追想旅行記

2008年5月30日 記


 中国四川省の大地震は目を覆うばかりの被害で、山々の崩れようなどは、阪神大震災をモロに受けた私たちでも想像を絶するものです。早く復旧されますように、安らかな日が訪れますようにと祈らずにはおれません。

 1985年8月に初めて中国へ行きました。それから立て続けに3回中国を旅しましたが、書道の一門として行くのですから、それに関係のあるものを追ってかなり奥地を旅しました。永い間家を空けるのですから、私のように高齢の母(姑)を抱えている者は、それなりの覚悟がいりました。

その当時は上海に入って一泊して、国内線で西安に行きました。西安は陝西省の省都で昔は長安という日本では京都のような古都です。堅牢な城壁に囲まれたていました。発見されたばかりの秦の始皇帝の兵馬俑は、まだ発掘作業中でしたが見せていただきました。その後もまだまだたくさんの人や馬のヨウが出てきましたから、これは農夫が畑を掘り返していて見つかったものですが20世紀最大の発見でした。
また、唐の第六代の玄宗皇帝と楊貴妃が暮らしたという華精池も訪れました。

 一番印象に残っているのは、大雁塔(大慈恩寺)です。玄奘三蔵がインドへ渡ってたくさんの仏典を持って帰って、ここで漢訳をされたのです。五層の塔は今も残っています。
そこには、唐の三筆と言われた楮遂良(ちょすいりょう)の雁塔聖教之序(がんとうしょうぎょうのじょ)という名筆が刻されているのです。私はその拓本を手に入れることが出来ました。
この塔の前に立つと悠遠な歴史を感じます。三蔵法師がインドへ苦難の旅をされたこと、それを「大唐西域記」として残されたことなど偉大な仕事をしてくださったおかげで、日本の仏教は大きな恩恵を受けることが出来ました。

 西安を早朝に出発して渭水を渡り、北西何百キロというのでしょうか黄河の上流の黄土高原を走りつづけて、麟游県という所に着きました。そこには、楷書のお手本といわれる欧陽洵(おうようじゅん)の九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)という碑があるのです。
その地に日本人が行ったのは、遣唐使以来、1200年ぶりとのことで、近隣からもたくさんの人が来て日の丸の旗を振って迎えてくれました。唐の時代の名人の碑が大事に建物に覆われて保存されていたのは、とてもうれしいことでした。中国では、国内で戦乱、動乱が幾度も起こっていますが、文化遺産は民衆が大切に土の中に埋めたりして護ってきたということです。

 西安から、四川省の成都へはプロペラ機に乗りました。上空から見ると山また山の僻地のように思いましたが、劉邦、項羽時代からの歴史の古いところです。
「蜀の桟道」といって、昔は人も馬も険しい山の深い谷に面した細い道を、命がけで越えて蜀の国に入ったのです。
でも、四川盆地は、米、茶を産する肥沃な地らしく、三国志に出てくる劉備はここで漢の高祖として帝位についたのがよくわかります。
私たちは四川大学で、貴重な書の原本を見せていただきました。マスクと手袋を着けたことを覚えているのに、名品の名は忘れてしまいました。都工堰(とこううえん)杜甫草堂など名所を回りましたが、今回の地震で大きい被害を受けられて、胸が痛みます。

 次は雲南省の昆明に入りました。雲南は少数民族の多いところで、服装でそれがわかります。中国には56の民族があり漢民族を除いた55民族が少数民族というらしいですが、昆明ではペー族、ハニ族、ナシ族などの名前を覚えました。
道端に座って太ももの上に布を広げて刺繍している女の人を何人も見ましたが、下書きもしないで針を刺していました。藍色の服に藍色の頭巾をかぶっている人、子供を腰の後ろに広い紐で結わえている人など、写真をたくさん撮りました。
添乗員のMさんは回族で豚肉は食べないそうです。雲南はかなり南に位置していてベトナムに近いものですから、みんなでバナナを買って食べました。そのおいしかったことは忘れませんね。

 私たちはその後、石林を回って、上海に戻りました。上海では朶雲軒(だうんけん)で筆、墨などを求めて、後は文物や友諠商店でお土産を買って旅の締めくくりをしましたが、「やっぱり、中国ってひろいなあー」と実感しましたし、四千年の歴史の重さを、ずっしりと 受け止めました。