冬の寂光院

2010年2月20日 記

 
 京都の大谷本廟にお墓を持ってもう22年になります。それは私の強い願いでしたが、思い切ったことをしたものだと今でも思います。
それまで我が家のお墓は広島にあったので、お姑さんがお盆にお参りされるぐらいでした。しかし広島は遠すぎる。
それだけではなかなか決断できないでおりましたが、幸いにもそのお墓は本家の山の中にあって、一族の数基の墓石と一緒に並んでいるのです。本家のご当主夫妻がしっかりと墓守りをしてくださっていて、「分骨して新しいお墓に納めたらいいのでは」と言ってくださったので、夫も決心してくれて大谷廟に建碑することができました。
それは平成元年のことでした。

 そんな、いきさつで京都にお墓ができて、京都との縁はぐっと深くなり、年に何回行くかしら。
掃除とお参りがすめば後は好きなお寺に足をのばしたり、お昼の食事を楽しんだりしています。
お墓を上って行くとすぐそこは清水寺。三年坂、二年坂を下って行くと高台寺。そして円山公園。知恩院、青蓮寺。もう際限もなく名所旧跡が続く。春はサクラ、新緑の候はまばゆいばかり。夏、祇園祭がすめば静かになって、秋は観光の季節、紅葉にどっと人が押し寄せます。

 先日、友達をお誘いして大原に行ってきました。
京都の北、大原の地は最澄が延暦寺を建立された時に草庵を結ばれたのが最初で、いくつもの古い歴史あるお寺が千年の重みたたえて鎮まっています。
私は以前に比叡山から回って三千院に行ったことはあるのですが、そのとき、寂光院に行けなかったのが心残りになっていました。
また、おととし円山公園の東にある長楽寺へ行きました。ここはあまり知られていないところですが、平家物語の建礼門院がご落飾(剃髪)されたところで、5月4日、5日には琵琶で平家物語が奏でられるというその前日だったので、これも惜しく残念な思いをしていました。

 真冬の寂光院をイメージして胸をときめかして行きました。
当日はどんより曇った空模様、バス停の大原を降りて寂光院に向かいましたが、冬の山里は人の姿もなく、畑には葉が茶色くなった大根や白菜が自家用らしく残されていました。ここで雪が散らつけば思うとおりになるのですが、ポツポツと雨が降ってきました。15分ほど歩くと山ふところに抱かれた慎ましやかなお寺に着きました。

 平清盛の娘、建礼門院徳子は、高倉天皇の皇后になり、安徳天皇を産みました。一族の喜びはいかばかり、「平家にあらずば人にあらず」というところ。
が、清盛が亡くなってからは、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と。
忍び寄ってくる一門絶滅の無常の嵐は、苛酷きわまりないものでありました。源氏に追われて都落ちした平家は、ことごとくの戦いに敗れて壇ノ浦で最後の戦いをします。
が、ついに平家の総大将知盛は「すべてのことは見果てつ」という言葉を残して入水します。清盛の妻である時子(二位の尼)は孫の安徳天皇を抱いて海に沈みました。建礼門院も続いて入水したのですが、源氏に引き上げられて、京都に連れ戻されました。
 
 建礼門院は尼になり寂光院にて、僅か7歳で西海に沈んだ我が子安徳天皇と、滅亡した平家の菩提を弔うために阿弥陀如来に手を合わせて終生この地で過ごされたという。寂光院の本堂には6万体地蔵菩薩という本尊があり、その両側に建礼門院と阿波内侍の像があります。どちらも先年の火災で破損したので、新しく作られたものらしい。その端正な優しいお顔、手を合わせられたお姿には魅せられました。

与謝野晶子の歌に、 ほととぎす治承寿永の御国母 三十にして経よます寺  というのがあります
 
 平家物語の大原御幸で、後白河法皇が寂光院に建礼門院を訪ねていかれるくだりが、そのまま実現されそうな雰囲気の所でした。
文章に出てくる池も、みぎわの桜も、姫小松もそのままあるのです。後ろの翠黛の山もそのとおり。山から墨染めの衣を着た建礼門院が岩伝いに降りてこられるのではないかと思いました。

後白河法皇の歌  池水に汀の桜散りしきて 波の花こそさかりなりけり
建礼門院の歌    思いきや深山のおくに住居して 雲井の月をよそに見むとは
 
 平家を滅亡に追いやった張本人の後白河法皇が訪ね行かれるところがミソです。この平家物語の哀史をひときわ悲しく思えて胸を抉るのです。
どこかで読んだのですが、平家は一族の仲が非常に良かったのです。男子はことごとく抹殺されましたが、女は公家などに嫁していて免れました。だから子孫は存在するのです。それが救いです。ほっとします。それに比べて、源氏は親子兄妹の仲が悪くて、骨肉あい争って子孫は絶滅とのことです。
 
 また、季節を変えて寂光院に行き静かに手を合わせたいと思っています。