早春の香り

2009年2月16日 記


 今朝、玄関の戸を開けると「ぷーん」と高雅な香りがただよってきました。
「沈丁花が開花したあー」と近づいてみますと、3つ4つばかりパーッと咲いているではありませんか、ここしばらくの暖かさで一挙に開いたのですね。春を告げる真っ先の香りです。寒さの中でちぢこまっていた体や心にほっと安らぎを与えてくれます。

 清水寺の貫主であった大西良慶さんは、「90歳になって初めてわかることもある」といっておられましたが、本当にその歳になってみないと分からないことがあるものです。
私はずっと寒い季節が好きだったのです。吹雪の中を歩いてみたいと思っていたほどです。網走の天都山でそれをやってみました。雪は上から降るのではなく、横殴りに吹きつけて舞い上げるのです。飛ばされそうになりながらその猛威を体感しましたが厳しいけれどちょっぴりうれしかったものです。

 それが、近頃は寒さがこたえるのです。つま先や足首の冷たさには我ながら驚くほどです。靴下を二枚はいても、レッグウオーマーをつけてもあまり効果はありません。歳とともに血の循環が鈍くなっているのでしょう。先日、老人健診で身長を測りました。なんと、若い時より5センチも低くなっているではありませんか。ショック、ショックでした。第一腰椎の圧迫骨折をしたのが大きく数字となって表れたようです。

 そういえば去年の同窓会で、「身長が8センチも小さくなったのよ」という声がきこえました。私は「まあ、なんとオーバーなこと」とその人を見ましたら、杖を支えに立っていました。背の高い人だったのに、イメージがすっかり変わっていました。若い時に、誰がこんなことを想像したでしょうか。この歳になってはじめて老いを体験し、人生を実感して、しみじみと味わうことになるのです。

 薬師寺副住職の山田法胤さんのお話を先日聴きました。
「唯識における三つのこころ」という演題ですが、
法相宗ではこころを心、意、識の三つに分析しています。
「心」は肉体と精神を持続するもの、
「意」は志とか目的といったもの、
「識」はこれには末那識(まなしき、我執、分別識)と、阿頼耶識(あらやしき、認識を蓄積する、蔵識)とあるのですが、これが私たちを動かしている元なのです。簡単には潜在意識とか我執です。

 これは変えようとしてもなかなか変えられないものらしく、 パウロ2世でも「我が欲する善はなさず、我が欲せざる悪はなす」と言われています。
「なにごとも、みな過ぎぬれど朽ちせざる、たのもしの種子(たね)はうらめしきかな」という歌もあります。
潜在意識は朽ちることはなく重くこころを支配しているのです。
その私たちの種子(しゅうじ)を変えていこうというのが唯識学とのことで、こころで物事をつくりかえていくことを目指しています。この三つのこころをいつも田んぼのように耕しておくことが大切と教えていただきました。
とても難しいことですが、まだまだやれることがあると思えば希望も湧いてきます。また、目標があるととても楽しく思えるのです。顔や姿は日を追って老醜と化していきます。それを嘆いていても仕方ありません。それを補う以上の「こころ」を鍛錬して豊かな日々を送りたいと思っています。

 去年の秋に桜草の苗をもらいました。赤が3株、白が3株、それがすくすくと育って年末に花が咲き始めて、大寒の間もたくさんの花を咲かせていました。見た目には可愛らしくて細い茎なのに雨にも雪にも強く、ものすごくしたたかな花です。それに、いい匂いをあたりにプンプンと撒き散らしています。あまりに繁茂しているので切って、仏壇や玄関に飾っても萎れることなくずっと元気ですましているのです。なんという生命力でしょうか。

 桜草とはこれまで縁がなかったのですが、この厳寒の時期に鮮やかな色で咲き誇るこの花を、おおいに見直しましたし可愛がっていきたいと思っています。