五月のはじめに 

2011年5月10日 記

 
  大きな災害をこうむって二ヶ月になります。東北の被災者の方のご苦労はいかばかり、ご家族を亡くされたかたの胸中は癒されることはないように思います。私も阪神大震災を受けて、家は全壊し、友人知人をたくさん亡くしました。その不条理なこと、とても受け入れられるものではありません。でも、歳月はそれをうすめて忘却のかなたへ流してしまうのです。

 風薫る五月となりました。
この時期に私の80歳のお祝いを子と孫がしてくれました。 「人生短し」自分がその年になった実感はあまりないのです。膝や、腰を痛めても、気持ちはずっと同じ、若い時と変わりません。それは幼稚なことだとよく解かっているのです。諦観といいましょうか、「世の中はこんなものだ」「人とはこんなものだ」と悟ることが出来ないのです。だから、一日が喜怒哀楽の中で過ぎていきます。

 先月の在家仏教の講演会で、西村恵信先生(花園大学名誉教授)の
「いのちの水音を聴く」 というお話を聴きました。
先生のお話は何回も聴いていますが、「バケツの水」というのがあります。人は産まれる時バケツをもらいます、その中に水が入っていて人それぞれ違うのです。バケツの底には穴が開いていてポトポト水は落ちていきます。それが無くなれば寿命が尽きたことになりますが、自分には見えないので、残っている水の量は分かりません。

 「バケツの底の水音に耳をかたむける」と教えていただきました。死ぬという真実。これは逃れることの出来ない必然です。人生は苦しいもので、いささかの快楽に騙されて真実を見失っているのです。ごまかさないと生きていけないということもあります。希望という看板を目の前に立てて、真実に目を向けていないのです。

 脚本家の山田太一さんは「死ぬというのは究極の現実。人間は幻想を抱くことで、その現実に背を向け、励まされて生きることができる。芸術も幻想を見せてくれる存在」と書いておられます。(2011.4.27日経夕刊) 東北大震災でも、「生と死」はみんなに問題を提起したと思うのです。あらためて考えることになりました。今朝いた人が一瞬のうちに、違う世界に行くのですから。その痛恨の思いは量りようもありません。

 ある年齢になると、自然に生きている時間が短くなって死が近くなったことを感じます。
70歳代の後半になるとそう感じる人が多いようですが、残り時間は分かりません。しかし、生死事大、無常迅速といって、思わぬ早さで死は訪れるらしいです。私は、死を考えると生はもっと納得したいものだと思うのですが、学びも出来ず、真剣さもなく、空(くう)をもがいているだけです。分からぬままに、自分らしく一生懸命に生きることしかできないのです。

 さあー、今は分からなくても、残された時間があるあいだに少しでも学びたい。それはものすごく貴重な時間だと思うのですが、有効に使えるでしょうか。こう思うのは慾が深いからではないかと又、迷います。
 
 日のちぢまり いのちのちぢまりを見すえている人に
 世のすべてに 是も非もありはしない          良寛