「とてもムリ」という答え。
それから、気管と食道の分離術を知らなくて、気管切開だけだったことはとても後悔することでした。胃ロウのあと口から一滴の水も飲ませてあげられなかったのです。これは兵庫医大に入っていた時のことですから、大学病院だから最新の医療を受けられると信じていた自分の不勉強さは恥ずかしい限りです。息子は「介護は遺されたものの納得度にある」と言っていましたが、なるほどと思っています。

 夫は兵庫中央病院で腸閉塞を併発して亡くなりました。78歳でした。姑はその3年前に103歳の長寿で亡くなりました。その通院介護の8年間を無我夢中で過ごしたのですが、 「珠玉の時」を持てたことは幸せでした。「無明」の中で「無心」であったのかもしれません。姑は施設に預かってもらっていたのですが、その日の昼食も一人で食べて夕方亡くなりました。それは、きれいな安らかな顔でした。娘も息子もとてもよく手伝ってくれました。
 
 私は、近ごろ体の衰えが目立つようになりました。膝が痛く、耳が遠く、目が薄くなりました。でも、老いを素直に受け入れにくくて頑張っていたのですが、とうとう、昨秋は 入院する羽目になりました。まわりに心配をかけましたが、また元気になりました。
「生老病死」は人間の定め、有限の命を頂いて生きていることをしっかり腹に入れなければなりません。が、まだその覚悟が希薄なのでどうなりますことやら。

 2月5日は私の誕生日です。永い間、生きさせていただきました。感謝、感謝。
昭和6年生まれですから、満州事変、支那事変、太平洋戦争、終戦、病気、高度成長期、バブルの崩壊、阪神大震災、東北大震災。大波小波を体験しながら、ここまで歩いて来ました。喜びや幸せはそれをはるかに凌駕するもので、とても紙面に書き尽くせるものではありません。
 
 今も、私の心臓は動いてくれています。不思議に思えますし、有り難いことです。
日ごろは、家事の合間にパソコンで文章を書いて、絵を描いて、自分のホームページを埋めています。これも至福の時でございます。