ほいらーん

2001.3.22 記

十年以上の歳月が流れた。兄は惜しくも六十歳でこの世を去った。

私が知っている兄のいちばんいい顔をしていた頃のことを、綴ってみたいと思う。

 初夏の頃か、秋口なのかもう思い出せないが、自宅の前の大きな公園で、近所の男の子が夕方、トンボを取るとき「ほいらーん」と掛け声をかけるのだ。
 昭和十三、四年ごろではなかったろうか。支那事変が始まっていたと思う。(支那事変と言って森首相はひんしゅくをかわれたが、そう呼ばないと本当の昔がもどってこないのだ。)兄は、小学校の高学年で、元気に走り回っていた。学校へ行くのも誰よりも先に行って、窓を明けなければ、気が済まないと言うほどせっかちだったし、成績も一番だったから近所の子供達の中では、リーダーシップを取っていたのだろう。

 掛け声も「ほいら―ん」だし、トンボをとる道具も「ほいら―ん」なのだ。近くに、光洋精工と言う工場があって、ベアリングをつくっていた。その鋼球のくずが工場の裏口に捨ててあるのだ。兄達はそれをもらってきて、5〜60cmほどの糸の両端に球をくくりつけて、それを赤や青のセロハン紙で包むのだ。

 空は高く、群青の色は深く澄み渡っていた。10メートルほどの天空を、鬼ヤンマが群れをなして東から西へすいすいと,飛んでくるのだ。「ほ〜いらん、ほいら〜〜ん」と掛け声とともに一斉にトンボめがけて球を抛り上げるのだ。トンボは虫かと思ってパクッと口にいれたとたん、忽ちまっさかさまに落ちてくる。地上に落ちたトンボは大人の手のひらもあろうかと思えるほどの大きさで、無傷で美しい。黒い体に黄色の縞があって、少年達が目の色を輝かせるのもうなずける。兄は、かなりよく捕っていたのに、家ではその姿をあまり見なかったのは、又、空に返してやっていたのかもしれない。

 兄のやさしい性質を思い出すとき、私には忘れられない事がある。太平洋戦争の末期、兄に招集令状がきた。いよいよ明日は軍隊に入隊するという時、その晩なかなか眠れなかった私は寝床の中でじっとしていたら、兄が姉に「敏ちゃんは、体が弱いから気をつけてやってほしい。あいつが病気になった夢を見たから心配や、頼むで。」と言っているのだ。寝たふりをしながら、私は改めて兄の妹達を思うやさしさと、長男としての自覚の重さを感じ取って胸がいっぱいになった。

 幸いに、終戦後、兄は無事に帰還した。父や母の喜びはどれほどだっただろうか。