舌切り雀

2008年11月30日 記


 ちかごろ、私は自分の来し方をおぼろげながら振り返って、「私は童話の舌切り雀のお婆さんではなかったかしら」と思うのです。端的に言えば慾が深くて大きいツヅラを欲しがります。中からお化けやガラクタが出てくるのに、また同じことを繰り返します。

 それは、金銭や物質のことだけでなく、「あれもしたいこれもしたい」という欲望と言えば そうですが、 したいことは積極的に行動するのです。ただそれだけだったら前向きな姿勢として評価されるかもしれませんが、「ほどほど」のところのわきまえが無いのです。

 舌切り雀のお婆さんは、すずめが糊を食べたので怒って舌を鋏でチョン切ります。
すずめは鳴きながら竹薮の家に帰ります。やさしいお爺さが尋ねていくと、すずめは喜んで、おじいさんにご馳走をいっぱい出して歓待します。帰る時、大きいツヅラと小さいツヅラを出してどうぞどちらかをお土産に持って帰ってくださいと言いました。お爺さんは小さいツヅラをもらって帰りました。

家に帰って、ツヅラを空けてみると、中から宝物がたくさん出てきました。お婆さんは 同じようにすずめのお宿に行って、帰るときは大きいツヅラを背負って帰りました。
そして途中で中が見たくて我慢ができずあけてみます。中から妖怪や蛇など恐ろしいものが出てきて、お婆さんは逃げて帰って、自分の慾の深さを反省します。

 このおばあさんは人間が誰もが持っている当たり前のことをしたと思うのですが、やさしいおじいさんは、私の夫とよく似ているのです。夫は、小さいツヅラをもらってくる方なのです。私はどれだけ歯がゆい思いをしたことでしょうか。
夫婦は一方の足りないものを他方がそれを補おうとするのです。きれいごとばかりではすまないことがあります。しかし、昔話とかお伽噺にでてくるお婆さんはたいがい悪役ですから、女は根本的に慾が深いのかもしれません。

 先日、在家仏教会の講演会で花園大学の名誉教授の西村恵信先生の話を聴きました。
演題は「いのちの音をきく」でした。
日本は湿気の多い国ですから、朝霧、夕靄、霞とかぼんやりした気象があらわれます。「はっきりしない、ぼかしておく」といわれる日本人独特の感性は、気候に影響されていることが大きいらしいのです。
徒然草に
「春くれてのち夏になり、夏はてて秋くるにはあらず。春はやがて夏の気をもよおし、夏よりすでに秋はかよい…….」 と兼好法師も言っています。

「夏と秋とゆきかう空のかよいぢは かたへ涼しき風や吹くらん」     藤原敏行
「真萩散る庭の秋風身にしみて 夕日のかげぞ壁に消えいる」      永福門院

 人間も年を重ね70代も後半になると、じっと心をしずめて、聞き入ると風の音、木のそよぎ、などの周りの小さい音から、全体として大きなものが動いていく音も聞こえるように思うです。時代の音、人の命のかすかな刻みの音までが伝わってくるようでございます。
「裏をみせ表を見せて散るモミジ」
「きのうは悟りきょうは迷いの秋の暮れ」
悟ったつもりが、また今日は迷いの境地。私だけではないのですね。

 舌切りスズのおばあさんの強欲さは年とともに薄らいだかもしれませんが、人間の原罪として持っているものですから、その慾というか執着、努力をよい方に使えるようにと思っています。
西村先生のお話によりますと、人間は生まれた時にみんな神様から、水のはいったバケツをもらいます。小さいのも大きいのもありますが、どれも底に穴があいています。上から見ているから底の穴から水の落ちていくのがわからないのです。いつかは空っぽになるのです。「積算から逆算へ」という言葉も教えていただきました。


 人間は限りある命を知っていながらも、それに対峙することなく、目の前に希望という看板を立てて前へ歩いて行っているのですとのこと。

「ありし日に憶(おぼ)えたる無と今日の無とさらに似ぬこそあはれなりけり」      与謝野晶子

 最近の世界はただならぬ様相です。簡単ではないと思うのです。
これから来るべき社会は 大激動の時代になると思います。でも、じっと耳を澄ませるのです。
風のそよぎ、木のささやきが聞こえるではありませんか。このすばらしい大自然に抱かれて、まいにち穏やかに生かしていただいていること、ありがたく感謝でいっぱいです