三日月 

2010年11月14日 記


 里の小川の板橋に このごろ朝ごと霜しげくして
 流れも早くなりまさり 冬来る 冬来る

 一日一日、深まりゆく秋をいとおしんでいる今日この頃です。
 今年は9月の中国旅行のあと、なかなか体力が戻らなく秋をあまり感じることなく過ごしてしまいました。旅好きのわたしにはもどかしく残念な思いでしたが、あんなにひどかった咳もほぼ治まりました。約2ヶ月の咳との闘いでした。驚くなかれ、わたしの咳はいつもこうなのです。どんな手当てをしても効果なく結局は「自然治癒」を待つしかないのです。それには2、3か月かかります。


 
三日月 2010.11.10  Toshi


 誰しも生きていく道は、初体験の連続です。誰が自分の行く先を知っている人がありましょうや。まして、「老い」は分かっているようで、その身にならないとわからないものです。ずっと昔、寿命が短かった頃はそれなりに生きることに真剣であったのではないかと思うのです。「人生50年、夢幻の如くなり」ですから、元服するのも12、3歳、早く成熟して一人前になっていました。それに比べて現代人の寿命は驚くほど長く、ついついゆったりと人生を過ごしてしまいます。
 
 私はこの歳になって思うことは、人間の「生死」の問題は、もっと早く学校教育や社会教育で学ぶべきことではないかと思うのです。今までは仏教とか、キリスト教などの既存の宗教がその役割を担っていたのですが、縦社会が崩れ、核家族になって一挙に家庭での 宗教が及ぼす影響がうすくなってしまいました。それで「死」はどんなに厳粛なものなのか、生きているとはどんなに感動的なことなのか、考えられなくなりました。

 近頃では、ご近所のよく知っている人が亡くなられても、知らないままに過ごしています。「亡くなりました」と聞くまではわからないのです。親戚でも知らせてもらえなかったことがあると聞きます。淋しいではありませんか。わびしいではありませんか!
ご近所の人でも、この世から去られた時は、手を合わせてお見送りしたいと思うのです。
「人間は死んだらどこへ行くの」という大きな問題にぶつかります。
 
「生々流転」のこの世界にあって、人とのふれあいはご縁があってと考えています。
親子、兄妹、夫婦などは特別にふかい縁で結ばれているのです。「袖ふれ合うのも他生の縁」といいますから、この世の出会いを大切にしなければと心に銘していますが。
先日のこと、ある人から「仏教では人は死んだら終わりと教えていますよ」といわれました。「えっ、そんなことはない」と強く否定はしたものの、とっさにどう説明したらいいのか言葉が続かなかったのです。なさけないことです。

 朝晩、お仏壇の前でお経をあげる父親、それに添って母も一緒にお寺に行って聴聞するという仏教の家庭に生まれ育ち、それが毛穴からでも沁みこんでいるはずなのに、そして嫁してもずっと浄土真宗のお経(正信偈)をあげて仏教徒でいるつもりですが、何のことはない、正しい教えを披瀝することは出来なかったのです。

 私だけが迂闊だというのではなく、仏教というのがそんな体質を持っているし、僧侶の姿勢もお葬式などに力を入れて、本当にお釈迦様の教えを人々に伝えるという努力が足りないと思います。
しかし、この混迷の時代こそ宗教が必要なのに、人はそれを渇望していないのが大きな原因だと思います。物質文明の時代から、心の問題を必要とする日が来ることを願わずにおれません。

 無明の中で、そわそわと生きている私ですが、もっとしっかり仏教を学びたいと思っています。本当は大学に行って勉強したいのですが、もうそんな余白はありません。
私の夫は本が好きというか、本を買うのが好きで、ものすごくたくさんの蔵書を残しておいてくれました。まるで「これを読んでごらん」と私に言っているようです。仏教関係が多いので読むものに不自由はしません。ありがたいことです。落ち着いてじっくり読みたいと思っています。