この時期

2010年3月31日 記

 
 春先は毎年こうだったでしょうか。寒くて雨が多くって、
今年は特別寒いように思うのです。それに洗濯物を干してカラッと乾く日が少ないのです。
サクラの開花宣言があっても満開までなかなか時間がかかります。そのほうが長くサクラを楽しめるのでいいのですが。

 卒業式があって、転勤があって、入社式、入学式があって、この時期は新しい出発点でみなそれぞれの道を歩み始めます。 私の孫娘も新社会人として東京で就職することになり、どうしていることやらと気にかかります。大学の4年間も東京で暮らしていたのですから馴れてはいるでしょうが学校と職場とでは大違い。人の言うことを良くきいて、しっかり働いて欲しいと思っています。

  この時期ですが、その中には悲喜こもごもたくさんのドラマがあると思うのです。子供が受験でうまくいかなかったら、親の悲しみもひとしおです。テレビなどで見ていますと、東大を合格した人などは、胴上げをし、抱き合って喜びを表しています。しかし、その場にはがっくり落ち込んでいる人もいるのです。その配慮が要ると思うのですが、今はそんなことは考えなくていいようですね。思いっきりパホーマンスをして喜びを誇示する。それが現代なのですね。その代わり反対の立場になった時の覚悟もいります。
 
 私は失敗組みです。今になって母の辛さが良くわかります。親はわが子の行きたい学校に行かせてやりたいのです。
「希望を叶えさせてやりたい」ただそれだけなのです。 私にとって生きる厳しさを体感した第1号でした。
しかし、今、「何十年も生きて元気にしている」これでいいのですが、やっぱりこの時期はいい気はしません。自分の不甲斐なさが情けなくてそれが心の奥底に沈んでいます。

  人生は思うように行かないものです。極端な話ですが自分の最後(死)がこんなに早く来るとは思わなかったという人が多いと聞きました。自分が思っているような道は、なかなか得難いものですが、新学期に心に染まない道を歩き出した人でも、長い人生の間に紆余曲折はありますが結構バランスが取れているものなのです。

 「縁」という言葉は仏教の因縁、縁起などと同じく、前世から決まっていたものとか、人と人を結ぶ人力を超えた不思議な巡り合わせを意味します。
「ご縁があって」とか「縁が深くて」などと納得します。これは人間の智慧だと思うのです。人間は天命を図ることは出来ないので、大いなるものの配剤と受け取ればいちばん落ち着くのです。どの学校に行くか、どの仕事に就くか、どの人と結婚するか、すべて縁なのです。

 この縁は自分に与えられたものとして、ありがたく受け取って、後は自分の努力で人生を開拓して行く。これでいいのではないでしょうか。 そりゃ世の中には偉い人がいっぱいいますし、恵まれた環境で育ち、思うとおりの人生を歩む人もいるでしょう。でも何もかも100パーセント満足という訳には行きません。プラスマイナスが混じりあって均衡を保っているのです。

  司馬遼太郎さんは「不幸は自らの不明によるところが多い」と言っておられます。賢明な人は不幸な目にあうことが少なく、暗愚な者はそれの反対と言うことになります。 だったら愚か者はどうしたらいいのかしらと思いますが。
それは、自分は自分なりに真剣に生きることではないかと思っています。