春のうららの

2008年3月31日 記


 今冬はとくべつ寒かったので、春の訪れは遅いのかと思いきや一挙に暖かくなって早くもサクラの時期になりました。
日曜日の今朝近くの公園に行ってみましたら、まだ2分か3分咲きというところでしょうか。細い雨が降ってきたし今日は肌寒いということで、サクラたちは縮んでいる様子。これでは満開がもう少し後になりそうなのでゆっくり楽しむことにします。

 当たり前のことなのにぜんぜん予想していなかったことが、それも喜び事がこの3月に重なりました。
娘の長男が社会人として門出することになりました。そして、次女が大学に進学します。長女は東京の大学にいますから、まあー、娘の3人の子供たちが大きく成長したということでうれしいことでした。

 もうひとつ私ごとですが、あーっという間に喜寿を迎えました。
今さらながら年月の矢のごとき速さに驚くばかりです。私は子供の頃から虚弱だったので、大勢の兄妹のなかで私一人が両親の心配の的でした。カゼ引きはいつものこと、「コンコン、コンコン」と咳ばかり、扁桃腺は腫れる、目は結膜炎、耳は中耳炎、と弱いところばかり、自分自身も「体が弱い」ときめていました。でも、どんな時も学校を休むのが嫌で、小学校三年から六年生までは皆勤賞をとっていました。

 それが、20歳の時でした。風邪をこじらせて肺炎になり、そして肋膜炎と肺結核になりました。40度以上の高熱が何日も続きました。
母方の祖母は「はたちまで育ててきたけれど、もうこの子は助からないから諦らめなさい。」と母に言ったそうです。母は一夜にして髪の毛が真っ白になったといいます。私は「死にたくない」の一念でした。人間として生まれて、このまま死んでなるものかと強く思っていましたから、それを神仏に願いました。「60歳まで生かして欲しい。」と。

 そして、ストレプトマイシンやヒドラジッドの新薬のおかげもあって、少しずつ良くなってきました。肺結核といっても菌は一度も陽性になったことはありませんから、衰弱した体を回復させることに専心しました。療養といってもラクなものです。痛いところも苦しいことも無く、ひたすら安静にして、おいしいものを食べて体力をつけることだけです。牛乳を飲んだり肉類をたべたりして、苦手を克服していきました。もともと細い華奢な体でしたから人並みになるには5年の療養生活を経ることになりました。

 25歳の時、結婚しました。今から2年前に夫が亡くなるまで50年の結婚生活でしたが、それは、平穏無事であったわけではありません。大波小波がいつも打ち寄せて、緊張の連続でしたが不思議なことに、病気はしませんでした。病気をしているヒマがなかったというのが実情でした。自分で言うのもおかしいですが、一生懸命によく働きました。

 毎年、決まったように年末から冬の間カゼを引くのに、ことしの冬は珍しく元気で過ごしました。
何故か?よくわかっているのです。体をラクにしているのです。怠け者のようで心苦しいのですが、今までのように無理をしないし、旅行もやめているのです。先日、消化器の内視鏡の検査を受けた時、モニターに映っている自分の体の中を見て、かなり衝撃をうけました。自分の体でありながら何も知らなかったのです。いつも一緒にいるのに初めて見たのです。それは、とてもきれいでした。77年も働いてくれているのに知らなかったなんて。これこそ生かされていたのです。神佛の働きを感じました。

 体を酷使して努力する。体に鞭打って頑張る。私はずーっとそうしてきました。まるでそれが魂を高めるものであるかのように。肉体より精神の方を優先してきましたがその考えは間違っていました。魂は自分のものだけれど、肉体は神佛からの借りものではないでしょうか。大事に使わせてもらわなければならないのです。それがこの歳になって初めてわかったのですからボンヤリしていたのですね。

 「60歳まで生かしてください」と祈願した「約束の歳」から、もう17数年も過ぎました。

 ありがたいことです。何があっても不足はありませんが、実際はそんな綺麗ごとですまないかもわかりません。でも、私は「なむあみだぶつ」と仏様に帰依していますので、それでいいと思っています。それしか私には何もできません。77年の年月を加護していただきました。阿弥陀様のところには、夫も、姑も、両親もご先祖様もおります。
いえ。私にとっては、両親が阿弥陀如来なのです。そう信じているのです。