回顧 阪神大震災−(被災者として17年前を思う) 

2012年1月10日 記

 
 1995年1月17日の5時46分のことでした。
ミシミシ、バリバリと異様な音で目を覚まして体を起こした途端、大きなガラス戸が私の頭の上に倒れてきました。
「これは何事、六甲山が爆発したのでは?」
「いやいや、寸毫の疑いもなかった此の地に地震が襲いかかってきたに違いない」と判りました。

 真っ暗な中、懐中電灯を取り上着を着て玄関に走って行ったのですが、家の中は建具が飛び散りガラスが散乱して足の踏み場もない。ともかく靴を履いて紐をしっかり結び身支度を整えました。そのわずかな間にも私の脳裏に不安がよぎる。
「西宮がこんな激震だったら日本列島は沈没するほどのダメージを受けているのではないだろうか!」
「子供や孫達は大丈夫だろうか!」
「お国が安全でありますように、子供たちが無事でありますように」と祈念しました。
その後、震源地が淡路の北淡と聞いて安堵したものです。こちらが震源地なら、日本は大丈夫、必ず復興できると確信したのです。

 
ペイント 模写(入江観  蒼天雪稜)  2012.1.15 toshi

 私どもの住んでいる所は、JR甲子園口駅の北側にある閑静な住宅街ですが薄明かりの戸外に出てみると、壊滅的な様相を呈していました。家屋は殆ど大破し、お向かいと1軒おいて東隣の家は、崩れて道路に横たわっていました。娘を呼ぶ声、母を求める悲痛な叫び声は今も耳に残っています。同じ通りで5人、駅前のビルが倒れて18人と多くの犠牲者を出しました。この世のものとは思えない阿鼻叫喚の極限の体験は心身の奥深く沁み込んでいきました。
 
 その日、民生委員の会合に一緒に行く予定だった北町の友達が亡くなりました。大きな棟が落ちて、ご主人とお孫さんと3人がその下敷きに。「ええっ」無我夢中で駆けつけて、それを確認した時のおどろき。「どうして、どうしてあの人が?」こんな理不尽な出来事はとうてい受け入れることはできません・・・・・・
向かいの娘さんも、2軒隣の奥さんも帰らぬ人となられて、平成7年1月17日は暮れました。
 
 誰がこれを予測できたでしょうか!
「明日も同じ日が来る」と私たちは当然のように思っています。
しかし、大自然の力の前に人間はぼろくずのようにフッ飛び、営々と築いた生活は一瞬のうちに崩れ去ってしまいました。これはただ事ではない。神は何を啓示されたのか?
これが「天啓」ならば、その答えが欲しい。私は神の真意を問いつづけずにはおれなかった。悲しさと空しさを胸いっぱいにふくらませて。

 余震の怖さはあったが、私達の地域では小学校や公民館などに避難する人は少なかったのです。避難所が遠いということもありますが、壊れた家には大事なものがたくさんあるので、車の中で夜を過ごして自宅を離れることは出来ませんでした。それに避難所では近くの人が先に場所を占領していて座る余地もないということ。遺体を安置することも出来ず、また潰れた家に運んで帰って来られました。
人間のエゴむき出しの実態はあまり表面に出ませんが、その現場の醜い姿を見て悲しい思いをしたことは再三ありました。避難所では食事、夜具、衣類などたくさんのものが満ち溢れているのに、自宅で頑張っている人には、タオルのひとすじも、水の供給もなかったのが現実です。(犠牲者 6,434人)

 感動と感謝と不公平と矛盾を織り交ぜて、混乱の中から人々は立ち上がっていきました。これには、全国からの義捐金など大きな協力があり、これは復興の力強い支えでありました。私は国道2号線を走っている時、水の入っているタンク車のフロントガラスに、茨城県救援隊と書いてあるのを見ました。はるばる関東の北の方から飲み水を運んで来てくださったのを知って、熱いものがこみ上げてきました。また知人友人からは、おにぎりやお茶の差し入れなどをたくさん戴きました。「ありがとう、ありがとう」

 去年の東日本大震災の惨禍は阪神大震災と比べようもありません。地震の大きさも、被災地の広さも、そして津波の壮絶さも、そして原発の事故も。
本当にお気の毒と頭を下げるしかお慰めの言葉もありません。これは東北の被災者だけでなく私たち日本人がすべて受け持たなければならないことだと思います。自然を破壊し、環境を汚染し、神を恐れぬわれわれ人類の傲慢さに対する神の鉄槌ではありませんか。現代人は「おそれ」を知らなくなったように思うのです。
しかし、何千年も滔々と流れてきた大河のごとき人間の歴史の中には、こんな悲しみはいっぱいあったのではないでしょうか。そんなものを呑み込んで、人類は逞しく生きてきたのに違いありません。

 今ここで、大自然に順応した生き方を真剣に考えなければならないと思います。地球上に棲息している生きとし生けるものが共生できる世界を目指して、環境を整備し、自然を大切に守っていきたいと思います。動物も、植物も喜んでいるような地球を造ろうではありませんか。大自然の呼吸を感じながら、それに合わせて暮らそうではありませんか。
 
 年老いた私は何も出来ないのですが、謙虚に神を畏れて今あることに感謝する。そして人には優しい心と、暖かい手を差しのべることを忘れないように心掛けています。 
「全壊」のシールを貼られた我が家は、2年後に再建することが出来ました。