永平寺 (道元とその弟子)

2009年10月26日 記


  10月23日、24日と福井を旅して、永平寺に行ってきました。
今から20年ほど前のこと、NHKのラジオ番組に「こころをよむ」というのがあり、
私 は「正法眼蔵随聞記」のテキストを買って聴いておりました。その中で深く心の中に残るものがありました。
それは道元の弟子「懐奘(えじょう)(1198〜1280)」のことです。
 
 曹洞宗の開祖である道元(1200〜1253)は「正法眼蔵」という経典を著しました。高弟の懐奘は師に従ってその教えを聞き書きしたものを「正法眼蔵随聞記」として残しました。これは、親鸞(1173〜1262)の弟子の唯円(ゆいえん)が「歎異抄」を書きあらわしたのとよく似ています。
どちらも、師のそばに仕えて、師の平素の言動を書き留めていたのですが、佛教の真髄をわかりやすく述べていて、後世に残した功績はとてつもなく大きなものとなりました。道元も親鸞も弟子がそんなものを書きとめていることを知らかったかもわかりません。
 
 私は、その懐奘が道元を慕って師に仕えぬく姿勢に、尊敬と憧憬を深めるのです。
懐奘は道元より2歳年上で、すでに天台宗、浄土宗、達磨宗でその奥義を極めるほど学佛道を修めた人でした。
それほどの人が中国から帰朝した道元を訪ねてその人格の深さにたちまち傾倒してしまうのです。35歳の春、道元の膝下に身を投じてからの懐奘は影の形に従うように道元の傍らに侍して心身を尽くし、 「正法眼蔵」95巻を後の世に残すべく整理、書写したのです。
師の仏法保護のために渾身の力で精根をかたむけました。この崇高な無私の姿には心を打たれます。

 これほど偉大な弟子にめぐまれた、道元とはいかばかりの人かと思いますが、懐奘は道元であり、道元は懐奘と一体となっていたのではありませんか。これこそ、御仏様のお手回しとしか考えられません。

 彼は京都の名門貴族の生まれです。18歳で比叡山に出家して天台を初めたくさんの学問を学びました。 当時の高位の僧侶は権勢を誇っていました。
ある時、母は「名利の学業をなさず、黒衣の人にして、背後に笠をかけ、道を歩いて行け」と諭します。
きびしい母の願いを深く心に刻んだ懐奘は再び比叡山に登ることは無かったといいます。

 懐奘は命終に臨み「自分の遺骨は道元のそばに埋めるだけでよい。わがためにする法要はいらない」と言いました。それは生々世々にわたり、道元に奉侍せんと願うひたむきな赤心のあらわれでした。
彼は若き日に聞いた母の祈りをうけとり、名利を離れた一生を貫き通した純粋な仏者でありました。道元が1253年に入寂して27年後のことですが、彼は同じ日にみまかることを願いましたが1280年8月24日、道元の忌日より4日前に亡くなりました。
懐奘は「先師は半夜に円寂せり予もこれを慕う。丑に至って往くべし」といって師と同じ時刻に往かれました。
遺偈(ゆいげ)に

  八十三年 夢幻のごとし。 
  一生の罪犯 弥天を覆う。
  而今(にこん)足下無糸にして去る
  虚空を蹈翻して 地泉に没す。

 懐奘禅師が入滅されてから、今年で729年がたちました。
私のような学の無いものでも「正法眼蔵随聞記」をひもとく事は出来ます。
そして高邁な仏道の一端に触れて心をあらたにしています。ありがたいことです。
懐奘のまことの心に胸が熱くなり、崇高な人間のすがたを知ってうれしさでいっぱいです。
彼は今も道元に仕えているのです。
永平寺の承陽殿(じょうようでん)は道元の御真廟で、懐奘は師の横に祀られていますが、その建物の横の扉はいつも開けてあるのです。師のお世話をする懐奘が出入りするようにしてあるのです。私は、このたび永平寺で見てきました。建物の左右にある古い木造の扉は開けてありました。

 すがすがしく満ち足りた旅でした。家に帰って、靴下を脱いで、「あっー」と驚きました。
白い靴下の底は真っ白、汚れていないのです。あれだけ歩いたのに。
永平寺は道元が中国で修行した天童山を模して作られたので、建物の間は回廊でつながっているのです。どれだけ修行僧の方は拭いていてくださったのかしらと思いました。
座禅の精神を日常に生かしていくことが大切と「動く座禅」と言われるらしいです。

  (参考書物 鈴木挌禅著「正法眼蔵随聞記」昭和63年)